第三十一段 思い出の場所 海の景色
早朝――
春の陽気に包まれ、空はどこまでも晴れていた。
ナギトは黒いシャツに、灰色のズボンを着ていた。
肩にはショルダーバッグを掛けている。
アスカ駅のホーム。
ナギトは改札前で、落ち着かない様子で時計を見つめていた。
やがて、人の流れの中から一人の女性が現れる。
白いワンピースに薄手の青いカーディガンを羽織り、
つばの長い白い帽子をかぶっていた。
手にはバッグ。いつもより大人びた装いだった。
「ナミカさん!」
「ナギトさん。お待たせしました」
「それでは……行きましょうか」
二人は並んで電車に乗り込み、ナミカは帽子を外して座席に腰を下ろした。
列車は静かに動き出し、ナニワへと向かう。
「突然のお誘いで、ご迷惑ではありませんでしたか?」
「いえ。大丈夫です。特に用事もありませんから……」
「そう。よかった」
少し間を置いて、ナギトが尋ねる。
「ところで……どうしてナニワへ行こうと思ったんですか?」
ナミカは窓の外へ視線を向けた。
「……少し、確かめたいことがあって」
「それに、海が綺麗なんです」
「なんだか……ナギトさんと行きたくなったんです」
「そうですか……」
「お誘いくださって、ありがとうございます。とても嬉しいです」
しばらく沈黙。
電車のガタン、ゴトンという規則的な音だけが車内に響く。
やがて、ナミカが小さく微笑んだ。
「遅くなりましたが……世界大会、本当におめでとうございます」
「第五回戦まで進むなんて……すごいことです」
「ナギトさんの努力が、ちゃんと形になりましたね」
「大学でも、きっと注目の的だったでしょう?」
「ええ……かなり声を掛けられました」
「そうですよね。でも、それだけの快挙ですもの」
ナギトは少し息を吸い、意を決して口を開いた。
「……アメノコトタチですが」
「あれは、ナミカさんですよね?」
「……」
「間違っていたらすみません。
でも、戦っていて分かったんです。
あの戦い方……ナミカさんそのものだった」
「以前、ナミカさんが言っていました。
『前回王者の戦いを、自分の目で見てください』って」
「……もしかして、あの言葉は、自分に気づかせるためだったのではないかと」
ナミカはすぐに答えなかった。
ただ、窓の外を流れる景色を見つめ続ける。
電車の音が沈黙を埋める。
やがて――
「……そうです」
短く、しかし確かな声。
「ナミカさんは……一体、何者なんですか?」
「アメノコトタチは前回大会の優勝者ですよね。
その時、ナミカさんはまだ子供だったはずです」
「教えてください。
自分は……もっとナミカさんのことを知りたいんです」
ナミカは小さく息を吐いた。
「……ナギトさん。
私、とても疲れているんです」
「少しだけ……休ませてくれませんか?」
「えっ……あ、はい……」
次の瞬間。
ナミカはそっと、ナギトの肩にもたれかかった。
(……えっ)
ナギトの身体が固まる。
肩に触れる温もり。
髪から漂う淡い香り。
心臓がドクン、ドクンと音を立てる。
しばらく時が流れた。
窓の外には、青い海が見え始めていた。
ナギトはその景色を静かに眺めていた。
ただ、ナミカとこうして隣にいられることが、たまらなく嬉しかった。
『まもなく、ナニワ駅に到着します』
車内アナウンスが流れる。
「ナミカさん……起きてください。ナニワ駅に着くみたいですよ」
「……うん……」
ナミカはゆっくりと目を開いた。
「あっ……すみません。
とても疲れていたみたいで……」
「ご迷惑でしたね……」
ナギトは慌てて首を振った。
「い、いえ……全然……」
だが、胸の鼓動だけはまだ収まらなかった。
そして電車は、海の街・ナニワへと滑り込んでいった。
駅を出る二人。
潮の香りを含んだ、少し湿った風が頬をなでた。
ホームには人影がほとんどない。
塩の匂いが漂っていた。
「うわぁ……懐かしい。この匂いも」
ナミカは駅を出ると、すぐに言った。
駅前には商店街が広がっていた。
少し古い建物が並び、飲食店が点在している。
人通りはまばらだった。
「少し早いですが、ここで昼食をとってから海へ行きませんか?」
「はい、いいですよ」
ナミカは少し悩んでから、うどん屋へ入った。
「……おいしい」
「あまり、私……うどんを食べたことがなかったんです」
「いえ、自分もです……」
ナミカは長い黒髪がつゆに触れないよう、指でそっと押さえながらうどんをすすった。
その仕草があまりに綺麗で、ナギトは思わず見惚れてしまう。
ナミカは視線に気づいたのか、顔を上げた。
「さっきから……何を見ているんですかぁ?」
ナミカは微笑んで言った。
「いえっ、何でもありません……」
ナギトは顔を赤くして言った。
「何ですかぁ、もう……」
ナミカも恥ずかしそうに言う。
そして少しむっとして、
「早く食べないと、置いていきますからね」
「はい……」
ナギトは小さな声で答えた。
二人は完食し、会計を済ませ、
「どうもごちそうさまでした」
と二人で言って外へ出た。
しばらく歩くと、古めかしい旅館が見えてきた。
「少し、あの旅館に寄ってもいいですか?」
「……はい、大丈夫です」
(なんだか……懐かしい感じがする。気のせいかな……)
「ごめんくださーい!
