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一筆啓上仕り候。

これまで不肖の身を以て為し来たる所業は、畢竟私の志に拠る私の仕事に御座候。書を読み、策を練り、同志と膝を交えて論じ候も、皆これ一身の修養、一家の経綸に止まり候ことにて、天下の公論に資する所、未だ甚だ浅きものに御座候。

然れども今日に至り、いよいよ思い定め候次第は、一身の栄辱を度外に置き、公の務めに身を投ぜんとの一事に御座候。蓋し私の仕事と公の仕事とは、その覚悟において天壌の隔たり有之候。私事は進退己が意のままに候えども、公事は一度志を立て候わば、退くこと能わず、倒れて後已む外これ無き道に御座候。

凡そ天下の事、座して論ずるは易く、起ちて行うは難く候。されど行わずして何をか後世に遺さんや。不肖の微力、滄海の一滴に等しき事は百も承知仕り候えども、一滴も積もらば流れを成し、流れはやがて巌をも穿つものに御座候。

今般公に奉ぜんとするに当たり、三つの旨を胸中に刻み候。

第一に、諂わざること。上に媚び下を侮る者、公事を託すに足らず候。

第二に、欺かざること。民の目を塞ぎ耳を覆いて事を運ばんとする者、必ず自ら墓穴を掘り候。

第三に、怯まざること。困難に遭いて退き、非難を浴びて縮む者は、初めより志を立つるに及ばず候。

右の三条、守り得ずんば即刻身を退く所存に御座候。公の重きに堪えざる器なれば、居座りて禄を食むは恥の上塗りに候。

至誠にして動かざるもの、未だこれ有らざるなりと、古人も申し候。不肖もまた至誠を以て公事に当たり、動かざるものを動かさんと欲し候。成否は天命に委ね、ただ為すべきを為す、これのみに御座候。


草々不備


1


その闇が澱む大広間は、四角の作りをしていない。八角、八卦を象った異形の空間だ。

磨き込まれた漆の柱が暗がりに溶け、壁には金泥で描かれた星辰図が淡く浮かび上がる。

しつらえはまさしく古式ゆかしい和の間だが、そこに人の営みの香りはなく、

ただ悠久の時が積み上げた神威のみが満ちていた。


そこに、張りのある、しかし感情を削ぎ落とした声が響き渡った。


祭政一致さいせいいっちの司、五色台厳山(ごしきだい

げんざん)様。理法観測りほうかんそくの宗主、朱鷺寛斎(とき

かんさい)様。東方蒼龍とうほうそうりゅう巫祝ふしゅく、小宮静(おのみや

しずか)様。破邪顕正はじゃけんせいの法師、轟明夜斎とどろき めいやさい様。

――各家当主、御前へ」


号令に合わせて四面の戸が音もなく開かれ、和装をした4人の人物が姿を現す。いずれも背後に、

1人ずつ、覆面の侍従を影のごとく控えさせていた。主らが歩みを進めると、

侍従らは主の背を見送るために、揃って片膝を折り地に伏す。


4人はこの板の間を、畳の上を滑るような膝行で、寸分の狂いもなく、

広間の中央の一点へと収束してゆく。その様は、あたかも天上の図形を地上に描き出すかのようだった。


この儀式は、おそらく五行八卦思想に源流を持ち、そこへ解釈に次ぐ解釈を重ねて成立したものだろう。その様式美は、内部の者にとってはたしかに純化と洗練の極致なのかもしれない。

だが部外者の目には、ただでさえ難解な秘密宗教の作法が、内向きに熟成しきった末の――なんとも、

感想に困る代物としてただただ映る。


正しく言葉を使えば、光景は熟成ではなく腐敗だった。

それは密教の修法や、かの『黄金の夜明け団』の秘儀にも通じる。

閉ざされた世界で練り上げられた儀礼の、成れの果てに過ぎない。


その中にあって、ひときわ異彩を放つ人影がひとつ。東方蒼龍の巫祝――その大仰な称号を背負う、

小宮家の現当主、静だ。4人のうち、ただひとりの女人だった。揺らめく燭台の炎が、

彼女の上に淡い光を投げかけている。その光は、上衣の肩口から頬へといたる輪郭をなぞり、

彼女という存在の左半分を柔らかな光で濡らし、周囲の闇から切り離しているかのようだった。


女の顔立ちには、不思議な気配を湛えている。紛れもない大人でありながら、その肌は磨き抜かれた宝玉のごとく滑らかで、時の流れを物語る皺ひとつなく、年齢を推し量る術を誰にも与えない。

二十代と呼ぶには纏うオーラが深遠にすぎ、かといって老境と称するには、

あまりに生命力に満ちて若々しいのだ。


対する3人の老翁は、それぞれ意匠の異なる狩装束や浄衣を身に纏い、いずれもおしなべて、

俗世を離れた仙人のごとき風貌をしている。あるいは、義体化の分割線を隠そうともしない赤い肌に、

鬼よろしく小角を生やした変わり種もいた。しかし、それらの歴戦の古強者たちを前にしてなお、その気迫、その威儀において、彼女は一歩も引けを取らなかった。


彼らの間に序列はない。首座たるは、ただ「天津御魂鎮座大神命あまつみたましずざおおかみのみこと」と記された掛け軸の掛かる、八角形の部屋の、上三角を占める上段の間のみ。御簾(みす)の奥に人の気配はなく、しかしそこには部屋中のいかなる者をも圧する崇高な気配が満ちていた。


見えざる風がいつの間にやら忍び込み、高く掲げられた燭台の炎が、ふっと息をつくように揺らめく。

そのたび、光と闇の境界は曖昧に溶け合い、壁や柱に落ちる影は、水に落とした墨のごとく、

ゆらりとその輪郭を滲ませた。


沈香の香りが濃やかに漂う主宰神の御前へと進み出た一同は、一時、粛然として座礼を捧げた。

衣擦れの音がひそかに床から響いた後、ふたたび、途方もない静寂がその聖なる空間を支配する。


「……まずは三家の御歴々、ご参集に感謝申し上げる」

襖の引き手に指をかけるがごとき、慎重な口ぶりでその静けさを破ったのは五色台厳山だった。

「当方の意を汲み、一切の駆け引きなくこの場にお集まりいただけたこと、望外の至り」


その含みある言葉を受け、先ほど「鬼」と形容したサイボーグの老翁、朱鷺寛斎が鷹揚にうなずいた。

「うむ。事が事なれば、致し方ありませぬ。昭和協約の成立から八十年、その、節目の時期を狙いすました俗世からの要請……。我らに、無下にするすべはありますまい」


「『星辰大蝕(せいしんたいしょく)』、ですか」

小宮静が、鈴を振るような、しかし芯の通った声を重ねる。


「ああ、聞けば聞くほどあほらしさに磨きがかかるのう、その言葉」

轟明夜斎が、いきなり吐き捨てるように言った。毛羽立った古筆を思わせる眉をぐっと吊り上げ、

深く垂れた瞼の奥から射るような眼光を放つ。

「――星の巡りが乱れ、常の理は綻び、魍魎の気がとめどなく地上へと溢れ出す……。元はと言えば、古文書の文言を曲解した、どこぞの半可通の拝み屋が広めた戯言ではないか。斯様なもの、まともに取り合う価値もなかろう。本来ならばな」


「明夜斎殿の仰せ、一言一句その通りかと存じます」

静の声が、老翁の激昂の余韻をそっと受け止めるように続いた。穏やかではあったが、その底には、

しなう鋼のごとき芯が通っている。


「――しかしながら、ひとつ添えさせていただくならば」

一拍の間を置き、静は居並ぶ三翁の視線を静かに受け止めた。燭台の炎が揺らぎ、

彼女の横顔に落ちる影がわずかに形を変える。

「我らにとっていかに無価値な俗信であろうと――ひとたび国のものがこれを公の議題に据えた以上、

それはすでに、我々が対処すべき『現実』となります」

その声は、広間の空気を乱すことなく、しかし隅々にまで届いた。

「応答は、必須です」

断言だった。


静の目が、御簾の奥の空座――主宰神の在す上段の間を一瞬だけ仰ぎ、すぐに伏せられる。

「でなければ、俗世はかえって邪推を募らせましょう。我ら陰陽の一門が何事かを秘匿し、

利を貪らんとしている――そのような疑念の芽を、わざわざ育ててやる道理はございません。事を荒立てぬためにも、ここは慎重な対応が求められるかと」


「……私も、小宮殿の見立てに異存はございません」

五色台厳山が、穏やかに口を開いた。その声には、場の緊張を解きほぐすような、

鷹揚な温もりがあった。


「僭越ながら、五家の取りまとめを預かる身として――ひとつ、その具体的な応答法についてご提案申し上げたく、本日はこうして議事の場を設けさせていただいた次第」

そこで一度言葉を切り、厳山はわずかに居住まいを崩した。


「……実を申せば、我が家には総理大臣じきじきのお渡りがございましてな。さすがに、知らぬ存ぜぬでは通せませなんだ」

言いながら、厳山は困ったように頭を掻いた。まるで近所の寄り合いで世話役を押しつけられた隠居のような、人のよい仕草だった。だが――この老翁が祭政一致の司として五家の頂に立つ者であることを思えば、そのさりげない人間臭さが、どれほど深い腹芸の上に成り立っているのか、知れたものではなかった。


朱鷺寛斎が低く咳払いをひとつ落とし、場の空気を引き取った。

「……して、五色台殿。具体的な応答法とは、いかなる方策を指しておられるか」

その問いに、厳山はわずかに顎を引いた。まるで、これから口にする言葉の重さを、あらかじめ量るかのように。

「――むらくもの、再結です」

広間の空気が、凍った。


沈香の煙が一筋、燭台の炎に照らされてゆるりと昇る。その細い軌跡だけが、時がまだ流れていることを証していた。小宮静の瞼がかすかに見開かれ、朱鷺寛斎の義体の指が、膝の上でぴくりと痙攣した。

いずれも声にはならなかった。しかし、その沈黙そのものが、言葉よりもなお雄弁に驚愕を語っていた。


最初に沈黙を破ったのは、轟明夜斎だった。

「――ふざけおって」

低い声だった。地鳴りのような、腹の底から絞り出された呻きだった。


「何を言い出すかと思えば……!」

老翁の痩躯が、前のめりに傾ぐ。枯れ木のような両腕が膝を掴み、骨張った指が衣の布地を軋ませた。


「それは――アメリカによる戦後の処理で、我ら五家に火の粉が及ばぬよう、国家に差し出した供物のことではないか」

声が震えていた。怒りだけではない。その奥にもっと古い、もっと深い何かが脈打っている。


「北の地で、ソヴィエトの将軍の首と引き換えに……若者らを、玉砕させて……」

明夜斎の眼光が、炎を映して揺れた。射るような鋭さは消え、そこには剥き出しの痛みがあった。


「その戦いで――」

声が、一度途切れた。老翁は奥歯を噛み締め、喉の奥で何かを押し殺すように息を詰めた。

そしてふたたび口を開いたとき、その声は、枯れた喉笛から血を滲ませるようだった。

「……わしゃ、たった一人の兄を喪ったのだぞ」

広間が、しん、と静まり返る。


「それを今――このわしの目が黒いうちに、再結だと?臆面もなく、ようも言えたものよ」

老翁の目が、燭火の向こうの静を射た。


「名を改めれば、それであの頃の記憶も都合よく消えるというのか?なあ、平助よ」

その最後の一語が、沈香の煙のように広間に漂い、消えなかった。

五色台厳山が、静かに、しかし揺るぎない所作で片手を上げた。


「……明夜斎殿。平助などと、もう何十年も呼ばれておりませんでしたな」

その声には叱責の色はなかった。旧名を投げつけられた衝撃を、飲み下してから口を開いている。

「ですが――轟修司の盟友たる五色台平助は、今もここにおります。あの日のことを忘れたとは、決して申しませぬ」

長い歳月をともに歩んだ者だけが持ちうる、深い敬意が、その一語一語に滲んでいた。


「明夜斎殿、ここは神前にございます。どうか――」

朱鷺寛斎もまた、赤い義体の腕をゆっくりと明夜斎のほうへ差し伸べた。制するためではない。

支えるためだった。


「……まずは話を聞こうではありませんか。……五色台殿が、覚悟なくその名を出したとは、わしには思えぬ」

寛斎の言葉に、明夜斎は荒い息を吐き、しばし目を閉じた。やがて、深い皺の刻まれた顔に、

苦い――しかしかろうじて理性を取り戻した表情が浮かぶ。

老翁は身を戻し、膝の上の拳を、ゆっくりと開いた。


その沈黙を見届けてから、五色台厳山は、静かに、しかし淀みなく口を開いた。

「とにかく明夜斎殿。貴殿の痛み、この厳山が軽んじることは決してない。叢の名が、

我らにとっていかなる重みを持つか――それを知らぬ者は、この広間にはおりませぬ」

厳山は一度言葉を切り、居並ぶ三人の顔をゆっくりと見渡した。


「だからこそ、です」

その声に、わずかに力が籠もった。


「叢という名には、俗世の者どもが黙らざるを得なくなるだけの重みがある。八十年前、我らが血で贖った名だからこそ、国家に対する誠意の証として、これ以上ない切り札となる。我らが差し出しうる回答の中で、この厳山、最上の一手であると申し上げまする」

