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ターマハラ ― 人間性への回帰 ―  作者: クリコミ
第一章 ターマハラの神憶
6/46

第四段 初夏の海 終わりの予感

季節は初夏。

空は高く澄み、強すぎない日差しが、街全体をやわらかく照らしていた。


アヤネ、カガセオ、ナミカ、ナギト、そしてシロの五人――正確には四人と一匹は、朝の電車に揺られながら、海へ向かっていた。

車内は静かで、乗客の姿はまばらだった。

ときおり聞こえるのは、車輪がレールを踏む音くらいだ。


ナミカは八歳になり、年相応にすらりと背が伸びていた。

黒く艶のある長い髪は肩よりも下まで伸び、朝きちんと整えられている。

まだ幼さは残っているものの、その立ち姿や表情には、少しずつ大人びた雰囲気が混じり始めていた。


一方、ナギトも六歳になり、体つきは以前よりしっかりしてきていた。

黒髪は短く切りそろえられ、動き回るたびに軽やかに揺れる。

まだあどけなさの残る顔立ちだが、その瞳には好奇心があふれている。


シロは通路側の足元で、丸くなって伏せている。

二年前はまだ子犬の面影を残していたが、今ではすっかり成長し、肩まで届くほどの体高を持つ立派な大型犬になっていた。

白い毛並みはよく手入れされ、落ち着いた様子で、ときおり大きな尾を床にゆっくりと打ちつけている。


ナギトは窓際の席に座り、流れていく景色を飽きもせず眺めている。

ナミカはその隣で、ときおり弟と、足元のシロの様子に目を向けていた。


この旅行は、前日の朝食の席で、突然アヤネが切り出したものだった。


「突然で驚くかもしれないけれど……」


アヤネは湯気の立つ湯のみを両手で包みながら、そう前置きしてから言った。


「ナミカ、明日と明後日は学校がお休みでしょう?

だからね、一泊だけだけど……ナニワの海へ行ってみようかと思うの」


その言葉に、ナミカは一瞬きょとんと目を瞬かせた。


「海……?」


「ええ。少し遠いけれど、電車で行けるところよ」


そう言ってから、アヤネはナギトの方を見て、やさしく声をかけた。


「ナギちゃんはどう? 海、行ってみたい?」


次の瞬間だった。


「行ってみたーい!」


ナミカが椅子から身を乗り出すようにして声を上げる。


「私も当然行きたいわ!」


それにつられるように、ナギトも両手を上げて元気よく叫んだ。


「いく! いく!」

「シロもいく!」


シロはその声に反応したのか、ぱっと顔を上げ、尻尾をぶんぶんと振った。


あまりにも即答だったため、アヤネは思わず小さく笑ってしまう。


「ふふ……そうよね。嫌だって言われたらどうしようかと思ってたけど」


カガセオも、その様子を見て穏やかに微笑んだ。


「海ですか。いいですね。

シロも連れて行ける宿でしたら、なおさら楽しそうです」


「ええ。せっかくだから、少しだけ日常を離れましょう」


そう言って、アヤネはぱん、と軽く手を叩いた。


「よし、そうと決まったら準備をしなくちゃね。

着替えに、タオルに……それからみんなの水着も用意しなくちゃ」


「おふろある?」


と、ナギトが不思議そうに尋ねる。


「あるわよ。海の近くのお宿に泊まろうと思うから」


「やったー!」


ナギトは椅子の上で小さく跳ね、シロの首に抱きついた。

シロは驚きもせず、ゆったりとした動きでナギトを受け止める。


ナミカはそんな二人――いや、一人と一匹を見て、少しだけ大人びた笑顔を浮かべた。


(海……)