どなたかいらっしゃいませんか?」
ナミカが声を張ると、老婆が現れた。
「何か御用でございますか?」
「……アヤネ様?」
「娘のナミカと申します」
「私は女将のセアマと申します」
「そういえば……以前、アヤネ様はお子様をお連れになりましたね」
「とても懐かしゅうございます」
「あの時のお子様でしたか……大きくなられましたね」
「ありがとうございます。
つい懐かしくて寄ってしまいました」
セアマはナギトを見つめる。
(……あの子は?)
「すみません。
以前泊まったお部屋を少し拝見してもよろしいでしょうか?」
「確か二階の、大きな窓から海が見える部屋だったと思うのですが」
「いつもアヤネ様が泊まられるお部屋でございます。ご案内いたします」
案内され、二階の部屋へ。
「ここでございます」
ナミカとナギトは部屋へ入った。
「懐かしい……
ここから見える景色も……」
「ナギトさんも、
この部屋に私と一緒に泊まったんですよ?」
「えっ……本当ですか?」
「えぇ……」
ナミカは少し寂しそうに笑って答えた。
セアマが微笑んで言った。
「あの……ナミカ様。
そちらの方は……もしや彼氏様で?」
「い、いえ!違います!」
ナミカは慌てて否定した。
「この人はナギトと申します。
以前こちらに泊まった際、小さな男の子がいたかと思いますが……」
「あっ、思い出しました!」
「元気な小さな男の子がいらっしゃいましたねぇ」
「そうでしたか……立派な青年になられましたね」
「いえ……」
ナギトは恥ずかしそうに俯く。
それを見てナミカがクスッと笑った。
「セアマさん、ナギトさん恥ずかしがっていますよ」
「でも、ナギトさんは先日の世界大会でも活躍されたんです」
「あら!
天然遺伝子で第五回戦まで進出したあの選手さんですか」
「あの小さな男の子がねぇ……」
セアマは感慨深げに頷いた。
ナギトは、
自分の過去を知る人と、ナミカ以外で初めて出会った。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
記憶はない。
けれど、自分は確かにここにいたのだ。
その事実が、胸に静かに沁みていく。
しばらく景色を眺めた後、二人は旅館を後にし、海辺へ向かった。
海は澄み渡り、日差しを反射してキラキラと輝いていた。
風は心地よく、波の音が優しく響く。
「綺麗な砂浜ですね」
「あっちの方へ行ってみましょう!」
二人は浜辺を歩く。
波の音がザーッ、ザーッと心を洗う。
遠くで海鳥が舞っていた。
「あっ、タカラガイ!」
ナミカが拾い上げる。
「タカラガイ、ご存じですか?」
「いえ……知りません」
「少し、一緒に探してみませんか?」
「模様も形も少しずつ違うんです。それに大きさも、大小いろいろありますよ」
「はい、やってみます」
二人で砂浜を探し回る。
なかなか見つからなかったが、ナギトが――
「あっ、ナミカさん。見つけました!」
「早いですね。あっ、私も!」
ナミカも見つけたようだった。
しばらくして――
ナミカは五つ、ナギトは四つ。
ナミカはハンカチを広げて並べた。
「結構見つかりましたね」
「そうですね……」
「綺麗ねぇ」
ナミカは嬉しそうだった。
しばらくして、ナミカは、少しだけ表情を曇らせた。
「……実はね、ナギトさん。
シロが……この前、亡くなったんです」
「えっ……そうだったんですか……」
「えぇ……
それで思い出したんです。
ここで、私とナギトさんとシロで駆け回って遊んでいたことを……」
「今日は、
シロの遺骨をこのナニワの海に撒こうと思って来たんです」
「自然に還してあげたくて……」
「せめて、
私とナギトさんの手で……
その方が、シロも喜ぶと思って」
「一緒に散骨してくれますか?」
「……はい」
二人は静かに海へ遺骨を撒いた。
「シロ……ありがとう」
「ナギトさんと、また引き合わせてくれて……本当にありがとう」
「シロ……
昔、一緒に遊んでくれてありがとう」
波が静かに遺骨を運び、
白い砂浜に光が揺れていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
シロ....亡くなっていました。
ナミカとナギトを再開させた影の功労者です。
安らかに.....。
そして思い出の場所についに来ましたね.....。
ナミカはいつかナギトを連れて行きたいと思っていた思い出の場所なのです。
やっと一緒に行けることができましたね。
良かった。
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