明夜斎が再び口を開きかけたが、厳山は穏やかに、しかし有無を言わせぬ調子で続けた。


「無論、先の大戦の轍を踏めと申しておるのではない。どうか、最後までお聞きいただきたい」

厳山は姿勢を正し、声をいっそう低く落とした。この先の言葉が広間の外へ漏れることを、空気そのものに禁じるかのように。


「星辰大蝕なるものは、所詮、俗信の域を出ませぬ。いずれ何事もなく時が過ぎ、世は平穏を取り戻す。――そうなったとき、再結された叢は、どうなるか」

問いかけの形をとりながら、その実、答えはすでに厳山の目の中にあった。


「異変が起こらぬと知れれば、その存在意義を失います。国はこれを――さて、どう扱いましょうな。適当な雑務への転用か、単にお役御免のお払い箱か」

厳山はそこで束の間、空想するような顔をしてみせた。

「……あるいは。敗戦の咎を未だ清算しきれぬこの国には、表に出せぬ務めがいくつもございます。

軍を持たぬ国が、それでもなお請け負わねばならぬ……汚れ仕事が。叢は、そこへ投じられることになりましょう」

明夜斎の眉がぴくりと動いた。朱鷺寛斎の義体の指が、かすかに軋む音を立てる。

静は、ただ静かに厳山の言葉を聞いている。


「であればこそ」

厳山の声が、ほんのわずか、温度を変えた。氷の下を流れる水のような、

底知れぬ深みをたたえた声だった。

「我々が見据えるべきは、はじめからこの第三の用途です」


「汚れ仕事を引き受けるも引き受けぬも、その時の判断ひとつ。我々が今、差し出すのは名目だけでよい。金で雇うなり、縁の薄い者を充てるなり、方法はいくらでもございましょう。

一家あたり、わずかに一名。形だけ整えれば、それで事は足りまする」

厳山は、ここで初めてかすかな笑みを口元に浮かべた。それは温かみのある笑みではなかった。

長い歳月を権謀の中で生き延びた者だけが持ちうる、冷たい計算の色を帯びた笑みだった。


「表向きは叢の再結を以て国家への忠誠を示しつつ――その実、薄れて久しい国家との繋ぎを、

我らの側から結び直す。叢を送り出す者にこそ、本当の席はございます」

沈香の煙が、厳山の言葉の余韻を包み込むように、ゆるりと立ち昇った。


*


「……いかがでしょうか、皆々様」

厳山の確認の言葉を合図にして、静はふっと息を吐いた。

それは溜息というにはあまりに静かで、しかし諦観の色を隠しきれぬものだった。


「……まあ、いずれにせよ」

その声からは、先ほどまでの鋼のような芯が、わずかに鳴りを潜めていた。

代わりに滲むのは、抗いがたい潮流を前にした者の、乾いた覚悟だった。


「これは八十年前、我ら退魔の家々においてひとたびは見送られた財閥解体の――やり直しに他なりません。あのとき、叢という供物を捧げることで辛うじて躱した刃が、いま再び、我らの喉元へ突きつけられているのです」


静は視線を伏せ、膝の上の手をそっと重ねた。

「逃れたければ、何かしらの方策をもって応じるほかに――道はございません」


しばしの沈黙の後、


「……ちっ」


舌打ちの音が広間に響いた。

轟明夜斎だった。老翁は天井を仰ぎ、忌々しげに顎を掻いた。

その仕草には、先ほどの激昂の残り火はなく、むしろ自嘲の色が濃かった。


「こんなことなら、適当な病気でもでっちあげて出仕を断ればよかったわ。――三世院の若造のようにな」

吐き捨てるように言って、明夜斎は西の一面――固く閉ざされたままの扉を、苦々しげに一瞥した。

だが、その目がふたたび正面へ戻ったとき、そこには別の光が宿っていた。苦く、重く、

しかし折れてはいない光だった。


「……だが、亡き兄が命を賭して守ったこの轟の名に、泥を塗るわけにはいかん。それだけは――たしかじゃ」

老翁は深く息を吸い、吐いた。まるで、胸の奥に長年巣食っていた何かを、力ずくで押し出すかのように。

「ああ。この轟明夜斎、世間の思惑とやらに乗ってやろう。――形の上では、のう」

最後に付け加えた一言に、老翁の最後の矜持が滲んでいた。


「……うむ」

朱鷺寛斎が、深い声で応じた。短くはあったが、そこには轟の覚悟を正面から受け止める重みがあった。赤肌の顎がゆっくりと引かれ、老翁は静かに目を閉じた。それ以上の言葉は不要だった。


強硬派たる轟が折れた今、もはや異を唱える者はいない。広間に、重苦しい合意の空気が霧のように満ちてゆく。四人はそれぞれの沈黙の中で、次に来るべき議題の影を感じ取っていた。


叢への人選。


誰もが、その忌まわしき二文字を胸中に浮かべ――しかし、誰もが最初の一声を避けていた。

まさにその時だった。


西の一面。これまで微動だにしなかった扉が、鈍い軋みを上げた。

一同の視線が、弾かれたように集まる。沈香の煙が乱れ、隙間から冷たい外気が忍び込んだ。

号令の声が、広間の静寂を裂いた。


泰西経綸たいせいけいりんの堂主――三世院月登さんぜいん つきと様、御前へ!」


欅の扉から現れたその男は、場の空気をまるで意に介さない、完璧な洋装に身を包んでいた。

付き従う黒子の態度は物々しいが、主人である三世院月登自身に威圧感はない。

日に焼けた肌に映えるクリームイエローのスーツ、これ見よがしなペイズリー柄のネクタイ。

手入れの行き届いた無精髭をたくわえた口元には、常に人好きのする笑みが浮かんでいる。

この神聖なる和の空間において、彼の存在はあまりにも異質だった。


靴下の音が、静まり返る漆の床を小気味よく滑る。彼はこの清浄な空間を、

オフィス街の石畳を歩むがごとく闊歩し、しかし、その身体に染みついた所作の大元は和のものか。

スーツの裾をさばくこともなく、流れるような動きで、こともなげに胡坐をかいた。


「やあ皆さん、遅れてすみません。すこし立て込んだ商談がありましてね」


月登は柔和な笑みを浮かべたまま、四方から突き刺さる老獪な視線を、柳に風と受け流す。その仕草に合わせるように、腕のオーデマ・ピゲがこれ見よがしに光を反射した。まるで、この場に満ちる神威など意にも介さぬと、主の代わりに主張するかのように。


「……ああ、そんなに睨まないで。ホントの話なんですって」


彼はシットコムの吹き替え音声めいた、わざとらしく軽薄な口調で言い、大袈裟に肩をすくめる。

その芝居じみた気安さとは裏腹に、双眸の奥に宿る色はどこまでも昏い。

だが、その昏さの正体を読み取れた者は、この広間にはいなかった。


「それで本題ですが、どうやら話の方向性は固まったみたいですね」


月登は、一座の険しい面々を楽しげに見渡した。


「……いやいや、盗み聞きなんて無粋な真似は。ただ、これだけの大物が一堂に会して腹を探り合えば、その“気”のさざ波くらいは、嫌でも肌に届きますよ。……ああ、今の顔。信じてませんね?ここ、笑うところですよ?」


一座を包む氷のような緊張を物ともせず、月登は続ける。

「実を言うと我が家は、もう人選を済ませちゃいまして。ですから、さっさと発表しちゃおうと思います。

……しかしまあ、何といってもご公儀たっての願いです、無下にはできませんからね。これは世間様に対する、ご奉公のひとつですから――でしょう?」

語尾だけが、妙に柔らかかった。まるで刃の切っ先を絹で包んだような響きに、居並ぶ当主たちの背筋を、正体の知れぬ冷気がすっと撫でた。だが、その予感の正体を掴むより早く――月登は、上等のセラーから来客用のワインを選び出すかのような気安さで、こともなげにその名を口にした。


「――ですから、ウチからは義峰、出しちゃいます」

笑みの形は、一切変わらなかった。


広間を満たしていた空気が、音もなく割れた。


轟明夜斎の怒気が、そのままの形で凍りついた。朱鷺寛斎の鷹揚な威厳が、

その赤い義体の表面から剥がれ落ちた。小宮静の研ぎ澄まされた理知が、一瞬、焦点を失った。

そして五色台厳山――この老人の面が、生涯でおそらく数えるほどしか見せたことのない、

無防備な驚愕に染まった。


沈香の煙だけが、何も知らぬげに、ゆるりと昇り続けている。


――三世院義峰。


陰陽五家において、当代随一と謳われる祓い手にして、三世院の次代を継ぐべき麒麟児。

そして何より――今、笑みを崩さぬまま座すこの男の、ただひとりの息子である。


(こいつ、何を考えている――)


……太古より、祓い手と妖異は食み食まれる関係にある。いかなる手練れであろうと、

前線に身を置き続ける者が天寿を全うすることは稀だ。刃を振るう者は、いずれ刃に呑まれる。

それが、この世界の摂理であった。


まして叢ともなれば、相対するのは妖異ばかりではなかろう。中東の砂塵に塗れた戦場、アフリカの密林に潜む紛争の火種――軍を持てぬこの国が、それでも同盟国からの要請により、なお介入せざるを得ぬ泥沼。そうした、ある意味では妖魔との対峙よりなお熾烈な現場へ、使い捨ての駒として投じられることすら想定される。


そこに、嫡子を差し出すとこの男は言ったのだ。


沈黙を最初に破ったのは、やはりというべきか、轟明夜斎だった。

「……三世院ッ!」

老翁の痩躯が、燭火の影を揺らして前に傾いだ。

「貴様、我ら四家の合議を掻き回すためだけに、遅参してみせたか!」

怒声が漆の柱を震わせ、広間の空気がびりびりと張り詰める。しかし月登は、

その激情を浴びてなお、口元の笑みをひと筋も崩さなかった。


「おや。轟さん、そうお怒りになると御体に障りますよ。どうかお気を静めて。

――私はいたって正気です」

「正気なものかッ!」

「いえ、正気ですよ」

月登の声は、あくまでも穏やかだった。穏やかすぎた。


「だって。私の言ったことに、なにか、筋の通らぬところでもありましたか?」

一語一語が丁寧に置かれ、その丁寧さそのものが刃だった。轟明夜斎は口を開きかけ――しかし、

言葉が続かなかった。叢の再結に人を出す。それ自体は、まさに今この場で決まりかけていた方針に他ならない。ただ、その質が違うのだ。あまりにも。


「……なるほど」

月登は、一同の沈黙を見届けるとふっと表情を変えた。

それは、悪戯の種を思いついた子供のような――無邪気で、それゆえにこの上なく残酷な顔だった。

「轟さん。今回の一件、これは世の中に対する、尊い『ご奉公』の機会ですよね?」

言葉そのものは恭しかった。だが、その声に乗せられた色は、恭しさとはおよそ対極にある何かだった。

「――第一にはね」

月登の双眸がわずかに細められた。笑みは消えていない。消えていないからこそ、その目の奥に浮かぶものが際立つ。


「お国の一大事に、最高の札を切る。――世間様に無くてもいいと思われている人間ほど、そういう機会は大事にしないといけないんじゃありませんか」

月登の声はどこまでも軽い。だがその軽さの中に、四人の老練な当主たちが組み上げた論理の骨格を、根元から揺さぶる力が潜んでいた。


静が、初めて月登に対して口を開いた。

「――大事では、ございませぬ」

鈴を振るような声は変わらない。しかしその響きに、薄く研がれた刃のような鋭さが混じっていた。


「星辰大蝕そのものは、ご存知の通り根も葉もないうわさ、問われているのは俗世への応答の形である。――その前提は、先刻この場で共有されたばかりのはずですが」

一拍の間を置き、静はわずかに首を傾げた。その仕草は優美でありながら、

言葉の切っ先を真っ直ぐに月登へ向けていた。

「三世院殿は、本当にあの木戸の向こうで、きちんとお聞きになっておいででしたか?」

当てこすりを、当てこすりと悟らせる程度には直截に。しかし品位を損なわぬ一線は、

寸毫も踏み越えない。それが小宮静という女の間合いだった。


「わかってますって、奥さん」

軽く……そう、あまりにも軽薄に月登は返した。この神前の間において、他家の当主を「奥さん」と呼んだ男は、過去にも未来にも、この一人だけだろう。


「――奥さん?」

静の整った面に、かすかな波紋が走った。それは怒りというには淡く、しかし無視するには鋭い、

一瞬のひびだった。だが月登は、その罅を見て取ったのかいないのか、意に介した素振りもなく続ける。


「いくら僕が呪術オンチだからって、そのくらいはわかってます」

呪術オンチ。陰陽五家の合議の席で、自らをそう称する当主がかつていただろうか。

老翁たちの眉がそれぞれの角度でひそめられるのを、月登は視界の端に収めながら、

声の調子をわずかに変えた。笑みはそのまま、しかし言葉の芯だけが、

不意に硬質なものへと入れ替わる。


「でもね、聞いてください。お国の抱える、あの公安って組織は凄いんですよ?その辺の式神なんかよりよっぽど目が利く。ただの寄せ集めを叢の名で包んで差し出したところで、そんなの、ものの三日と保たず化けの皮が剥がされます」

