第二十話「リンフォン最後の姿!」「開かれる地獄の門!」
「――あの後、君に遅れること数年して、私も獄正の位の得度は受けた。だがね、そうして君と同じ獄正になったその時には、自分でも驚くほどに、何の感慨も湧かなかったよ、レイヤ君」
十三夜の月を背景にして、閻婆は首を下ろした。
閻婆と化したカズトモさんの言葉は、背筋が震えそうになるほど冷たい。カズトモさんの娘である、チヤちゃんと同じだ。
「確かに私は、霊力が皆無に等しい。だからそのハンデを跳ね返そうと、呪具を作る技術と、それで戦う技術を磨き上げた。私などと違い、霊力に恵まれた滅魔師にだって負けるものかと、必死に努力したよ。だがしょせん、それは無駄な努力だったと突きつけたのが、あの獄正得度戦の日の君だ」
さっきから、閻婆のくちばしはずっと開いたまま。閻婆の口の中にある、カズトモさんの顔からの声は、止まらない。
「レイヤ君。君は霊力が低い傾向にある男として生まれながら、並の女性の滅魔師を軽く凌駕するほどに高い霊力を持っている。あまつさえ、その高い霊力を大人になった今も維持し続けているのだ――改めて思うが、感服するべき才覚だよ」
カズトモさんのその話は、わたしもパパやママから聞いている。
退魔師や滅魔師に向いているのは、男の人に比べると高い霊力を持ちやすい女の人。そして、特にわたしやチヤちゃんみたいな、女の子が打ってつけなんだって。
なぜなら、ある人が一生で最も強い霊力を持っていられるのは、子どもの時期だから。
その人の体質や修行のやり方次第では、ママみたく大人になっても霊力を失わずにいることだって、できなくはない。それでも、子どもの時と同じだけの霊力をずっと維持し続けることができるのは、ほんのわずかな人たちだけ。
だからこそ、レイヤさんに驚くカズトモさんの考えには、うなずくことができる。
「私はあの後、何とかしてこの身に霊力を身に着けようと、ありとあらゆる知識を頼った。その中には、禁術だって含まれていたさ。だが駄目だったよ。男として生まれ、しかもすでに大人になった私では、もはや禁術をもってすら、霊力を得ることは叶わないというのが、私の研究の成果だった」
「――だからこそ、霊力ではなく妖力に……妖魔の力に頼ろうと発想を切り替え、禁術でその身を閻婆へと変えたというのか、カズトモ殿は」
パパの問いかけに、カズトモさんは含み笑いを一つ見せる。
「結果的にはそうなった、というのが、その問いへの答えだろうな。退魔師連盟長殿」
ぎらぎらとかがやく閻婆の目が、下の方に向けられた。
再び閻婆の胸の前で交差した、赤くて大きな翼――その間にいる、チヤちゃんを見つめる。
「五年前のあの日、私はチヤから霊力を借り受けて、今チヤが持っているこのリンフォンの実験をしていた。今思うと、チヤからもらい受けた霊力が少々多すぎたんだろう――リンフォンは暴走を始め、地獄への『門』が開いてしまった」
チヤちゃんは、閻婆の――チヤちゃんのパパの翼の間で、うつむいていた。わたしのいる場所からじゃ目は見えないけど、下唇を噛んでいるのだけは分かる。
「そのとき地獄の『門』を通じて、私の家の地下室に出てきてしまったのが、この閻婆というわけだ。そのとき閻婆と戦えそうな呪具が無かった私は、だがとっさに人と妖魔を融合させる力のある呪具を棚から出した。これで閻婆を自身と一体化させ、それで閻婆を抑えようとしたのだ。結果はかんばしくはなかったようだがな」
チヤちゃんは、もとの形に戻ったリンフォンを両手の中に握っていた。その手が、びくりと跳ねた。
「かくして閻婆と融合した私は、しばらく家の中で暴れていたらしく、妻とチヤ以外の子どもはそれに巻き込まれたようだ。更に、私が用心のために仕掛けておいた妖魔封印の結界に、皮肉にも自分自身で引っかかる形となった。そのあと五年は、結界の中に閉じ込められたままだったのだよ。だが――」
閻婆の口の中で、カズトモさんが満面の笑みを見せた。とてもふつうの人間では見せられないような不気味な笑顔に、わたしはたじろぎそうになる。
「閻婆を屈従させようともがいているうちにチヤとも再会でき、しかもそのチヤはリンフォンをすでに十分に扱えるほどにまで育っている、ときた。私が味わった不運に比べれば、山ほどお釣りが来るほどの僥倖だ!」
ざり、という工事現場の空き地を踏みしめる音が、いきなり響いた。
「――――」
(……レイヤさん?)