胸の奥で、その言葉をそっと繰り返す。

なぜか理由は分からないが、楽しみと同時に、言いようのないざわめきも感じていた。


――そして翌朝。


こうして五人は、電車に揺られながら、海へ向かっているのだった。


アヤネたちが暮らすアスカから、電車に揺られることおよそ二時間。

車窓の風景は、いつの間にか高い建物が減り、低い屋根の家々と、ゆったりとした道が目立つようになっていた。


「まだつかない?」


と、ナギトが何度目か分からない質問をする。


「もうすぐよ。ほら、次の駅がナニワって書いてあるでしょう?」


そう言ってナミカは、窓の外に目を向けた。

その先に、かすかにきらめく青が見えた気がして、思わず胸が高鳴る。


足元では、シロがゆっくりと体勢を変え、ナギトの膝に鼻先を押し当てた。


「シロ、もうすぐだって」


ナギトがそう言うと、シロは分かったように小さく喉を鳴らした。


やがて電車は、終点の駅にゆっくりと滑り込んだ。


ホームに降り立つと、空気の匂いがはっきりと変わった。

潮の香りを含んだ、少し湿った風が、頬をなでる。

ホームには人影がほとんどなく、足音もまばらに響く程度だった。

駅員の姿も遠くに一人見えるだけで、改札の先はしんと静まっている。


「ナミ姉ちゃん、なんか、くさい?」


ナギトが鼻をひくひくさせて言うと、


「それはね、海のにおいだよ」


とナミカが教える。


シロも同じように鼻を鳴らし、興味深そうに辺りを嗅ぎ回った。


「うみのにおい……」


ナギトは不思議そうに、もう一度深く息を吸った。


駅から宿までは、さらに十五分ほど歩く必要があった。

人通りは多くなく、道の両脇には土産物屋や、小さな食堂が並んでいる。

けれど看板は出ていても、店先に人の気配は少ない。

シャッターが半分降りたままの店もあり、声や呼び込みは聞こえなかった。


遠くから、波の音がかすかに聞こえ始めた。


「ねえ、きこえる?」


ナミカがそう言うと、


「ざーっていってる!」


ナギトは嬉しそうに声を弾ませた。


シロも波の音に反応したのか、耳をぴんと立て、足取りを少し早めた。


やがて、一軒の宿の前でアヤネが足を止めた。


「着いたわよ」


素朴だが、どこか落ち着いた佇まいの宿だった。

玄関をくぐると、木の床がきしりと音を立てる。

ロビーは広いのに静かで、客の姿はほとんど見当たらない。

どこか、時間だけがゆっくり流れているようだった。


アヤネは受付で名前を告げ、何やら手続きを始めた。

その間、ナギトは落ち着かない様子で、きょろきょろと辺りを見回し、

シロはその隣で静かに座り、番犬のように周囲を見渡している。

受付の奥から聞こえるのは、帳面をめくる音と、鈴のような鍵の触れ合う音だけだった。


「ねえ、もううみいく?」


「まだだよ。荷物を置いてからね」


カガセオは苦笑しながら、ナギトの頭と、シロの背を順に撫でた。


手続きが終わると、一同は宿の二階へと案内された。

階段を上がり、廊下の奥の部屋の戸が開く。

廊下にも人影はなく、畳を踏む音がやけに響いた。


「わあ……」


思わず、ナミカが声を漏らした。


部屋は広く、畳の香りが心地よい。

そして、正面の大きな窓の向こうには――


一面に広がる海があった。


陽の光を受けて、波がきらきらと輝いている。

水平線まで遮るものはなく、空と海が溶け合っているようだった。

浜辺を見下ろしても、人の姿は点のようにしか見えない。

波の音のほうが、街の気配よりもずっとはっきりしていた。


「うみ……」


ナギトは窓際まで駆け寄り、両手をガラスにぺたりとつけた。


シロもその後ろに立ち上がり、窓の外をじっと見つめている。


「おおきいね……」


アヤネはしばらく黙って景色を眺めてから、ぽつりと言った。


「……ナニワの海は、いつ見てもきれいね〜」


この景色を、

そしてこの時間を、

できるだけ心に刻みつけるように――。


ほどなくして支度が始まった。


ナミカは鏡の前に立ち、少し背伸びをするようにして水色の水着の肩口を整えていた。


露出は控えめで、胸元も背中もすっきりと覆われている。

成長期の身体に合わせて選ばれたそれは、どこか実直で、

ナミカの性格にもよく似合っていた。


黒く長い髪は後ろでひとつに束ねられ、

何度も角度を変えながら、鏡の中の自分を確かめている。


「……変じゃない?」


そう呟くように言うナミカに、アヤネは優しく微笑んだ。


「大丈夫よ。よく似合ってるわ」


その言葉に、ナミカは少しだけ安心したように肩の力を抜いた。


「ナギちゃん、ちゃんと着られた?」


と、アヤネが声をかけると、


「うん! できた!」


と、ナギトは元気よく答えた。