月登は指先で軽く膝を叩いた。まるで、話の要点にアンダーラインを引くように。

「人間ってやっぱり、中途半端が一番カンに障るんです。やるならやる、やらないならやらない。半端な誠意は、不誠意より始末が悪い」

広間に、短い沈黙が降りた。


「……それについては、一理ある」

五色台厳山だった。声から、先ほどまでの策士の余裕が薄れている。

月登の軽薄な物言いの中に、無視できぬ筋を認めたのだ。

老翁は一度目を伏せ、そしてふたたび開いたとき、その眼差しには率直な警戒が宿っていた。


「しかし――三世院殿。貴殿の言は、我らすべての算段を根底から覆すものだ。それを承知の上で、なお押し通されるおつもりか」

月登は、わずかに目を丸くしてみせた。あの、わざとらしい無邪気さで。


「算段?……というのは何のことをおっしゃってるんですか、五色台さん」

その声が、ふいに静けさを帯びた。


「僕はただ――臣として当然の態度で、事に当たろうと思っただけで……」

一語ずつ、丁寧に。丁寧すぎるほどに。

「……あれ?もしかして皆さん、まだ誰を出すか決めかねてらっしゃる?それは意外だなあ。こういうのは迷うまでもないことだと思ってたんですけど」

月登は、ゆっくりと四人の顔を見渡した。その目は笑っている。笑っているのに、瞳の底には、暗い淵のような光がある。


「これは、我ら五家がこの国に在ることを許された、その大恩に報いるまたとない機会です。僕は――ただ純粋に、そう信じたから義峰を選んだんですよ」


「ただ、皆様にはそうした実利の言葉でお話しした方が、ご理解が早いかと思いまして。つい、俗な方面からの物言いをしてしまいました。――これは僕の落ち度です。お詫びします」

彼は恭しく頭を下げる。その所作は完璧だった。完璧であるがゆえに、そこに込められた毒が際立つ。

言外の意味は明白だった。――あなたがたこそが、俗世の算盤を弾いていたのだと。静が、月登の謝罪が消えぬうちに、声を重ねた。


「いいですか、三世院殿」

その声は静かだった。だが、静かな水面の下で刃が回るような、底冷えのする静けさだった。

「貴方のおひとりの『ご奉公』は、結果として我ら四家にとっての一方的な『損失』となる。

叢に嫡子を送った家と、そうでない家。国家がどちらを信ずるかは、火を見るより明らかです」

静は、一呼吸の間も与えなかった。


「その先に待つのは、五家共榮協約の形骸化――あるいは、完全な破綻」

燭台の炎が揺れ、静の横顔に影が差す。その目が、真っ直ぐに月登を射た。


「……もしや、それこそが――貴方の真意ではありますまいな」

静かだが、逃げ場のない問いだった。


三世院月登の双眸が、初めて、心の底から愉快そうに細められた。


だが彼は答えない。


静の理詰めの刃を、正面から受けてなお、その口元には満月のような笑みが浮かんでいるだけだった。

沈黙が、返答の代わりに広間を満たしてゆく。その沈黙そのものが、いかなる言葉よりも雄弁な回答だった。


やがて――五色台厳山が、重い口を開いた。


「……ま、そこまでにしておきましょうか」

その声には、議長としての威厳が辛うじて保たれていた。辛うじて。

「この件、一旦持ち帰りといたします。後日改めて、議の場を設けさせていただきますゆえ――」


月登は、きょとんと不思議そうに小首を傾げた。

「……おや。どうしてです?」

その声は、子供が遠足の中止を告げられたような、純朴な落胆すら漂わせていた。

「これから互いの候補者の名を言い合う――楽しい時間じゃありませんか」


「これ以上は、議論が紛糾するだけだ。そう判断いたしました」

五色台は、厳として食い下がる。


「議論なんて紛糾しませんよ」

月登は、ただ楽しそうに笑った。

「だって我が家は、もう腹を決めました。あとは皆さんが、それぞれにご用意された――『最高の札』を」

その目が、じっくりと、一人ずつの顔を舐めるように巡った。

「ただ、見せ合うだけなんですからね?」


沈香の煙が、断ち切られたように途絶えた。

五色台の眉がぴくりと動く。しかし、反論は出なかった。出せなかった。


「――三家の方々。異論はございませんな?」

それは議長の裁定というより、ほとんど撤退の号令だった。


返事の代わりに、月登がわざとらしく大きな溜息をついた。まるで、せっかくの宴が途中でお開きになったことを惜しむかのように。


「……やれやれ、困りましたね」

月登は、まるで出先で雨に降られた程度の口調で言った。

「皆さんとお話ししていると、自分がいまどの時代にいるのか、時々わからなくなる」

その声には、笑みの残滓がまだ張りついていた。しかし、次の言葉が発せられたとき、

そこに含まれていた甘さは、跡形もなく消えていた。


「表の世界であれば――こんな仕様のない誤魔化し方をなさる方々と、僕は決して同じ卓にはつきません」

広間の空気が、一瞬凍てついた。誰も口を開かない。開けない。その言葉が投げかけたものは、

侮辱よりもなお深い何かだった。彼らの矜持の根を、笑みひとつで薙いだのだ。

月登は、四人の沈黙を悠然と見渡した。そして、声を一段落とす。


「それでも僕が――あなた方に愛想を尽かさず、こうしてなおも席を同じくしている」

その双眸からようやく笑みの色が消えた。いや、消えたのではない。笑みの奥に隠されていた、

もうひとつの顔が、初めて表に出たのだ。それは、底知れぬ暗さを湛えながらも、

どこか凛とした光を宿す、奇妙な眼差しだった。


「――その理由が、おわかりですか?」

問いかけの形をとりながら、答えを求めてはいなかった。

「誰よりも協約と、それが守ってきたこの均衡を――重んじているからです」

静寂だけが、その言葉を受け止めた。真意か、虚言か。それを測る術はこの場の誰にもなかった。

ただその一瞬だけ、三世院月登という男の輪郭が、まったく別のものに見えた。


だが、それも束の間のことだった。

「……では僕は、次の"実りある"商談が控えておりますので――これにて」

笑みが、ふたたび貼りつく。何事もなかったかのように。


月登は悠然と腰を上げた。その所作に一片の淀みもなかった。

立ち際、左の袖口をわずかに引き、オーデマ・ピゲの盤面を覗き込む。

そして人差し指の腹で、とん、とん、と二度、文字盤を小突いた。


すぐさま立ち上がることができたのはこの場で彼だけだった。四人の老練な当主たちは、まるで見えない錘を膝に載せられたかのように、微動だにできずにいた。


クリームイエローのスーツの背が、燭台の明滅に照らされながら遠ざかってゆく。

靴下が漆の床を滑る小気味よい音が、一歩ごとに小さくなり――やがて、西方の引き戸が音もなく閉ざされた。


残されたのは、四つの影と、晴れることのない沈黙だった。


屈辱。怒り。困惑。そして、あの底知れぬ男の笑みの奥にあったものへの、名づけようのない畏れ。

それらが溶け合い、誰の口からも言葉を奪っていた。

三世院月登が投じた一石は、静かに、しかし確実に沈んでゆく。

水面下でかろうじて保たれてきた五家の均衡に、決して消えることのない波紋を刻みつけながら。


2


小宮家の屋敷は、京太郎の記憶よりも、ずっと深く静まり返っていた。

都心から電車を二度乗り継ぎ、さらにバスで山裾へと分け入る。その広大な敷地は、

俗世との間に見えない膜を張ったかのように、あらゆる喧騒を拒んでいた。

蝉の声すら、ここには届かない。梅雨明け前の湿った空気だけが、肌にじっとりとまとわりつく。


見るからに時代を重ねた薬医門をくぐると、踏みしめる玉砂利の音がやけに大きく耳朶を打った。

自分の足音が、自分のものでないかのように響く。病的なまでに侘び寂びが突き詰められた庭には、

苔むした灯籠が寸分の狂いもなく配され、池では錦鯉が、時の流れそのものを忘れたように悠然とヒレを揺らしていた。


少年の頃には、この庭が世界のすべてだった。灯籠の影で虫を追い、池の縁で腹這いになって鯉に指先を差し出した。だが今、半額の弁当とペットボトルの茶で日々を繋ぐ暮らしに慣れきった目で見れば、

この完璧に整えられた美は、息が詰まるような格式を突きつけてくるだけだった。


美しい。そして、息苦しい。


「お久しぶりです、坊ちゃん。お待ち申し上げとりました」

玄関先で出迎えた老僕の伸三が、深く腰を折った。背筋は年齢を感じさせぬほど真っ直ぐだったが、

その顔に刻まれた皺の奥に、一瞬だけ、懐かしさと――それから、隠しきれぬ心配の色がよぎった。


「……伸さん、やめてくれよ。そういう堅苦しいの」

「いやいや、そういうわけにはまいりませんとも」

老僕は穏やかに、しかし一分の譲歩もなく微笑んだ。

「さ、奥様がお待ちでございます」

その変わらぬ実直さに、京太郎は胸の奥で、小さな痛みに似た温かさを覚えた。

この屋敷のすべてがよそよそしく変わってしまったように感じる中で、伸三だけが――この老人だけが、あの頃とすこしも変わらずにここにいる。それが、純粋な郷愁となって、不意に喉の奥を締めつけた。


*


案内されたのは、庭に面した一番広い客間だった。

凛とした気が隅々まで行き渡り、俗世の塵芥を一片たりとも許さぬ清浄さが、

部屋そのものの呼吸のように満ちている。床の間には禅語を記した古い掛け軸が掛かり、

その脇の一輪挿しに生けられた白百合が、気高く、しかしどこか冷ややかな香りを放っていた。


そして、その空間の中央に――母は、座していた。


小宮静。


部屋の空気が、彼女の呼吸に合わせてゆっくりと脈打っているかのようだった。

揺るぎない背筋は、京太郎が家を出た数年前と何ひとつ変わらない。変わらなすぎて、

むしろ不自然なほどに。時の流れが、この人の前だけを避けて通っているのだと言われれば、信じてしまいそうだった。


その威厳をさらに際立たせているのは、一匹の「精」の存在だった。

小さな龍が、彼女の傍にわだかまっている。仰々しい骨董のように、あるいは彼女自身の気が実体を得たかのようにそこに在る。


その鱗は、光そのものを紡いで織り上げたかのように青白く神々しい。

一条の穢れも寄せつけぬ、神域の清浄さそのものだった。

龍は伏せたまま、京太郎の入室にぴくりと髭を這わせた。縦に刳られた瞳が、

じっとその姿を見据える。そして――そっと、尻尾の先が揺れた。懐かしむように。

明らかに、彼の匂いを知っている者の仕草だった。


「戻ったよ」

京太郎は、形ばかりの礼をして母に向き直った。それ以上の言葉は、出てこなかった。

「ええ。お座りなさい」

最後に顔を合わせたのは、二年前の正月だったか。あいかわらず、母の声は、名が体を表すとしか言いようのない、湖面のごとき静けさを湛えていた。波紋ひとつない。こちらの感情を映しもしなければ、

拒みもしない。ただ、静かなのだ。


京太郎は、母の正面に腰を下ろした。


伸三が音もなく茶を運び、障子を引いて退がると、部屋にはふたりきりの沈黙と、ほのかな香の匂いだけが残された。湯呑みから立ち昇る白い湯気が、ふたりの間に横たわる埋めがたい歳月の上を、あてもなく漂っている。


