青風高校 川上颯の物語 第四章
王様の泣きたいほど愛しい、日常。
「これは腱炎だね。でも軽い段階で来てくれたから、大事にはならさそうだし大丈夫。よく気がついたね」
医者に行って告げられた言葉に心底安堵する。やはりあの時の自分の感覚は正しかったのだ。俺は走るときに全神経をコースに集中することはできない。周りを見て、自分を見て、タイムを見て出来うる限りの計算をする。それは俺が俺として勝つための大切なことだ。
「なんか引っ張られる感覚がしたので……でも、早く先生に見てもらえてよかったですよホント!」
「あはは、言うねえ」
白髪交じりの先生はニコニコと笑みを深くしてカルテを捲っている。何やら流し読みをして、ううんと唸っていた。
「駅伝部に入ってるんだね。なるほどなあ。どう?調子は」
「いい感じです!楽しいですよ~!」
「そうなんだね。でも、去年とか自主練しすぎてなかった?ほどほどにね」
「ですよね~!気を付けます~」
先生は俺の言を聞いてまた嬉しそうに笑った。優しい先生が担当で良かったなあ、などと頭の片隅でふと思った。
ストレッチをもっと入念にするようにと釘を刺されて、テーピング用の治療用品をいくつか貰った。あの先生ならまた見てもらってもいいかもしれない。まあ、病院など縁がない方がいいのだが。
俺はきっと、怪我を溜め込みすぎたら壊れてしまうと思う。例えばテレビで見るような、重度の怪我をしたがリハビリで復帰したみたいな感動を呼ぶストーリーは俺には作れない。リハビリを頑張れるのも才能だし、そのリハビリで最大限の成果を出せるのも才能だ。俺は自分で自分を自己分析して、きっとリハビリで結果はあまり出せないだろうと思っている。俺には絶望的に運がない。
ずっと夢見てた俺にはきっとなれない。
だが、少しでも夢に近づくことはできる。
だから笑ってみせるのだ。明るく振舞ってみせるのだ。暗い顔なんか見せたら、きっとみんな離れていってしまうから。
会計も済ませたし、さあ帰ろうかとエントランスへ向かう。空を見上げたら今にも雨が降りそうなほど、分厚い雲が真っ黒く覆っていた。今日は部活休みにしておいて良かったなあと改めて思う。
最近練習続きだったので、休養もかねて休みだと連絡したのは今朝のことだった。やりたいと言う声が多かったが、今怪我人を増やすわけにもいかない。素直に家に帰ってくれと諭し、何とか丸く収まった所だ。みんな何だかんだ言って駅伝バカだ。
「ほら、ばあちゃん、俺持つからいいってば」
聞き覚えがある声がして振り返ったら、宮下伊吹が小さなおばあさんと何やら言い合いをしているところだった。荷物をどっちが持つかで揉めているのだろう。自分が持つと言って聞かない宮下と、申し訳なさそうに大丈夫かと訊くおばあさん。
宮下伊吹と最後に話したのは一週間前のことだ。
それから一切勧誘活動はしていなかった。今いる部員の育成や、大会準備に追われていたのもあったが、今の宮下を入れるべきでは無いのは分かっていたのだ。宮下は起爆剤みたいなものだ。あの走りが部員の刺激になるか、はたまた悪影響を及ぼすか。
「え……」
何となしに眺めていたつもりだったが、いつの間にか結構時間が経っていたらしい。はっと気がついたら、そこにあったのは宮下の少し驚いた顔。おばあさんも俺の存在に気がつき、少し不思議そうな顔をしながらも笑って会釈してくれた。
「こんにちは!」
にこっと笑い返して見せたら、宮下はこの上なく嫌そうな顔をする。それとは対照的におばあさんの笑みは深くなった。
「伊吹、この方は?」
「……駅伝部の部長。なんか、入れってうるさくて」