わたしの中の「ワタシ」が、その足音の持ち主の名前を言った。
わたしが視線をもう少し横に向けると、そこには確かに、ゆらりと歩を進めるレイヤさんがいた。
レイヤさんは、右手に握っていたきんちゃく袋から、小さなガラスの作り物を取り出した。ふちもガラスでできていて、その真ん中に銀色の丸い鏡が埋まっている手鏡が、レイヤさんの左手に握られた。
「カズトモ先輩。あなたは僕に対する嫉妬の念で、滅魔師ですら忌み嫌う禁術に手をかけた。その禁術により人であることを辞めた。そして何より、リンフォンの研究により、あなたのかけがえのない三人の家族の命を奪った」
レイヤさんの左手の鏡が、閻婆に向けられた。
鏡に映った閻婆の姿は、その輪郭が赤く光り出し、やがては閻婆の姿そのものが赤い光を放ち、点滅する。
「判決、地獄行き。ゆえに、あなたの魂は滅されるべきと判断します」
レイヤさんは、そっと眼鏡に手をかけた。
それをするりと外す。
「!」
(!)
わたしと「ワタシ」は、息を呑んだ。
眼鏡をかけているときのレイヤさんの、あの春のお日様のような笑顔はどこにもない。眼鏡を外した今のレイヤさんの顔は、真冬に降りる霜のような、厳しくて冷たいものだった。
けれども、それを見やるカズトモさんは、皮肉めいた笑いを向けている。
「浄玻璃擬鏡か……。私が作ったその呪具が、まさか私自身に向けられる日が来ようとはねえ。――地獄の閻魔大王に成り代わり、私の罪業を裁く気分はどうだね、レイヤ君?」
「はっきり言います。最低の気分だと」
対するレイヤさんは、カズトモさんの皮肉めいた笑みすら凍らせそうな凄みがただよう。
「僕もまさか、この浄玻璃擬鏡をカズトモ先輩に向けて、その魂が死後地獄に落ちると判断しなければならないなどとは、思いもよりませんでした」
レイヤさんをにらみつける閻婆の首が、ぐりぐりと左右に傾けられた。閻婆の本来の視線と、カズトモさんの視線とが、四本まとめてレイヤさんの顔に刺さっている。
かと思えば、カズトモさんの顔から、笑みが消えた。
「そう、その目だよレイヤ君。なぜあの獄正得度戦のとき、最初から眼鏡を外して、私にその目を向けて戦わなかった? よもや、私相手に本気を出すまでもないと、私を舐めていたのかね?」
その言葉を聞いたレイヤさんに、一瞬だけあの春のお日様のような温かさが帰ってきた。
「カズトモ先輩には以前お話ししましたよね。僕は幼い頃から近視が強くて、眼鏡を外すとあまり物が見えないんですよ。今でもこうしていると、カズトモ先輩の顔もぼやけて、どこにあるかわからないくらいです。ですがその代わり、カズトモ先輩の妖力や、他の皆さんの霊力は、眼鏡をかけたとき以上にはっきりと感じられます」
確かに、レイヤさんの今の視線は、カズトモさんの顔には向いていない。それとは別の、閻婆の体のどこかを見ているみたいだ。