先に口を開いたのは、静だった。

「先日、五家の当主が一堂に会しました。議題は、『星辰大蝕』に関する政府からの要請への対応です」

星辰大蝕。その単語が、清浄な客間の空気にひどく場違いな響きを落とした。


「……星辰大蝕?本気で言ってるのか」

「私が、ではありません。政府が、です」

静の声に、肯定も否定もなかった。ただ事実だけが、磨かれた石のように差し出される。


「じゃあ、向こうの誤解を解ける話の上手い奴が必要になって、それで俺が行くってことに?」

「いいえ」

静は一拍置いた。その間が、京太郎の軽口を静かに退けた。


「――叢です」

淡々と、しかし一語一語を碁盤の上に置くように。その名を口にする母の声には、感情の揺らぎはなかった。だが、揺らぎがないこと自体が、この言葉の重さを物語っているように京太郎には思えた。


京太郎は黙って湯呑みに手を伸ばした。指先が陶器の肌に触れる。使い慣れたキーボードの滑らかさではない。土の記憶を留めた、ざらりとした感触が、ここが自分の日常ではないことを改めて突きつけてくる。


「むらくも――」

口の中で転がしてみる。聞き覚えが、うっすらとならある。幼い頃、誰かがその名を口にしたとき、

周囲の大人たちの顔がかすかに強張ったような――そんな曖昧な記憶の残滓だけが、頼りなく浮かんでは消えた。


「事の起こりは、あなたが生まれるよりずっと昔に遡ります」

静の視線が、京太郎の顔からわずかに外れた。庭でもなく、掛け軸でもなく、この部屋のどこにもない一点を見つめている。

「先の大戦が終結した年――同じ退魔の道を歩みながら、互いに血で血を洗う争いを続けてきた五つの家が、ようやくひとつの盟約を結びました。昭和協約です。

そしてこの協約を母体として生まれたのが、先代の叢でした」

龍の精が、静の膝元でかすかに身じろぎした。まるで、主の語る記憶に反応するかのように。


「彼らは、歴史の光が決して届かぬ場所で、ひとつの大きな役目を果たしました」

静の声がわずかに――本当にわずかに、温度を落とした。


「一九四五年、八月。ソヴィエトのミハイル・オルロフ将軍が指揮した北海道侵攻計画を、

その首を獲ることで阻止したのです。

この島が南北に分断されずに済んだのは、彼らの手によるものでした」

京太郎は、湯呑みを持ち上げたまま動けなかった。


「しかし――その代償として、叢は北の地で全滅しました。生還者はありません。

そしてその存在は、歴史の表舞台から完全に消されました」

一度、言葉が途切れた。白百合の香りだけが、沈黙の中をかすかに漂う。


「先日の合議において、我ら五家は――この叢の再結を、決定いたしました」


「……っ」

京太郎の喉が、小さく鳴った。


静は、息子のその反応を確かめもせず、同じ調子で続けた。

「とはいえ――暗黙の裡に、四家の利害は一致していました」

その声には、自らの側を美化する色がなかった。事実を事実として、ただ盤上に並べてゆく。

「誰も、この厄介事に本気で取り組むつもりなどありません。大義名分を損なわず、しかし将来を担うべき血筋の損耗は最小に留める。そのために表に立てるのは、本家筋から遠い傍流の者。我が家であれば、腕の立つ者を金で募り、体裁だけ整えるつもりでした」

京太郎は黙って聞いている。


母の口から「金で募る」という生々しい言葉が出たことに、かすかな違和感を覚えた。

この人は普段、そうした露骨な表現を避ける。つまり、あえて選んでいるのだ。

「我らの真の狙いは、叢そのものではなく、同時に設立される監査機関の方にありました。そちらにこそ人を割き、相互の監視下で、利益を分かち合う。……それが、四家の絵図です」

しかし、と静は言った。その一語に、初めてかすかな温度が宿った。

波紋ひとつなかった湖面に、小石がひとつ落ちたような。


「しかし三世院だけは――その脆弱な均衡を、一笑に付しました」

静の声が、ほんのわずか、低くなる。

「彼は間髪を入れず、次代当主たる義峰君その人を叢へ送ると表明したのです。

この一言で、我らが張り巡らせた絵図は、根底から覆されました」

龍の精が、ゆるりと首をもたげた。主の気の変化を感じ取ったのか、青白い鱗がかすかに明滅する。


静の視線が、真っ直ぐに京太郎を射た。

「……この意味するところ、あなたにわかりますか」

問いかけの形をしていたが、その目は答えをすでに知っている者のそれだった。

京太郎は、ふいと視線を逸らした。手の中の湯呑みに目を落とし、わざとゆっくりと一口すする。ぬるくなりかけた茶の苦みが、舌の上に広がった。


「……さてね。何の講釈だか」

自分でも驚くほどの皮肉が、声に滲んでいた。

「俺はもう、家の面倒ごとからは足を洗ったはずだけど」

その言葉が、部屋の空気に吸い込まれて消えた。静は何も言わなかった。

反論も、叱責も、落胆もない。ただ、射抜くような視線を外さぬまま、顎をわずかにしゃくって、

答えを促した。それだけだった。


それだけで十分だった。


客間の空気が、じわりと重くなる。逃げ道という逃げ道が、母の沈黙によって、

ひとつずつ塞がれてゆくのを京太郎は感じていた。庭から差し込む光さえ、

この部屋の中では母の側についているかのようだった。


しばらくの無言の対峙。


先に音を上げたのは、京太郎だった。わざとらしく大きな溜息をつき、湯呑みを畳の上に置く。

陶器が藺草に触れる小さな音が、やけに大きく響いた。


「……さあ。皆目、見当もつかないね」

重ねての韜晦だった。だが、今度は静の忍耐の閾を超えたらしい。


「あなたはもう少し、物事の裏を読むということを覚えなさい」

はっきりと、呆れの色が滲んでいた。あの湖面のような声に、初めて小さな波が立った。

京太郎はそれを聞いて、むしろ安堵に似たものを感じた。この人にも感情はある。それが苛立ちであっても、無表情よりはずっとましだ。


「結構だよ、そういうのは」

堰を切るように、言葉が出た。

「俺は普通に生きたいんだ。そして――その望みは、もう叶ってる」

京太郎は、傍らに置いた肩掛けのバッグに手を伸ばした。中に収まっているノートパソコンのケースの輪郭を、手のひらで軽く叩く。まるでそれが、自分の人生を証明する唯一の盾であるかのように。


「このラップトップが一台あれば、どこにいたって仕事はできる。飯も、最低限は食える。

それで十分だろ。人様と違う『洞察力』なんて、俺の暮らしには何の役にも立たなかった。……これ以上便利な道具が、どこにあるって言うんだよ」

最後の一言に自嘲が混じった。才覚よりも機械の方が当てになる。それは京太郎が、この数年の孤独の中で手に入れた、ささやかで確かな実感だった。


「その矮小な価値観で、家の存亡を語らないで」

静の声が刃物のように鋭く空気を断った。京太郎の口が閉じる。反論ではない。

あまりの切れ味に、言葉が喉の奥で凍りついたのだ。

静は息子の沈黙を確認すると、再び淡々と、しかし一切の遊びのない声で語り始めた。


「聞きなさい。三世院義峰という『本流』が叢に加わった時点で、

その部隊は実質、三世院の私兵と化します」

龍の精が、主の声に呼応するように、ゆるりと尾を巻き直した。


「五家の合議制という建前は崩壊し、叢の指揮権は事実上、彼らの掌中に収まる。

いかなる監査機関を設けようと、覆すことのできない力学です。器の中に最も色濃い水を注いだ者が、器そのものを支配する。道理でしょう」

静は一呼吸を置いた。だがそれは、言葉を探す間ではなかった。次に放つ言葉の重みを、京太郎に受け止める準備をさせるための間だった。


「加えて――義峰君という当代随一の才覚が加わることで、叢そのものが五家の勢力図を塗り替えうる存在に変わります。その功績は、そのまま三世院と政府を結ぶ恒久的な絆となる。国家権力との直結。それが、あの男の真意です」

あの男。三世院月登を、静はそう呼んだ。その三文字に敬意はなく、しかし侮りもなかった。

ただ、底知れぬ相手への冷徹な認識だけがあった。


「後から振り返れば、彼の戦略は明快でした。高い賭け金を積んだ者だけが、卓を支配する。――極めて合理的な一手です」

静は、そこで言葉を切った。


客間の空気が変わった。白百合の香りすら遠のき、母と子の間に横たわるものが、

講義から宣告へと姿を変えたのを、京太郎は肌で感じ取った。

「そして、その三世院の独走を阻むための対抗策として」


静の瞳が、真っ直ぐに京太郎を捉えた。逸らすことを許さない目だった。


「――小宮からは、あなたに出てもらいます」


沈黙が、落ちた。

庭の池で、錦鯉が水面を叩く音が聞こえた。それがやけに遠く、白々しい。

「……なるほど」

京太郎は、ことり、と湯呑みを畳の上に置いた。その所作は静かだったが、指先には有無を言わせぬ硬さがあった。茶を終える仕草ではない。これ以上、この茶を共にする意志がないことを示す、

小さな、しかし決定的な拒絶の所作だった。


彼は初めて、母の目を真正面から見据えた。

「実に、くだらない」

その声は低く、硬かった。


「反吐が出るね、そういう政治ごっこは。――俺を巻き込まないでくれ」

吐き捨てるような言葉にも、静は眉ひとつ動かさなかった。湖面に石を投げても、水が石を呑み込んでしまうように。

「月収が十万になるか三十万になるかも見通しの立たない、しがないフリーライターだよ、俺は。あんたたちの権力争いの駒にするには、いくらなんでも格が足りないだろう」

京太郎は、自嘲を武器にした。自分を卑下することで、この場から退場する資格を得ようとした。


だが――その刃は、母には届かなかった。


届かなかったのではない。届く前に、静の表情が変わったのだ。

あの冷徹な瞳に宿っていた光が、ふっと翳る。代わりに浮かんだのは、

底なしの憂いを帯びた影だった。京太郎は、その変化に一瞬、虚を突かれた。


「……ごめんなさい。言い方が悪かったわね」

静の声から、刃が消えていた。

「三世院の"ビジネス"に、小宮が乗るつもりはありません。あなたを、金儲けや権力闘争の道具にする気はない。それだけは信じなさい」

静は、わずかに目を伏せた。龍の精が、その気配を感じ取ったのか、主の膝元に寄り添うように首を低くする。


「私が望むのは、あくまで現状の維持です。目的はただひとつ――三世院による、いかなる均衡の破壊をも阻止すること。このまま放置すれば、五家はいずれ彼の主導のもとに再編され、我々は臣下に組み込まれるでしょう」


「……それは」

京太郎は、静かに息を吐いた。

「陰謀論の域にある先読みだと思うね。さすがに飛躍が過ぎるんじゃないの」

声は凪いでいた。だがその目は冷ややかに、母の言葉の中に論理ではなく直感が――杞憂に限りなく近い直感が混じっていることを、正確に射抜いていた。


静はその視線を受け止め、否定しなかった。否定しないことが、ある意味では肯定だった。

「それに」

京太郎は、畳みかけた。逃げ道を、もうひとつ探るように。

「仮にその話が真実だとして――なんで俺なんだよ。兄さんの方が、退魔師としては単純に腕が立つだろう?」


空気が変わった。静の口調から、すっと感情が引いた。先ほど一瞬だけ覗いた母親の顔が消え、

再び当主の面が戻る。いや――それとも少し違う。そのどちらでもない、空白のような表情だった。


京峨きょうがは、断りました」


一拍。


「――この家の跡目を継ぐことと、一緒にね」

客間の空気が、しん、と冷えた。白百合の香りが、急によそよそしく感じられる。


「……さすが兄さんだ」

京太郎は、口元だけで笑った。

「賢いよ」

それは、同じ軛から先に逃れた兄への心からの喝采だった。


そして同時に――兄が閉じた扉の前に、ひとり取り残された自分への、痛烈な自嘲でもあった。


小宮家では古くから長子に「一郎」、次子に「二郎」といった、いわゆる輩行名を与えない。

京峨と京太郎、どちらが家督を継いでも遜色のないように――過去の失敗を糧にした、

そういう、家訓としての配慮が存在していた。


その配慮が、今になって京太郎の胸を締め付けている。どちらでもいいように名づけられたということは、どちらかが逃げれば、残った方に対し、ごく自然に全てが降りかかるということでもあったのだ。