「川上颯と言います!宮下くんの走りに一目ぼれしまして……あはは、うちの部に入ってくれないかな~と声をかけたんです。振られちゃったんですけどね!」
「あらあら、そうだったんですね。でも駅伝なんて面白そうじゃないの。伊吹、やってみたら?」
おばあさんは優しく宮下に笑いかけた。その姿に俺は少し面食らってしまう。こんなにも柔らかく受けいれてもらえるとは思っていなかったのだ。しかし宮下はどこまでも頑なだった。
「無理だよ。俺が部活やったらばあちゃんの付き添い誰がやるんだって感じだし。そもそも駅伝って靴とかジャージとか色々いるだろうし……」
「でも昔から走るの好きだったじゃないの。折角部長さんが声かけて頂いてるんだし……」
宮下は黙り込んでしまう。じっとりとした目線を向けられて、ああ、俺のせいなんだと思った。おばあさんに隠したかったんだ、と。
「ばあちゃんね、少しばかり貯金ならあるの。伊吹がやりたいって思うなら買ってあげられるから。だから何も心配なんかしないで」
「要らねえよ!」
さっきまで穏やかに話を聞いていたはずの宮下が、おばあさんの言葉を遮って大声を上げた。そのまま強引におばあさんが持っていた荷物をひったくって、握った手から覗く爪が真っ白になってしまうくらい強くカバンの紐を握りしめた。
「ばあちゃんの金を使ってまで部活やりたいなんて思わない!今までの生活で十分満足なんだよ俺は!」
もう帰ろう、と宮下はさっさと歩いて行ってしまう。おばあさんがその背中を慌てて追って行った。
「宮下ァ!」
宮下はかつての俺だ。駅伝部がまだ今みたいに輝いていない頃、全てを諦めたまま笑っていた俺の姿そのものだ。
それでも俺は変えた。変えられることが出来た。そして今もその途上にいる。失いたくないなら全て守ればいい。それが俺の考えだ。
「俺たちは全国に行くチームなんだよ!金なら俺が上手いこと工面してやる!ばあちゃんの付き添いがしたいんなら、上手く他の部員に口添えしてやる!お前が入りたいって思うなら、俺は協力してやる!」
宮下は振り返らない。おばあさんは今にも泣きだしそうなほど、瞳に涙を一杯に溜めていた。
日が暮れていく。春が抜け落ちた風が、ふわりと若葉を舞い散らせていった。その中で俺は叫んだ。多分これが、人生で一番叫んだ日になるのだろう。
「お前は逃げてんだろ!?自分の環境がなんだ?金がなんだ?そんなの正直どうでもいい!お前の脚が使い物になるのかどうかが知りたいんだよ俺は!」
宮下伊吹は使える人材だと思う。しかしそれには条件がある。宮下自身が、自分を使ってもらおうと動くこと。自分がいかに使えるのかを理解すること。
さあ、宮下。これが最後の問いかけだ。
「自分の脚に自信があるなら、お前には入る権利があると思うよ。そして入ってから、ばあちゃんの付き添いをしてでもスタメン入り出来る実力を付ければいい」
それなら俺は文句を言わない、と言った。優遇するぶんだけを脚で返してくれさえすればいいのだ。
「期日は六月三日の市民大会まで。〇×市でやるから、見に来てくれていいよ。それを過ぎたら俺はお前にもう勧誘しないって誓う」
最後まで宮下は何も言わなかった。ただ、夕日に紛れて上手く見えなかったけれど、微かに頷いたように見えた。
***
青から橙に変わった空を眺めて、気がついたら学校にグラウンドにやってきていた。野球部の金属音や、サッカー部の声がわあわあと聞こえる。どこからか吹奏楽部の音色が響いた。
この景色は、部活に加入している者にしか見れないものだ。そして三年間の期限付きでしか、日常を味わえない。そう考えるとひどく尊いものに感じる。
「川上せんぱ~い!」