まだ少し大きめの水着が、短い黒髪の頭と細い肩にかかり、

成長途中の体を、どこか頼りなく包んでいる。


アヤネは、淡い色の水着の上に薄手の羽織をまとい、麦わら帽子をかぶっていた。

その姿は、どこか穏やかで、周囲に人の気配がない分、なおさら静かな風景に溶け込んでいるようだった。


「準備はいい?」


そう声をかけながら、アヤネは小さなバッグを肩にかけた。


一方、カガセオは先に外へ出て、バーベキューの準備を始めていた。

浜へ続く道にも、人影は見えない。


「じゃあ、行きましょうか」


その一言で、家族全員が部屋を後にした。



宿から少し歩くと、視界が一気に開けた。


目の前に広がる海は、陽の光を受けて眩しく輝いている。

波が寄せては返し、白い泡が砂浜に残っては消えていった。


広い砂浜には、人影がなく、声も聞こえない。

聞こえてくるのは、波の音と、風が砂をなぞる音だけだった。


「うわぁ……!」


ナミカが思わず声を上げる。


「うみー!」


ナギトは靴を脱ぐのももどかしく、砂浜を駆け出した。

その後を、体の大きくなったシロが、低い鳴き声を上げながら追いかける。


三人は一斉に波打ち際へ向かい、足元に触れる冷たい水に歓声を上げた。


「つめたーい!」


「でもきもちいい!」


その声も、広い浜辺ではすぐに波音に溶けていく。


シロは波を警戒しながらも、しぶきを浴びると嬉しそうに尻尾を振っている。


少し離れた場所で、アヤネはその様子を静かに見つめていた。

周囲に他人の視線がないことに、どこか安堵したようでもあった。


カガセオは浜辺の一角で、黙々とバーベキューの準備を進めている。

煙が立ち上っても、それを気に留める者はいなかった。



しばらくすると、ナミカが振り返って声を上げた。


「お母さん! もっとあっちまで行っていい?」


指差した先は、少し深くなっている場所だった。


アヤネは一瞬迷い、それから首を縦に振る。


「いいわ。でも、ナギちゃんから目を離さないで」

「それと、シロも一緒にね。無理しないこと」


「はーい!」


ナミカはそう返事をして、ナギトの手を取った。


二人と一匹は、ゆっくりと沖へ向かい、波と戯れながら遊び続けた。


アヤネは胸の奥に、言葉にできない不安と、温かな幸福が同時に広がるのを感じていた。

この静けさが、どこか現実から切り離された時間のようにも思えた。



やがて、香ばしい匂いが風に乗って届いてきた。


「そろそろ戻ってきなさい!」


アヤネの声が、浜辺に響く。


返事をする声も、周囲には彼らのものしかない。


「はーい!」


名残惜しそうにしながらも、三人は浜へ戻った。


焼き始められた肉や野菜が、じゅうじゅうと音を立てている。

その音が、静かな浜辺ではやけに大きく聞こえた。


「わあ……おいしそう」


ナミカの目が輝く。


ナギトは待ちきれない様子で、じっと網の上を見つめていた。


「熱いから気をつけて」


そう言いながら、アヤネは皿を配る。


食後、再び海へ戻り、今度は皆で泳いだ。


水に浮かびながら、空を見上げると、雲がゆっくりと流れている。


しばらくして、近くの小さな船着き場で、

クルーザーを借りられることになった。


船着き場にも人の姿はなく、係留された船が数隻、静かに波に揺れているだけだった。


桟橋に係留された白い船は、思っていたよりもしっかりしており、

船体が波に合わせて、ゆっくりと揺れている。


「ほんとに乗るの?」


ナギトは少し緊張した様子で、足元を覗き込んだ。


「大丈夫だよ。揺れも少ないから」


そう言って、カガセオは先に乗り込み、手を差し出す。


アヤネがナギトの背中を支え、

ナミカはその様子を見ながら、慎重に後へ続いた。

シロも少し戸惑いながら、低く鳴き声を上げて乗り込む。


全員が乗ると、カガセオは操縦席に立ち、エンジンを始動させた。


「じゃあ、行きますよ」


低い振動とともに、船は静かに桟橋を離れる。


風を切って進み始めると、潮のしぶきが細かく舞い上がり、

頬に心地よい冷たさを残した。


後部座席には、アヤネ、ナミカ、ナギトが並んで座り、

シロはナギトの足元に伏せて、じっと前方を見つめている。


「すごーい……」


ナギトは目を輝かせ、海の色が変わっていくのを食い入るように見ていた。


「さっきまでいた浜が、ちっちゃくなってく……」


ナミカはそう言って、振り返りながら指をさす。


上空では、海鳥が船と並ぶように飛び、

ときおり羽音が風に混じって聞こえてきた。


「とんでる! ほら、あそこ!」


ナギトは何度も手を振り、

それに応えるかのように、鳥が旋回する。


ナミカはその様子を、少し眩しそうに眺めていた。


(この時間が……ずっと続けばいいのに)