「……でも、こんな面接があるって言うなら、先に教えてくれてよかったのにな、兄さんも。最近あんまり連絡もくれないしさ」

いやみったらしいぼやきだった。だがその軽口の裏に、微かな寂しさが滲んでいたことに、

京太郎自身は気づいていない。静はそれには答えなかった。

代わりに、何かが――彼女の纏う空気の質が、ふいに変わった。


「……だからもう、あなたしかいないのです」

京太郎は、思わず母の顔を見た。


威厳が、消えていた。あの揺るぎない当主の面が剥がれ、その下から現れたのは、

ひとりの母親の、剥き出しの声だった。縋るような、とまでは言わない。

だが、それに限りなく近い響きが、鈴のような声の底に震えていた。


「わが一門の衰退は、もはや覆い隠せるものではありません。血は世代を経るごとに薄まり、古の術理を真に解する者さえ、

今では片手で数えるほど。このままゆけば、小宮の名は百年と保たぬでしょう」

京太郎は、乾いた笑いを漏らした。

「……ほら、見たことか」


「?」


「だから俺だって、『そっち側』でよかったんだよ」

声が、不意に低くなった。笑みは消えていなかったが、その笑みの中に、長い年月をかけて醸された苦味が滲んでいた。


「こんな――術を覚えるくらいなら。何も持たない方が、どれだけ自由に生きられたか」

それは、京太郎がこの数年間、誰にも言わず抱えてきた本音の、ほんの切れ端だった。才能という名の鎖。望みもしないのに与えられ、捨てることも許されなかった、重い贈り物への呪詛。

だが、その剥き出しの感情を、静は受け止めなかった。


受け止める代わりに、彼女の表情から、先ほど一瞬だけ覗いた母親の顔が、音もなく引いていった。

潮が退くように。そして露わになったのは、小宮家当主としての、冷えた岩盤のような意志だった。


「一門の翁たちは、そうは思わぬでしょう」

声から、温度が消えている。

「あの方々が、幼いあなたの才にどれほどの期待を寄せ、どれほどの歳月と労を費やしたか。――忘れたとは、言わせません」

龍の精がゆるりと首をもたげた。あわせて、縦長の瞳が京太郎をじっと見据える。

主の意志に呼応するように、その鱗の光が、わずかに冷たく冴えた。


「あなたが、すべてを継ぐのです」

もはや懇願の影はなかった。それは宣告だった。


京太郎が口を開く前に静は言葉を重ねた。畳みかけるためではない。

退路を、最後のひとつまで断つために。

「京峨には、跡目に関する一切の権利を永久に放棄する旨の書面を、すでに作成させてあります」

京太郎の目が、わずかに見開かれた。


「息吹を込めれば式神と化すような呪紙の類ではありません。弁護士が作成した、法的にあなたを唯一の相続人と定めるための――現実の文書です」

現実。その一語が、京太郎の胸に鈍い杭のように打ち込まれた。呪術ではなく法。

霊的な拘束ではなく、社会的な拘束。母は、逃げ道を塞ぐために、

あえてこちら側の――京太郎が身を置いてきた俗世の論理を使ったのだ。


静は、そこで一度言葉を切った。そして、とどめを刺すように。

「――その方が、あなたの好むやり方でしょう?」

沈黙が落ちた。


京太郎は動かなかった。動けなかった。母の言葉があまりにも正確に、あまりにも冷たく、

彼の急所を貫いていた。法的文書。合理的手続き。感情を排した、俗世の論理。

――それは確かに、京太郎がこの数年間、自分の身を守るために選び取ってきた生き方そのものだった。


そしてだからこそ、それは耐えがたかった。


「なあ」

声が震えていた。怒りではない。怒りならばもっと楽だった。

「もう、やめてくれないか……」

それは悲鳴だった。声量こそ低かったが、京太郎がこの部屋に入ってから初めて発した、偽りのない音だった。皮肉も、自嘲も、韜晦も剥がれ落ちた、剥き出しの声。


「そういうことじゃないんだよ」

京太郎は膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込む感触がある。その小さな痛みだけが、

今の自分を繋ぎ止めている。

「俺が――頼みごとをしてくる人間から聞きたいのは、そんな言葉じゃない」

静の目に、初めて真の戸惑いが浮かんだ。当主としてではなく、母としてでもなく――ただ、目の前の人間の言葉が、本当にわからないという、無防備な困惑。


「?」


その一文字の問いかけが、京太郎の中の何かを決壊させた。


「勝手に人を――契約がなきゃテコでも動かないビジネスマンみたいに扱うなよ!」

声が跳ね上がった。清浄な客間の空気を、泥のついた靴で踏み荒らすような激しさだった。

龍の精が、びくりと首を上げる。

「部外者がどうとか、家の利益がどうとか!そんな話はもう、うんざりなんだ!」

京太郎の目が、潤んでいた。本人はそれに気づいていない。

「素直に言ってくれよ。あんた自身の言葉で……ただ、言ってくれ……」

声が、急速に力を失っていく。怒号が、懇願に変わっていく。


「……母さん」

その呼び名が、広間に落ちた。京太郎がこの屋敷に戻ってから、初めて口にした呼び方だった。

静の唇が、かすかに開き――しかし、言葉は出なかった。


「つまり、それは――」

「だから……!」

京太郎は言いかけ、そして止めた。喉の奥まで出かかったものを、歯を食いしばって押し戻す。

言ってしまえば楽になる。だが、これを自分の口から言うことは、決定的な敗北を意味する。

母が自分で気づかなければ――自分の言葉で、自分の意志で踏み出さなければ、何も変わらない。京峨の二の舞になるだけだ。


「……いや。もういい」

京太郎は立ち上がりかけた。膝が畳を離れる。その動作は緩慢だったが、それは迷いからではなかった。最後の猶予を母に与えているのだ。自分でも気づかぬうちに。


「そこまで教えてやる義理はないよ。母さんが、母さん自身の言葉で俺を必要としないなら……もうここにいる意味はない」

バッグの肩紐に手をかける。指先が、わずかに震えている。


「ただ、ひとつだけ言っておく」


京太郎は、振り返らずに言った。

「兄さんが断ったのも――あんたのその態度が嫌になったからだ」


一拍。


「それが、最後のヒントだよ」

足が、一歩を踏み出そうとした。


「……待ちなさい」

その声は、かろうじて威厳を保っていた。かろうじて。だが、京太郎の耳は、

その声の底で何かが軋む音を聞き取っていた。


足が止まる。


振り返った先にいたのは、京太郎の知る小宮静ではなかった。


「……わかったわ」

静の声が、震えていた。あの鈴を振るような、芯の通った声が。初めて。


「……ああ、そういうことだったのね。京太郎」

何十年も着け続けてきた能面に、罅が入った。そのひびは、

みるみるうちに広がり――そして、音を立てて砕け散った。


その破片の下から現れたのは、当主ではなかった。策士でも、東方蒼龍の巫祝でもなかった。

ただ、疲れ果て、途方に暮れた、ひとりの女の顔だった。目尻に、光るものが滲んでいる。

あの年齢を感じさせぬ端正な顔に、初めて、人間としての脆さが刻まれていた。


「ごめんなさい」

静は、ゆっくりと両手を畳についた。


「本当に……ごめんなさい」

そのまま、額が畳に触れるほどの深い礼に沈んでゆく。小宮家当主が、息子の前で額づく。

京太郎がこの世に生を受けてから、一度も――ただの一度も見たことのない光景だった。


龍の精が小さく鳴いた。それは悲鳴にも似た、か細い声だった。主の心が砕けたことを、誰よりも近くで感じ取ったのだろう。精は身を低くし、静の伏せた背中に寄り添うように、その青白い体を丸めた。


「お願い……」

畳に押しつけた額の下から、絞り出すような声が漏れた。それはもはや、五家の当主の声ではなかった。権謀も威厳も、すべてを手放した先にある、裸の祈りだった。


「お願いです……京太郎」

凍てついた湖面が、音を立てて砕け散っていた。

「この家を……私たちの家を……守って……」


京太郎は、立ったまま動けなかった。

バッグの肩紐を握る指から、力が抜けてゆく。喉の奥が焼けるように熱い。目頭がじわりと痛んだ。


これだと思った。


これが、聞きたかった言葉だった。当主としての命令でもなく、策士としての誘導でもなく、

ただの母親が、ただの息子に向けた――不器用で、みっともなくて、どうしようもなく真っ直ぐな懇願。これだけでよかったのだ。最初から。


膝が折れた。自分の意志ではなかった。身体が勝手に母の前に崩れ落ちた。

畳に膝をつく鈍い音が、静かな客間に響く。京太郎は、伏した母の震える肩を見つめた。

あんなに大きく、あんなに揺るぎなかった人が、こんなにも小さかったのかと、今さらのように思う。

白百合の香りが、不意に柔らかく感じられた。


「……ったく」

声が掠れた。目元を、乱暴に袖で拭う。

「最初から、そう言えよ……母さん」


「やるよ」

短く、硬い声だった。だがその硬さは拒絶のそれではなかった。覚悟を固めるために、あえて自分の声を叩いて鍛えているような響きだった。

「その『叢』とやらを。やる」

京太郎は、一度大きく息を吸い込んだ。肺の奥まで、沈香と白百合の入り混じった空気が満ちる。

この屋敷の匂いだ。嫌いだったはずの、この家の匂い。


「ただし、条件がある」

声に、いっぱしの社会人として幾度となく交渉の場を潜り抜けてきた者の、実務的な芯が戻った。


「ウチは具体的にどう動くつもりなのか、洗いざらい今すぐ教えてもらう。戦力の配置、他家との折衝、

監査機関の構成――全部だ。まさか俺をただ戦場に放り込んで終わり、なんて無体な真似はしないだろうな」

それは、感情に流されて首を縦に振った人間の言葉ではなかった。

受けると決めたからこそ、その先にあるものを、一切の曖昧さなく把握しようとする意志だった。


京太郎は一度言葉を切り、そして――最後に、自分自身に言い聞かせるように、力強く付け加えた。

「……力の及ぶ範囲でなら。とにかく、やってやる」

沈黙が、降りた。だが、先ほどまでのそれとは、まるで質が違っていた。

重さは同じでも、そこに満ちているものが根本から入れ替わっている。


静が、ゆっくりと額を畳から上げた。

その面に浮かんだものを、京太郎は視界の端で捉えた。歳のうかがい知れぬ美しい顔立ちに、はっきりと滲んだ安堵の色。目尻にまだ光るものの名残。そして、それらを隠そうともしない、

あまりにも無防備な母親の表情。


京太郎は、そっと目を逸らした。

見ないふりを、した。今それを正面から見てしまえば、自分の中で何かが決定的に崩れる気がした。

崩れること自体は、もう怖くない。ただ――この、ぎりぎりのところで保っている、息子としての意地のようなものだけは、もう少しだけ手放したくなかった。



3



――通信記録/警視庁異常事案対策課ホットライン/202X年09月12日/21:47JST

『各局、各局。コード"マル異"発令。現場、首都高速湾岸線・鶴見つばさ橋上り線。骨董品運搬中のトラックより発生した未確認事象。


着用者不在の甲冑――繰り返す、着用者不在の日本刀武装の甲冑が、

渋滞車列に対し無差別に攻撃を行っている模様。一般車両の被害拡大中。所轄の対応能力を超過、

至急――』

通信音声が、ヘルメットの内蔵スピーカーから途切れ途切れに流れ込む。


若い男は、左手の親指でスマートフォンの画面をひとつ弾いた。グローブモードの起動した端末に、

現場の概要が箇条書きざっと並べられた。位置座標。被害状況。推定脅威度。

そして、添付された一枚の監視カメラ画像――渋滞の赤いテールランプの海の中に、

あり得ないものが立っている。


鎧だ。


兜の面頬の奥に、何もない。暗闇だけがある。

男は端末をジャケットの内ポケットに滑り込ませた。


首都高の合流路。夜の湾岸線に向かう車の流れが不自然に詰まり始めている。

前方で何かが起きていることをまだ知らないドライバーたちが、

苛立たしげにブレーキランプを点滅させる。その赤い光の連なりが、

夜の高架橋の上を狂ったように波打っていた。


ハンドルを一ひねりすれば、スロットルがそれに応じる。ヘッドランプの光が前方に溢れ、

水が斜面を走るように、どこまでも路面の上に長い尾を引いていった。


そう、男はバイクを繰っていた。車体が傾き、膝がアスファルトを掠めるほどの深い角度で、

車列の隙間を縫ってゆく。レバーを弾くように体勢を立て直せば、ミラーとミラーの間、

その数十センチの間隙を、二輪の車体は針の穴を通す精度で抜ける。

サイドミラーに映る自分の姿は、一瞬でそこを吹き抜けた。


――スズキ・GSX1100S、通称「カタナ」。


その名を冠された鉄の馬は、しかし純正品とは言い難かった。左のカウル下部から斜めに伸びるステー。

そこに据えつけられた鋼板の鞘受け。日本刀を一振り、走行中でも抜刀できる角度で固定するための異様な、しかし、どこか様になっている特注のホルダー。そんなものが備わっていた。