「こうやって霊気や妖気を感じながら戦えば、相手の動きを先読みすることも簡単です。どこが妖魔などの急所なのかも、はっきり分かります。けれども近視のせいで、滅される妖魔の表情などはよく分かりません。たとえ相手の妖魔が、恐怖や絶望に打ちひしがれる顔をしていても、そのことを知ることはできないんです」
わずかの間だけ戻ってきていた、レイヤさんの温かな雰囲気は、すぐにまた、真冬の霜のようなすごみに覆われる。
「そんな状態で、戦う相手の妖魔のことを顧みることなく、相手の急所を見抜いて次々に滅していく――。そんな無慈悲な戦い方が、僕自身恐ろしいんです。ましてやそんな戦い方を、カズトモ先輩相手にするなんて、あの時の僕にはできませんでした。今この時だって、不本意です」
レイヤさんの声にまとわりつく、痛いほどの冷たさ。でも、それを受けるカズトモさんは、あくまで無反応のまま。
「カズトモ先輩は、幼い頃から天才だと周りからもてはやされてきた僕に対して、特別扱いなんてしないで、気さくに接してくれました。戦いの場では、僕の甘さを叱って正してくれました。僕が妖魔の引き起こした事件の謎に戸惑うときは、ヒントを示してもらって解決を手伝ってくれました。今の僕が大獄正の位まで受けられたのは、間違いなくカズトモ先輩のお陰です」
だけれど、わたしは「ワタシ」から心の声で知らされる。カズトモさんの歯が、口の中で食いしばられていることを。
「そんなカズトモ先輩に、僕のそんな無慈悲な戦い方は見てほしくなかったんです。だからあの時は――」
「それを『舐めている』というのだよ。違うかね、レイヤ君?」
とうとう、黙って聞いていたカズトモさんが、閻婆の開いた口の中で、更に口を開いた。
「何が『甘さを叱って正してくれました』だ。私の叱責を受けて、本当に君が自らの甘さを反省したというのなら、なぜ獄正得度戦で最初から眼鏡を外して私と戦う、という選択をしなかった? 私は君に勝つために、呪具を選び抜き、作戦を練り、一切の油断も手加減もなく君と相対したのだぞ? それなのに君は途中まで、出せる力をすべて出し切らずに私と戦っていた。無慈悲な戦い方を私に見せたくないなどという、甘ったるい考えをもってな」
空き地の地面を踏みにじる、閻婆の歪んだ足の爪が、音を立てて地面に食い込んだ。
「さすが、霊力に恵まれた体に生まれて来た人間は、霊力を持たない相手に本気を出すまでもないということか。考え方が違うなあ――天才滅魔士のレイヤ君?」
「!!」
閻婆のくちばしの中から放たれたその一言は、レイヤさんの目を大きく揺らした。
大きく揺れたレイヤさんの目の中では、そのあと月光がたゆたっていた。まるで、レイヤさんの瞳が、涙で潤み始めたようにすら見える。
(レイヤさんのことをはっきりと「天才」呼ばわり……。カズトモさんは、レイヤさんのことをもう突き放すつもりだとでもいうの……!?)