後ろから声が聞こえたと思ったら、背中に温かい弾丸が飛んできた。なんだなんだと振り返ったら、一馬がにかっと笑っていた。後ろから心底呆れたようにため息を吐く皐月と、困ったように頬を掻く亮太が近寄ってくる。
「あれ、今日部活休みって言わなかったっけ?」
三人ともどう考えてもトレーニング後だ。そんな俺の視線に気がついたのだろう。皐月が少し笑って答えた。
「俺たち先輩たちが一年の時のタイムよりまだまだですから、練習しよっかって話をして、少し自主練してたんです」
「あ!皐月テメッ!言い出しっぺ俺なのに手柄かっさらいやがって!」
「どこぞの誰かさんは要点を押さえて喋るなんて無理でしょ?俺が代わりに言ってあげたんだから感謝してほしいくらいなんだけど」
「要するに俺だろ!?」
「あ、単細胞なのに分かってたんだ」
漫才みたいにぎゃあぎゃあと言い合いをする一馬と皐月に頬が緩んでしまう。最初はどうなるかと思っていた二人だが、何だかんだ気が合うらしい。しかし亮太はそこに入ろうとしない。
「亮太は?」
「え?」
どこか寂しそうに見えて、思わず声をかけてしまったらどこか驚いたようだった。しかしにこっと笑った亮太は俺と同じように、どこか眩しいものを見るように二人を眺めている。
「練習、どうだった?」
「……二人は優しいので何も言いませんが、やっぱり自分は劣ってるなあって思いました。皐月は家に帰ってからも練習しているみたいだし、流石ですよね。俺も頑張らないとなあ」
そう言われてサッと血が引いていく思いがした。俺は家での自主練はやらないようにと言ってきているつもりだった。一年の体があまり出来ていない時期に、負荷をかけすぎるのは危険だからだ。櫂もそれに賛成してくれている。
「いや、練習はいくらでも俺が見てあげるからいいよ。でもそれはあくまで部活の間ね!家では飯食って課題やって寝なさい!なんつって」
「え!?ほんとですか?やった!ありがとうございます!」
うんうんと頷いて一馬と皐月の方へと向かう。今ここで壊れてしまったら目も当てられない。俺の腱炎も、一年の時の夜遅くの練習が響いていると思う。櫂に隠れてこっそりやっていたから余計に。
でももう、ちゃんと全員が部活中に部活が出来るようになったのだ。タイムは若菜に頼めばいい。
「皐月」
「あ、はい、なんでしょうか?」
「これから大会まで、自主練禁止ね」
「え!?」
皐月は素っ頓狂な声を上げる。一馬は信じられないものを見る目で皐月を見ていた。
「自主練はしないようにって言ったでしょ?皐月も家帰ったら飯食って課題やって寝る!もちろん一馬も!分かった?」
一馬はもちろんですと笑って頷いた。こういう素直なタイプは安心する。しかし皐月は頷いたものの、どこか釈然としなさそうな態度だった。
「まあいいや!ほら三人とも帰るぞ~!あ、肉まん奢るけどいる?」
ほらほらと更衣室に押し込んで閉じ込めたら、中から色んな中華まんの種類が聞こえてくる。その中に一つもあんまんの姿がないことに、少しだけ笑ってしまった。
更衣室にもたれかかって空を見上げると、カラスが群れを成して飛んでいく。その先頭に飛ぶ一羽の黒がどこまでも強く、しかしどこまでも折れてしまいそうなほど強い風を受けてぶつかっていた。
雲が流れ、葉が流れていく。校舎の影が少しずつ大きくなっていく。そんな、どこまでもありふれた放課後の姿だった。
どうも甘夏みいです!不穏な気配が漂ってきましたうふふ。川上は自分が言うほど嫌な奴ではないんですよね。でも高校生って案外劣等感が強かったりして、リアルに描けていればいいなあと思います。ただ川上みたいな先輩が欲しかったなあ……。次で一応あの彼と繋がる予定です。市民大会まで駆け抜けていきますね!どうぞよろしくお願いします!