鞘に収まった刀の柄頭が、振動に合わせてかたかたと小さく鳴る。

まるで、これから起こることを予感して、逸っているかのように。


カタナが――二つの意味での刀が、鶴見つばさ橋の斜張ケーブルの下を駆け抜けてゆく。

前方、数百メートル先の渋滞の只中で、赤と青の回転灯がいくつも瞬いている。その光の向こうに、

監視カメラの画像と同じものが――闇を纏った空洞の鎧武者が、立っているはずだった。


*


渋滞の壁を抜けた瞬間、視界が開けた。

パトカーが斜めに停められ、警官たちが車両の陰に伏せている。その向こう、

砕かれたフロントガラスの破片が路面に散乱する、無人の空白地帯の中心にそれは立っていた。


鎧だった。

斜張ケーブルの間から差し込む橋上灯の光を受け、漆黒の小札が鈍く輝いている。兜の吹返しが夜風にも揺れず、面頬の奥には何もない。


ただ闇がある。闇だけがそこに凝っている。

右手に提げた太刀の刃にべったりと付着しているのは、血ではなかった。

エンジンオイルと、何か別の液体が混じり合った、黒々とした汚れだった。


カタナが吼えた。

スロットルが限界まで捻り込まれ、排気音が夜の橋上を叩く。


その暴力的な風圧を背中に受けた警官が、反射的に身を伏せた。

制帽が飛ぶ。何事かを叫ぶ声が、排気音の壁に呑まれて消えた。


放置された車両の群れが左右に流れていく。砕けたガラス、歪んだボンネット、

開け放たれたまま主を失ったドア、その残骸の回廊の果てにそれは立っていた。


孤独に、切っ先を地に向け、兜をうつむけた時代錯誤の影。


まるで、己が振るった刃の重さに耐えかねているかのように。

あるいは、数百年の眠りから覚めたことを、自ら悔いているかのように。

修斗はバイザー越しに、百メートル先のその異形を見据えた。


そして――その目が、見開かれた。


「……明珍だッ!」

声は、脱ぎ去られるヘルメットにまとわりつきながら解き放たれる。彼の髪が風にたなびいた。

驚きではなかった。歓喜だった。


視線が、鎧の細部を舐めるように走る。胴の小札の綴じ方。革緒と組糸の配列。胸板の鍛えが描く曲面。籠手の鎖の、一目ごとの編み目。

それらひとつひとつが、かなりの距離を隔ててなお、ある特定の系譜を――甲冑師の名門中の名門、

明珍派の手業であることを、雄弁に物語っていた。


小札の矧ぎ合わせに用いられた技法は室町後期の明珍派に特有のもの。肩上の蝶番の意匠は、

同家十七代目の信家か、あるいはその直弟子の系統。兜鉢の筋の立て方にいたっては、

現存する作例が片手で数えるほどしかない極めて希少な――


そんな鑑定を、時速二百キロで急進するバイクの上で一瞥のうちに完了する。

桁外れの動体視力であると同時に、この時代の、この年頃の若者に、

およそあり得ない骨董への造詣だった。


距離が溶ける。


七十が五十になり、三十になり――


鎧武者が、顔を上げた。


面頬の奥の虚空が迫り来る光を捉えた。ヘッドランプの白い奔流を正面から浴びて、

漆黒の小札が一斉に濡れたようにきらめく。

太刀が持ち上がる。着用者のいない篭手が、数百年の錆を感じさせぬ滑らかさで、刃を水平に構えた。


迎え撃つ気だ。

「……あっ、やべっ!」

修斗の左手がハンドルを離れ、カウル横のホルダーに伸びた。指が柄を掴む。引く。

鯉口が切られ、鞘走りの金属音が風に千切れた。そのまま刀をジャグリングのごとく一回転させ、

取りなおした時には右片手の水平へとごく自然に据え直す。


振りかぶった。


その動きの源流は、鎌倉の往古においてもっとも繁栄を極めた騎馬武者の合戦作法に違いない。

バイク乗りの体幹がこの現代に再現する、すれ違いざまの荒々しい振り抜き。


二振りの日本刀が、正面からぶつかった。


金属と金属が噛み合う音は、ただの音ではない。空気そのものが悲鳴を上げた。

衝撃波が同心円状に広がり、包囲していたパトカーの窓が一斉にびりびりと震える。

警官たちが頭を抱えて縮こまり、遠巻きに見ていた報道ヘリのカメラが大きくぶれた。


衝突の瞬間、ふたつの体が同時に壊れた。

鎧武者が弾けた。胴の芯から打ち抜かれた甲冑が、くの字に折れながら後方へ吹き飛ぶ。

中身のない鉄の体が着地を試みる。突き出された両足がアスファルトを噛み、膝から下が橋の路面に火花の線を引いた。三メートル、五メートル。鉄靴が路面を削る甲高い音が尾を引いて、ようやく止まる。


だが修斗もまた、無傷では済まなかった。


衝撃という軸に巻き込まれながら、同時に、その衝撃から離れてもいくという物理学上の特異な状態が、

カタナを別の乗り物にしていたのだ。


スロットルとブレーキが意味を失い、車体は右へ、右へと傾斜を深め――倒れる寸前、黒いゴムの円弧がふたつ並んで進行方向に突き出された。

車体が路面との約束を一方的に破棄して、アスファルトの表面を横滑りに流れていく。


その崩壊の中心で、修斗の体は均衡を保っていた。地面に触れてもいなければ空へ放り出されたのでもない。生と死の、ちょうど境界線上から吹き上げてくる引力が、彼の体を水平の奈落へとどこまでも引きずり込もうとしている。


滑走が止まった反動が、無理やりな姿勢の立て直しを、この二輪の車体にもたらそうとする。

ただしそれは、はなはだ性急にして勢い余った判断だと言わざるを得ない。


受けた結果が、ただの跳躍だったというからには。


横腹から路面をこすり上げるようにして姿勢を取り戻しかけた車体は、その復元の力をまったく制御できず、アスファルトから浮き上がった。前輪と後輪が同時に夜気を蹴る。鉄の塊と人間が、ひとかたまりのまま橋上灯の光を横切っていった。


白い光がねじれた二輪の横腹をフラッシュのように舐め、追って、

左のハンドルグリップを固く握り締めた修斗の肉体を、じっくりと照らし出していく。


外から見れば、それは採点競技のワンシーンに映ったかもしれない。

回転する鉄と人間の輪郭は、橋上灯が照らすたびに形を変え、そのどれもが一瞬だけ、

奇妙な優美さを帯びていた。


しかし当事者の実感は、外部からの印象とはまるで違う。

二度目の反転で、肩の腱がちぎれかける感触があったはずだ。

三度目で、おそらく内臓が胸郭の中で位置を変えた。

四度目にいたっては、回転と呼べるかどうかすら怪しい。人間と鉄の混合物が、夜の空間に投げ出されたまま自転しているだけの状態だった。


その最中に着地の窓が開いた。回転軸と車輪の向きと地面の角度が、たまたま同じ答えを出した一瞬。

修斗がそれを選んだのではない。選べる状況にない。ただ、左腕が離さなかったことだけが、

その一瞬に間に合う条件を保ち続けていた。


ゴムが路面を噛んだ衝撃は、着地ではなく落下だった。

衝撃が脊椎を駆け上がる。火花と煙の尾を引きずりながら、

カタナは十数メートルを滑走し――放置されたワゴン車に、叩きつけられることでようやく停止した。


修斗は左腕でマシンを押し起こすと、サイドスタンドを蹴り出した。エンジンが、かちかちと冷える音を立てている。カウルには新しい傷が何本も走り、ヘッドランプの片方が明滅を繰り返していた。


修斗は、柄の感触を確かめるように小指からじわりと刀を握り直す。


「あっぶねー……!」

そのまま安堵の声を落とした。汗に濡れた髪が夜風に散る。だがその声に切迫感はない。

あるのはむしろ、自分自身に呆れたような――そしてどこか、隠しきれない愉悦を帯びた響きだった。


「……命より大事なカタナがよ!」

傷だらけの愛車を一瞥し、吐き捨てる。


瞬間、背後の空気が裂けた。

修斗の全身が思考より先に動き、右手の刀が跳ね上がる。

それは道場で培われる類の、高級な術理に則った返しの一手でなく、異変の沸き立った場所に向けて、

物を思い切り投げつけるかののごとき野生の反応だった。


大上段からの一刀が、そこにあった。


あまりにも軽々と。数百年の時を超えて、あの空洞の鎧武者が音もなく間合いを詰めていた。

弾き飛ばされた十数メートルの距離を、修斗がカタナを立てかけ、刀を持ち替えた、

そのわずかな隙の間に。


鋼と鋼が噛み合い、火花が夜に咲いた。


白んだオレンジの花弁が放射状に散り、二人の――否、一人と一領の輪郭を、

一瞬だけ昼のように照らし出す。その残像が網膜に焼きつくより早く次の斬撃が来た。


袈裟懸けだ。


修斗は半身をひねってかわす。刃が頬の横を通過した風圧が、汗に濡れた髪を一房さらった。

次ぐ太刀が水平に薙ぐ。修斗は身を沈めてその下を潜り、そのまま低い姿勢から斜めに切り上げた。


鎧武者は刃面でそれを受け止める。金属が軋む音。噛み合い、流れのままにこすれ合う刃から、火花が柳のように零れ落ちた。青い剣光が、夜気を裂いて交錯する。一合、二合、三合――その速度は、やがて合を数えることを無意味にした。橋上灯の光を反射した二振りの刃が描く軌跡は、まるで夜空に走る稲妻のように鋭く、そして一瞬で消えた。


だが、その応酬の中には明確な差異があった。


鎧武者の剣は古い。

古いが正しかった。一刀一刀が、数百年前の戦場で磨き抜かれた型を忠実になぞっている。

足運びは摺り足。重心は常に腰の下。地を踏みしめ、地から力を汲み上げて刃に乗せる。


大地と鋼を直線で結ぶ、武の原理そのものだった。

踏み込むたび、アスファルトが確かな振動と音を返す。一歩が重い。


重いからこそ、甲冑の中に誰もいないことがかえって不気味だった。


対して、修斗の立ち回りは――踊っていた。


足が地を蹴る。だが踏みしめない。触れた次の瞬間にはもう別の場所にいる。

左に跳び、右に流れ、時に鎧武者の太刀を刃で受けずに身体ごと回転してやり過ごす。

その軌道は、直線を拒む円弧と螺旋の連続だった。


剣筋もまた型に収まらない。チッ、チッ、と切っ先を小刻みに振る正眼の構えから、

袈裟に見せかけて逆胴を狙う。そうした風に、一太刀の中に二手の欺きを仕込む詐術のような剣。

かてて加えて、そもそも、まっとうな両手持ちで構えている時間が短い。

うつくしいが正道ではない。むしろ、正道を熟知した者だけが到達できる、逸脱の極みだった。


古武術と舞踏、不動と流転。ふたつの剣理が、鶴見つばさ橋の上で激突していた。


鎧武者の太刀が修斗の左肩を狙って振り下ろされる。重い。空気ごと叩き斬るような、純粋な暴力。


修斗は受けなかった。受ければ腕ごと持っていかれる。半歩だけ前に踏み込み、

刃が落ちてくる軌道の外側に、自分の身体を預けた。太刀の峰が、背中をかすめて通過する。


至近距離。鎧武者のがら空きな胴が目の前にある。


修斗は、大上段からの一撃をそこに落とした。しかしこの豪胆な呼びかけは、すり上げに放たれた受けの一手がそのまま完璧な返事になった。衝撃が膨れ上がり、弾かれる力を利用して修斗はそのまま距離を取った。5メートル。互いの間合いのちょうど外側だ。

