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「一つ目だ。おとといの夜、何を食べた?」
「……そんなこと、覚えてないよ。てか、なんなんだよあんた!」
自らのテリトリーに踏み込まれ、会話の主導権まで奪われた状況への不満をぶつける男に対し、
京太郎は一切取り合わずに追及を重ねる。
「二つ目。あんたは、生まれた時からずっと『太田成之』か?」
「そりゃ……当たり前だろ?何言ってんだ、頭おかしいのか」
意図を掴めないままに返した虚勢には、ごくわずかな淀みが生じていた。
京太郎はその致命的な綻びを逃さない。
「三つ目、今何歳だ?」
「……41だよ。まだあんのか?」
「あるさ」
京太郎は鉄格子に預けていた背中を起こした。あぐらをかいた膝の上で、両手を組み直す。
その仕草だけで、部屋の温度が2度ほど下がったように感じられた。
「最後に、もうひとつだけ」
声の芯から、世間話の柔らかさが完全に抜け落ちている。刃物を布から引き抜くような、
丁寧で容赦のない剥き出し方だった。
「――あんたの記憶は、何日前から始まってる?」
青年の喉が、ひゅっと細い音を立てた。
京太郎は、その反応を確かめもせずに続けた。声だけがわずかに丸みを帯びる。
刃の柄を握り直すように、語りの調子を切り替えたのだ。
「俺の場合はな、よっつの頃だ。庭先で蛾に追っかけ回されて、火がついたみたいに泣いてたら、兄貴が走ってきて手で払いのけてくれた」
部屋の中で、青年の呼吸が浅く、速くなっている。京太郎の目はそれを正確に捉えていたが、
口調を変えなかった。
「あとで知ったんだけどな。兄貴、蝶とか蛾の類がとにかくダメなんだ。鱗粉が手につくのも嫌がるような男がさ、素手で叩き落としてくれたんだよ」
ふっ、と。京太郎の口元に、この場にひどく不似合いな笑みがこぼれた。
鉄格子も、留置施設の蛍光灯も、目の前でうずくまる青年の存在すらも一瞬だけ忘れたような、
遠い場所に触れている顔だった。
「……自慢するつもりで言ってるわけじゃないが……まあ自慢なんだよ、ウチの兄貴は」
その温かさが、次の一語で裏返った。
「なあ」
笑みが消え、京太郎の目が再び青年の瞳を正面から射抜く。
「41年も生きてきた人間なら、そのくらいの話、ひとつやふたつすぐ出てくるだろ。
幼稚園でも、小学校でも、なんでもいい。あんたが『太田成之』として最初に覚えてるのは、いつの、
どんな光景だ?」
京太郎は、あぐらのまま身を乗り出した。顔が、青年のそれとほとんど触れ合う距離まで近づく。
「聞かせてくれたらすぐ帰る。約束する」
青年の瞳孔が、痙攣するように揺れた。唇が開きかけ、閉じ、もう一度開く。だが声にならない。
答えが出てこないのではなかった。答えそのものが、この男の中に存在しないのだ。
その沈黙こそが、京太郎の待っていた回答だった。