アヤネは、風に揺れる海を見つめながら、

胸の奥に小さな痛みを覚えていた。


船はしばらく沖を回り、

ゆっくりと速度を落として、再び岸へと向かい始めた。


やがて、空は橙色に染まり始めた。


クルーザーを戻し、浜辺に腰を下ろして、皆で夕日を眺める。


海に沈んでいく太陽は、言葉を失うほど美しかった。


アヤネは、その光景を胸に刻むように、静かに目を閉じた。


宿に戻り、夕食を終えたあと。


子どもたちが眠りについた頃、アヤネとカガセオは小さな声で話し始めた。


「……そろそろ、ですね」


「ええ。覚悟はしていましたけれど……」


二人は言葉を選びながら、ナギトとの別れについて話し合っていた。


そのとき、布団の中で横になっていたナミカは、眠ったふりをしながら、その会話を耳にしてしまう。


(……おわかれ?なんの話?どういうこと?)


内容の意味がわからないながら、とてつもない不安に胸の奥が、きゅっと締めつけられた。



翌朝。


朝食をとり、少しだけ海で遊んだあと、昼食を宿で済ませ、帰りの電車に乗った。


車内は、観光帰りの乗客たちの声が遠くに混じりながらも、どこか眠たげな空気に包まれていた。

発車の合図が鳴り、列車がゆっくりと動き出す。


ゴトン、ゴトン。

レールの継ぎ目を踏むたびに、一定のリズムが車体を揺らした。


疲れ切ったナミカとナギトは、並んで眠っている。

ナミカは窓側の席で、長い黒髪を肩に落としたまま、小さくうつむいて寝息を立てていた。

その隣でナギトは、口を少し開け、子どもらしい無防備な顔で眠っている。

足元ではシロが丸くなり、ときおり耳だけをぴくりと動かしながら、静かに目を閉じていた。


アヤネは向かいの席に座り、窓の外をぼんやりと眺めていた。

海辺の町が遠ざかり、やがて田畑と低い家並みが続く景色へ変わっていく。

さっきまで潮の匂いを含んでいた風は、いつの間にか乾いた草の匂いに変わっていた。


(……終わってしまったのね)


楽しかったはずの旅の余韻が、胸の奥で静かにほどけていく。

けれど同時に、ほどけた糸の先に、見えてはいけないものがぶら下がっている気がして、アヤネは視線を落とした。


窓ガラスに映る自分の顔が、思ったよりも疲れて見えた。

それが旅の疲れなのか、それとも別の理由なのか、アヤネには分からない。


ナギトの寝顔を見つめながら、アヤネは静かに考え込んでいた。


(この子の未来のために……)


言葉にすると、それだけで正しいことのように聞こえる。

けれど“未来”という言葉の裏側に、何が待っているのかを知っているのは、アヤネ自身だった。


彼女はそっと手を伸ばし、ナギトの前髪を指先で撫でた。

小さな額はあたたかく、呼吸は規則正しい。

その体温が確かにここにあることが、むしろ残酷に思えてしまう瞬間があった。


向かいではカガセオが、膝の上で手を組み、前を見たまま黙っていた。

普段なら子どもたちの寝顔に微笑むはずの彼が、今日は視線を落とし、どこか遠い場所を見ている。


アヤネは、その横顔を盗み見る。


カガセオの表情は硬い。

声をかければ、きっといつも通りの丁寧な言葉で返してくれるだろう。

「奥様、お疲れではありませんか」

そんなふうに。

けれど今は、その“いつも通り”が、かえって壊れそうに思えてしまった。


ゴトン、ゴトン。

列車の音が、会話の代わりに二人の間を埋めていく。


カガセオが、ふっと小さく息を吐く。

その息はため息のようでもあり、何かを飲み込む音のようでもあった。


(……あなたも、同じことを考えているのね)


アヤネはそう思ったが、口には出さなかった。

言葉にした瞬間、旅の終わりが、別れの始まりになってしまう気がしたから。


窓の外では、雲の影が田畑の上をゆっくり滑っていく。

遠くに見える山の稜線は、夕べ海で見た水平線とは違い、どこか固く、逃げ道のない輪郭をしていた。


アヤネは再び、ナギトの寝顔を見た。

小さな手は膝の上に落ち、指先がわずかに動く。

夢の中で何かを掴もうとしているのかもしれない。


(……どうか、今だけは)


この時間だけは、ただの“家族旅行の帰り道”であってほしい。

アヤネは、心の中でそう祈った。


電車は、静かに走り続けていた。

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