「いやー、すげえな!」

息が上がっている。肩が大きく上下し、額から顎へと汗が伝い落ちる。だがその顔は、疲弊よりも充足で満ちていた。


「ウチにも一台欲しいね、こういうトレーニングマシン!」

軽口が夜の橋上に響いた。鎧武者は答えない。答える口を持たない。

だが、面頬の奥の虚空が、修斗の言葉を咀嚼するかのように、わずかな間静止した。


その隙に、修斗は動いた。


刀が鞘に還る。


しゃん、


と澄んだ金属音が鳴り、次の瞬間には修斗の全身の輪郭が一変していた。

左足を深く引き、右半身を前に出す。腰を極端なまでに落とし、右手は柄にかかり、

左手は鯉口を切った鞘の口を押さえている。


居合の構え。


ただし、その沈み込みは常軌を逸していた。左膝がほとんどアスファルトに触れるほど低く、

上体は前傾し、全身の重心がつま先の一点に凝縮されている。


剣術におけるクラウチングスタート――そう呼ぶほかない、極端に誇張された抜刀の型。

すべてを次の一閃に賭ける、捨て身の姿勢だった。


鎧武者がかすかに首を傾げた。


その仕草は――面頬の奥に表情があるならば――きょとんとした、と形容するほかないものだった。

目の前の人間がなぜ今さら刀を収めたのか。なぜわざわざ隙だらけの姿勢を晒すのか。

戦国の記憶を密に宿す鋼の体が、一瞬だけ判断を迷った。


だが、それも一瞬のことだった。


鎧武者の足が、アスファルトを砕いた。

人間離れの踏み込み。蹴り砕かれた路面の破片が後方に飛び散り、甲冑の全重量が一直線に修斗へ向かって射出された。太刀が振りかぶられる。大上段。最初の一撃と同じ軌道。

この距離なら、抜刀が間に合う前に叩き潰せる。


そのはずだった。


振りかぶった太刀が頂点で止まった。


鎧武者の左手が腰の脇差を掴んでいた。太刀は囮。本命は、この至近距離から投げ放つ脇差の一撃。

鞘ごと抜き放たれた短い刃が、手裏剣のごとく回転しながら修斗の顔面へ飛んだ。


老練な一手だった。かつてこの鎧に袖を通した武者の、実戦で磨き上げた奸計の残滓。

型にない戦場の知恵。それが鋼の記憶として甲冑に刻まれ、数百年の時を経てなお、

こうして再現される。


だが。

「アホ、目の前の相手に集中しろ!」

修斗が叫んだ。


それは鎧武者に向けた言葉だった。飛来する脇差を、修斗は首を半寸だけ傾けてかわした。

刃が頬を掠め、一筋の赤い線が走る。耳元で鉄が風を切る音が鳴り、背後のどこかで、

脇差が車のボディに突き刺さる鈍い音がした。


しかし修斗の目は脇差を見ていなかった。最初から見ていなかった。


見ていたのは胴だ。

脇差を投じた瞬間、鎧武者の左腕は体から離れ、胴の左半面が無防備に開く。


太刀を囮にし、脇差に本命を託した、その老練な判断そのものが――致命的な隙を生んだ。

かつての担い手が戦場で幾人もの命を獲ったであろう必殺の奸計が、ここでは裏目に出たのだ。


修斗の右手が柄を握り込んだ。


抜刀。


それは目に映らなかった。見えたのは結果だけだった。修斗の体が低い姿勢から爆発的に伸び上がり、

その軌跡に沿って一閃の白い光が走った。光は鎧武者の胴を、右の脇腹から左の肩口へ斜めに裂いた。


斬撃は鎧だけを断ったのではなかった。

小札の内側にこごっていた紫黒い妖気が、斬線に沿って裂け、噴き出した。

それは煙のようで煙ではなかった。募った怨念か、執着か、あるいはもっと名もない何かが、

形を失って夜気に溶けてゆく。甲冑を動かしていた力そのものが、一刀のもとに断たれたのだ。


修斗は、振り抜いた姿勢のままで止まっていた。


残心だ。

右足を前に踏み出し、左足を深く引いた低い姿勢。刀は右斜めに振り切られ、

刃の先端からは紫黒いモヤの名残が、糸を引くように垂れている。背筋は弓なりな一本の線。


鎧武者の体が崩れた。


斬線を境に、上半身と下半身がゆっくりとずれてゆく。

小札が一枚、また一枚と剥がれ落ち、澄んだ音を立ててアスファルトに散らばった。

兜が転がり、籠手が落ち、すね当てが崩れる。


紫黒い気が霧散した後に残ったのは、ただの鉄の部品の山だった。

もう動かない。橋上灯の光が、その残骸をそっと照らしている。


鎧が崩れ落ちた途端、パトカーのサイレンが堰を切ったように威勢を取り戻した。

それまで車両の陰に伏せていた警官たちが、申し合わせたように一斉に動き出す。

無線を叫び、渋滞の車列を捌きにかかる。危険が去った後にだけ発揮される、見事な機動力だった。


その警官たちの列が、修斗の横を駆け抜けていく。

「どうもどうも、ご苦労さんです」

修斗は刀を肩に担いだまま、すれ違う制服の一人に片手を上げた。

警官は走る足を止めず、こちらを見もしなかった。

「ご苦労さん」

次の一人にも声をかける。今度は一瞬だけ目が合ったが、刀を持った男の姿に何を思ったのか、

警官はぎくしゃくと視線を逸らし、足を速めて走り去った。


やがて修斗はその喧騒に背を向け、路肩に座り込んでいた骨董店の運転手のもとへ歩み寄った。

中年の男は腰を抜かしたまま、自分のトラックの荷台と、路上に散らばった甲冑の残骸を

交互に見つめている。

「あー、おじさん。ちょっといいすか?」

修斗は刀を鞘に収めながら、それなりの敬語を繕った。繕いきれてはいなかったが、

本人なりの誠意ではあった。

「あのー……アレ、あの鎧!どういう経緯で今日はここまで?」

すると運転手は、がくがくと肩を震わせながら、まさに今日、寺じまいとなった古刹の名を告げた。

修斗は片方の眉を上げた。


「ああ――そりゃ、そこが落ち着ける場所だったんだ。そこに馴染んで何百年も経ってたモンを、

いきなりトラックに載せて夜の首都高なんか走らせたら、そりゃ怒りますよ。

無理に動かすとダメなんすよね、こういうのは」


その口調はあくまで軽い。まるで、引っ越し業者が搬入の注意点を伝えるような気安さだった。

「だからね、おじさん。今度からこういう古いモンを動かす時は――」


「……危ないッ!」

警官の叫びが、修斗の言葉を断ち切った。

修斗の背後で、散らばっていたはずの残骸が蠢いていた。手甲だ。片方の籠手が、

指の一本一本をゆっくりと開きながら、宙に浮き上がっている。断たれたはずの紫黒い妖気が、最後の残り火のように手甲の内側で脈打ち、数メートル先に転がった太刀の柄を、磁力の勢いで手繰り寄せた。


はしっ、と。

鋼の指が、柄を握る。


「――ッ!」

修斗が振り返るより早く、手甲は太刀を一閃させた。


修斗は咄嗟に鞘で受けた。衝撃が両腕を痺れさせ、たまらず押し切られたその全身の輪郭に二重三重のブレがかかる。遅れて彼は、「トラックの荷台に、背中から叩きつけられた自分」という現況を、

ありのまま理解した。


強い波に弾かれた漂流物のように――いや、それは漂流物そのものだった。

本体を失った鎧の欠片が、最後の意志で、太刀を携えたまま、大きくその場を旋回する。


決定的な一打が、流れのままに放たれた。


「疾――ッ!」


裂帛の気合が、上空から降る。

同時に、一枚の札が夜空を切り裂いて飛来した。白い紙片が風を受けて回転し、

その表面に走る朱い文字が、空中で一瞬、太陽のように灼けた。


着弾。


そういう表現が最もふさわしいだろう。札が手甲に触れた瞬間、たしかな爆発が起きた。

衝撃波が路面の水たまりを弾き飛ばし、修斗の髪を後方に煽り、周囲のパトカーの警報装置を一斉に鳴らす。


今度こそ手甲は完全に沈黙していた。焦げた鋼が、アスファルトの中で残骸となり、

紫黒い妖気が、この世への未練という手綱を少しずつ緩めるかのように、ひと筋だけの煙を立て、

細々と空に還っていく。その一切の余韻の中を、ひとつの影が入れ違いに降りてきた。


橋の斜張ケーブルの上から、夜空を斜めに切って、一人の青年が落ちてきたのだった。

とくに着地の瀬戸際において、運動は落下というより滑空だった。重力に逆らっているわけではないが、

ただ、その付き合い方が、彼のばあい常人とは根本的に異なるらしかった。


京太郎は爪先からアスファルトに触れた。猫が棚から降りるような、音のない着地だった。

コートの裾が一拍遅れてふわりと揺れ、それだけが、今しがた彼が空中にいたことの証になった。


*


「ツメが甘いぞ、修斗」

京太郎は、コートの裾を正しながら、修斗を一瞥して言った。その口調には叱責の色はなく、

旧知の間柄だけが許す、遠慮のない率直さがあった。


「うっせ!倒したと思ったんだよ」

修斗は悪びれもせず肩をすくめ、右の拳を差し出した。京太郎は軽く拳を合わせ、

そのまま互いの前腕を組み合う。力強く、しかし短い。言葉より雄弁な、男同士の挨拶だった。


「つーかお前、いつからあそこにいたんだよ。見てたなら早く来いって」

「さっき着いたんだよ。お前が楽しそうにしてたから、邪魔するのも悪いかと思って」

「嘘つけ」

修斗が笑った。京太郎も、口の端だけで笑い返した。


その時、背後から硬い足音が近づいてきた。

「――そこのお二人!ちょっとよろしいですか!」

陣頭指揮にあたっていた警部が、息を切らして駆けつけてくる。五十がらみの、

現場の叩き上げを思わせる恰幅のいい男だった。額に汗を浮かべ、目の前の光景をどう処理すべきか、

明らかに持て余している顔をしている。


京太郎は修斗の前に半歩出て、丁寧に頭を下げた。

「ああ、すみません。夜分に失礼いたします。私は、小宮京太郎と申します」

背筋を正し、内ポケットから手帳を取り出す。黒い革表紙に、見慣れぬ紋章が箔押しされた、

一般の身分証とは明らかに異質な一冊。


「公認退魔師資格証」。


京太郎はそれを両手で差し出し、

警部の目の前で開いてみせた。


「こちらの轟修斗ともども、本件の処理を担当させていただきました。現場の保全にご尽力いただき、ありがとうございます」

警部の目が、手帳の紋章と京太郎の顔を往復した。その表情に困惑と、そしてかすかな安堵が混じる。

自分の管轄を超えた厄介事を、然るべき筋に任せられた安堵だった。


「へえー。お前、そういうの出来んだ」

修斗は、その背中を眺めながら感心したように口笛を吹いた。

「出来るさ。大人だからな」

「じゃあ俺も大人になりてえな~。来世でな!」

警部が頷き、部下に指示を飛ばしながら現場の方へ戻っていく。

その背中を見送りながら、修斗はふと、にやりと笑った。


「ところでさあ、京太郎」


「何?」


「お前、今の流れでバッチリ名前と顔見せちゃったわけだけど」

京太郎の足が、止まった。

「この後の現場確認、当然お前も参加になっからな?俺だけじゃなくて」

京太郎は、ゆっくりと振り返った。その顔から、先ほどまでの社会人然とした余裕が、静かに剥がれ落ちてゆく。


「……あ」

「署まで一緒に行ってくれるんだ?ありがたいね、心強いよ。

たぶん調書の作成とか、朝までかかることになるけど」

修斗は満面の笑みだった。


京太郎は無言で夜空を仰いだ。斜張ケーブルの向こうに、星がいくつか見えた。

あそこから降りてこなければ、ただ札を投げつけるだけに留めていれば。

今頃はまだ、匿名の傍観者でいられたのだ。

「……ツメが甘いのは、俺の方だったか」


*


修斗の予言通り、現場確認と調書の書き取りが終わったのは翌日の朝だった。

そのけだるい時間帯の、帰結のように存在するその日の正午。


京太郎の愛車が、湾岸沿いの道を走っている。

MINI。三代目の、丸みを帯びた旧い型。色はブリティッシュ・レーシング・グリーン――だったはずだが、経年にやられて、今ではくすんだ抹茶色と言った方が正確だった。


独立心が強く、家の七光りを何より嫌う京太郎にとって、この車は自力で手に入れた自由の証だ。


免許を取った日のことは今でも覚えている。実家のガレージに、当然のように用意されていた一台。

ぬめぬめと光る黒塗りの車体。マクラーレンか何かだったか。車種にはあまり興味がなかったし、

興味を持つつもりもなかった。


母が用意させたものだということは、見ればわかった。鍵は、赤い紐のついた桐箱に収められて、

彼の部屋の机の上に置かれていた。京太郎は、その桐箱を一度も開けなかった。


代わりに、フリーライターとして稼いだ最初のまとまった金を握りしめて、中古車販売店の片隅に佇んでいたこの英国車を買った。すこし窮屈な運転席も、自分好みに換えたウッドのシフトノブの感触も、

エアコンの効きが怪しい夏場の蒸し暑さも、

あの息苦しい家の象徴たる高級車には決してない、確かな自分の手触りだ。


その助手席には今、修斗が、足を投げ出すようにして座っている。長い脚を持て余し気味に組み替えながら、開けた窓から腕を出して風を受けている。

MINIは、どこまでも続く海沿いの道を南に走っていた。左手に相模湾が広がり、午後の陽光が水面を砕いて、無数の光の破片を撒き散らしている。右手には色褪せたガードレールと、

その向こうに連なる古びた民家の屋根。潮の匂いが、窓から絶え間なく流れ込んでくる。


京太郎は、適当な空き地にMINIを停めた。


海沿いの売店。トタン屋根の下に、色の褪せたのぼりがはためいている。冷凍庫の唸る音と、

遠くの波の音。それだけがこの場所の時間を刻んでいた。二人は防波堤のコンクリートに並んで腰を下ろした。京太郎の手にはソーダ味の、修斗の手にはチョコレート味のソフトクリームがある。

眼前には、昼の光に灼かれた海が、どこまでも平らかに広がっていた。


「男二人でアイスを舐める人生だけは、避けたかったんだけどな」

修斗が、コーンを半ばまで噛み砕きながら言った。

「奇遇だな。まったく同意見だ」

京太郎が、ソーダ色の山を少し齧りとって応じる。


暑い風が二人の間を通り抜け、売店ののぼりをばたばたと揺らした。どちらも笑わなかった。

ただ、その沈黙の中に悪くない温度があった。


ようやく京太郎も修斗の進捗に追いついた。コーンの尻を指先で口に押し込み、

かみ砕く。彼はそのまま海に目線を投げた。波が防波堤の足元を洗い、

引いてゆく。その繰り返しを、三度、四度と数えた。

「俺が、小宮の代表で叢のメンバーになった」

言った。


言ってしまえばそれだけの文だった。だが、その一文をどう切り出すか、京太郎は昨夜から――正確には、調書を書きながらずっと考えていて、結局答えが出ないまま、こうして防波堤に座っている。

もう少し前置きをすべきだったか。あるいはもっと軽く、冗談めかして。

ちょっとした後悔が、ソーダ味の甘さと一緒に、舌の上で溶けた。


修斗は、笑って答えた。

「ワカってるよ」

その声は、驚くほど平らかだった。

「そういう理由だよな?急に会いに来たってのはよ」


京太郎は、思わず横を見た。修斗は海を見ていた。その横顔に動揺はなかった。

落胆も困惑もなかった。ただ、友人が打ち明けるべきことを打ち明けた、

それを当たり前のこととして受け止めている、静かな顔があった。京太郎は、

自分がどれだけこの瞬間を恐れていたか、今さらのように気づいた。拒絶されることではない。

巻き込むことを、恐れていたのだ。


「久々に会ったのに、汚い話をして悪いな」

「構わねって」

修斗はあくまで気楽に言う。


「俺が轟の代表になって、お前もそうだって知った時、ああ、あいつまた会いに来んのかなって、

うっすら思ってたよ」

修斗は棒を回す手を止め、親指で背後の京太郎の丸っこい愛車を指した。

「この車買う時もそうだったもんな。金貸してくれって言うのに、あの手この手で二時間も世間話してからようやく切り出しやがって」

京太郎は思わず苦笑した。覚えている。あの時も、こうして二人で並んで座っていた。

場所は違ったが、距離は同じだった。


「伝えてみろよ。要件ヨーケン

修斗の声が、ふっと柔らかくなった。

「女を口説くみてえな段取りなんかいらないから」


「……どういう風に?」

我ながら、情けない聞き方だと京太郎は思った。先日の母を思い出す。あの人もこうだったのだ。

言うべきことを胸に抱えながら、策と論理で武装して、肝心の一言だけをいつまでも出せなかった。

血は争えないとはよく言ったものだ。


ただ、自分の口からそれを言えば、修斗を――轟家の代表として、あくまで轟家のために立たねばならない男を、小宮の策謀の渦中に引きずり込むことになる。

友人としてではなく、駒として。あの母がやったのと同じことを。


その一線だけは、自分から越えたくはなかった。


しかし修斗は、ただ顎でしゃくった。「言えよ」と。言葉ではなく、その仕草だけで。

波が来て、引いた。カモメが一羽、二人の頭上を横切り海の方へ飛んでいった。


京太郎は息を吸った。潮の匂いが肺の底まで沁みた。

「……協力してくれないか?」

短く硬い声だった。しかしその硬さの中には、ようやく自分の言葉で踏み出した者の、

不器用な真っ直ぐさがあった。

「叢に入ってからのことは、俺の方針に合わせてくれ」


海が光っている。その光の中に、何か途方もなく面倒なものが待っていることを二人とも知っていた。

知っていて、並んで座っている。それだけで十分だった。


そして――

「……いいぜ」

眉を跳ね上げた修斗の顔は一瞬、間違いなく、光に属する快諾の笑みをそこに描き出した。


「……随分、あっさり頷くんだな?」

拍子抜けした京太郎が、思わず毒気を抜かれたようにこぼす。

「当たり前だろ」

修斗は鼻で笑う。

「お前が俺に頭下げてまで頼み事してきてんだ。ゴチャゴチャ勿体つけるほど野暮じゃねえよ。それに、轟はどうせ何も決めてねえ。乗っかる先があるなら、そっちの方が話が早い」


だが。

「それ自体はいいんだが…………ただしだ」

修斗は、せっかく灯したばかりの陽気な気配を、手ずから不必要な蝋燭のようにあっさりともみ消した。昨夜、鎧武者の太刀を正面から受け止めた時とは違う。

目が、もっと静かで、もっと深い場所から浮かび上がった覚悟の色を宿した。


「ん?」


「ひとつだけ、先に済ましときゃなんねーことがある」

修斗は上体を丸め、膝に突き立てた両肘に体重を預けたまま、はるか遠くの水平線を睨み据えた。

いや、海を見ているようで、その焦点はどこにも合っていない。ただ自らの内側に巣食う、

どうしようもなく重い何かと向き合っている顔だった。


「……なんだそりゃ?」

京太郎の声が、無意識のうちに低く探るような調子を帯びる。


「今日も、これからすぐそっちに行くつもりなんだ」

修斗は京太郎の問いには直接答えず、視線を固定したまま言葉を継いだ。

「どうしても外せねえ用でな」

最後の一節は、隣にいる京太郎に宛てたというより、自らに言い聞かせる独り言のように響いた。

打ち寄せる波の音に、その掠れた語尾が吸い込まれて消える。


これ以上、踏み込んで問いただすべきか。京太郎の奥に生じたその迷いが、2人の間にわずかな空白を作り出す。


しかし、結局彼は口を閉ざした。彼自身が「家の事情」という鎖を何よりも嫌悪しているからこそ、

友人が1人で抱え込もうとしている重荷を、無理にこじ開けるような真似はしたくなかったのだ。

それが、踏み込んではならない他者の領分に対する、彼なりの不器用な慎みだった。


「ま、そっちが片付いたらすぐ連絡すっから、あらためて具体的なとこ詰めてこうぜ。

今度はもっとマシな店でな。アイスとかじゃなくてよ」

沈黙を破って顔を上げたときにはもう、修斗は、明るいものでも憂いだものでもない、完璧な第三の顔を作り上げていた。京太郎がよく知る、ふてぶてしくも人懐こい悪友の顔だ。


修斗は「よっ」と声を漏らしてコンクリートから腰を上げると、

ズボンに付いた砂を無造作に払い落とした。大きく伸びをして、

いつもの軽い足取りで歩き出す。その後ろ姿が、駐車場の方へと二、三歩向かいかけて――ふと、止まった。


「あっ」


潮風の中に、ひどく間の抜けた小さな声が漏れた。


京太郎は、その背中を見てすべてを察した。

「……お前、自分のバイクでここまで来てたと思っただろ?」

修斗の肩がわずかに強張った。それが答えだった。愛車のカタナは昨夜の戦闘で傷つき、

今頃は警察の保管庫に預けられたままだ。彼らのアシをここまで務めたのは、京太郎のMINIである。


「バカ!んなわけねえだろ。ちょっと景色見ようとしただけだ」

振り返った修斗の顔は、見事なまでにふてぶてしかった。だが耳の先が、ほんのわずかに赤い。


「とにかくお前、次は奢れよ。アイスじゃなくて、ちゃんとしたメシな」

修斗は助手席のドアを開けながら言い捨てた。京太郎は鼻で笑ってエンジンをかけた。

くすんだ抹茶色のMINIが、潮風の中をゆっくりと走り出していった。


*


母にすべてを託されてから四日。


京太郎の世界は、嘘のように凡庸であり続けた。


外では雨が降り続いている。もう三日目になる。梅雨の名残のような、しつこく、ぬるい雨だ。

アパートの薄い壁を叩く水音が、途切れることなく部屋の底に沈殿してゆく。

六畳一間。モニターの青白い光だけが、カーテンを閉め切った薄闇を照らしている。


京太郎はキーボードを叩いていた。文字を紡ぎ、それを金に換える、いつもの仕事だ。

某ウェブメディアの取材記事。締め切りは明後日。この原稿が通れば、今月の家賃は払える。

それだけのことだ。それだけのことが、今の京太郎にはありがたかった。


実家での出来事は、日を追うごとに輪郭を失っていった。龍の精も、母の涙も、旧友との久々の顔合わせも。この生温い日常の中に溶け、薄まり、まるで質の悪い夢のように遠ざかってゆく。

そう思い込もうとしていた。思い込めると信じたかった。


昼過ぎに、一度だけ母に電話をかけた。


叢の件で確認しておくべきことがあったからだ。事務的な用件。それ以上でも以下でもない、と自分に言い聞かせながら。


「朱鷺のところの候補には、いつ会いに行けばいい?」

『まだ先方から正式な返答がありません。朱鷺殿は慎重な方ですから、もう少し待ちなさい』

「了解。じゃあ、決まったら連絡くれ」

『ええ。――体には気をつけて』


最後の一言が、少しだけ当主の声ではなかった。京太郎はそれに気づかないふりをして、通話を切った。


*


それから二、三時間。キーボードを叩く指は順調に動き、原稿は七割方仕上がっていた。

マグカップのコーヒーはいつの間にか冷めきっている。雨音だけが変わらない。

何も起きない午後。何も起きないことの、ありがたさ。


午後5時17分。


無機質な電子音が、静寂を切り裂いた。


スマートフォンの画面に灯る「母」の一文字。京太郎は、キーボードの上に置いた指を止め、

深く、うんざりとした溜息をついた。朱鷺の件だろうか。それとも、また何か面倒な追加事項か。


通話ボタンに指を伸ばしながら、彼は画面の端に表示された時刻を見た。さっき話したばかりなのに。

母が同じ日に二度電話をかけてくることは、これまで一度もなかった。

その事実に、指が触れるより先に、胸の奥が冷えた。


『京太郎、今かまわない?』

静の声だった。だが、昼に聞いたそれとは、まるで別人のものだった。感情が抜け落ちている。

怒りでも悲しみでもない。

感情というものを、あらかじめ全て切除してからでなければ、口にできない種類の言葉が控えている――そういう声だった。

「どうしたんだよ?」


『心して聞きなさい』

「なんだよ、改まって――」


『……修斗君が、亡くなりました』


キーボードの上の指が、止まる。

画面の中で、マウスカーソルが行き場をなくした。雨が壁を叩いている。冷めたコーヒーの表面に

モニターの光が映っている。世界は一ミリも変わっていない。何ひとつ変わっていないのに、

その一言が、目に映るすべてのものに別の見方を与えた。


「おい待て。それはどういう――」

『詳細は不明です』

静の声は、鋼線のように細く、硬い力で追及を断ち切る。


『ですが、タイミングが出来すぎている。叢への参加を表明した直後に、その候補者が死ぬ。――これが偶然起こり得ることと思いますか?』

京太郎の喉が、干上がった。

『しばらくうちに戻りなさい。あなたの身にも危険が差し迫っているかもしれません』

通話が、一方的に切れた。


京太郎はしばらく動けなかった。スマートフォンを耳に当てたまま、通話終了の画面を見つめている。

冷たいガラスの感触だけが、これが現実であることを告げていた。雨音が遠い。モニターの光が

青白い。カーソルがまだ点滅している。


やがて、彼の手からスマートフォンが滑り落ちた。

布団の上に落ちたそれは、なんの意味ある音も立てなかった。


次回更新:不定期

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