今のカズトモさんの話には、「ワタシ」もわたしの中で絶句するほか、ない。
まるで舌が痺れてしまったかのように、声を出せなくなったレイヤさん。レイヤさんを前に、閻婆は肩でもすくめるようにして、翼をかかげた。
「まあ、君にこうまでして虚仮にされた溜飲は、きっちりと下げさせてもらうとするよ。これから地獄に向かい、人間のままでは得ることのできない滅魔の術の神髄までもを学ぶことでね。今度こそ、レイヤ君を超える力を私が得るのだ。さあ、チヤ」
閻婆の翼の下にたたずむ、深い青のワンピースと、コートをまとった女の子が小さくうなずいた。
「今の不愉快なおしゃべりのうちに、十分に霊力は練り上げたな?」
「うん、パパ」
チヤちゃんの……ううん、チヤちゃんの持つリンフォンの方に、閻婆がその首を近づけた。
その時、わたしの背中に、悪霊の手でなで上げられるような恐ろしい寒気が走った。
「『一緒に』『地獄へ』『行こう』、『チヤ』」
それは、どうやらレイヤさんも同じだったみたい。レイヤさんのまとう冷たい雰囲気が、それを更に上回る極寒の冷気で凍り付く。
「四文節の現代日本語の文……まさか!?」
閻婆の口の中に月光が差し込み、カズトモさんの目を妖しく光らせる。
「ほう、その物言いからすると、リンフォンに施した例の細工のことは知っているようだな。ならば改めて答えてやろう――」
カズトモさんの口から放たれた言葉を浴びたリンフォンが、碧色の光に包まれた。
碧色の光は、やがて何重にも折り重なった輝く文字の並びに変わりながら、リンフォンから剥がれ落ちていく。
「――そのまさかさ。言霊錠で施したリンフォンの封印を、解除させてもらったよ」
夜の空気の中に、輝く文字の鎖が溶け消えた。
それが終われば、今度はリンフォンからどす黒い煙のようなものが吹き上がる。煙の濃いところと薄いところが、まるで苦しみ悶える何人もの人の顔に見えてしまう。
リンフォンは、このどす黒い煙――地獄の瘴気のカーテンをまといながら、かちゃかちゃと音を立ててひとりでに形を変える。
「変形――」
チヤちゃんが、いつもリンフォンを使うときに発する言葉を、ぽつりとこぼした。
「だ……め……!」
チヤちゃんが何をしようか気付いたわたしは、チヤちゃんに呼びかけた。呼びかけようとした。けれども、声が、うまく出ない。
「ダメ……チヤちゃん……!」
それでもわたしは、お腹に込められるありったけの力を込めて、叫ぶ。
「ダメ! チヤちゃん! そんなことしないで!」
そうしたら、わたしの後ろからもう一人の人が前に歩みだした。それは、白衣と墨染の馬乗袴を来た退魔師連盟の連盟長……つまり、わたしのパパだった。
「退魔師各位! あの閻婆に攻撃を行え! 閻婆にこれ以上妙な動きを取らせるな!」
それに、眼鏡を外したままのレイヤさんが続く。
「滅魔師の皆さん! あの閻婆を滅してください!」
二人の声に、弾かれたようにして、空き地を取り囲む退魔師のみんなと、滅魔師のみんなが動き出した。
退魔師のみんなは、わたしと同じく式神を飛ばす人もいれば、真言を唱える人もいる。神様に祈りを捧げ、祝福の光を呼ぶ人もいる。
滅魔師のみんなは、地獄から呼び出した炎や燃えたぎる鉄、黒く熱された縄のような、拷問の道具を次々と術で呼び出した。
退魔の術と、滅魔の術が、閻婆のもとへと一気になだれ込む。
「――地獄の――」
リンフォンの変形を止めないチヤちゃん。そんなチヤちゃんが、退魔の術や滅魔の術に巻き込まれないでほしい。わたしはそう祈った。
そしてその祈りは、結局届くことになった。わたしたちにとって、最悪の形で。
閻婆が、くちばしの上についている本来の目で、左右から降り注ぐ術を見たなら、たちまち閻婆の周りが炎で取り囲まれる。
「邪魔立てを……するなあああああっ!!!」
閻婆のくちばしから、地獄の火炎が吹き上がった。
閻婆の立つ地面を中心として、四方八方に地を切り裂く刃の波が走った。
燃え盛る炎そのものでできた牙を持つ猛犬が、群れとなって襲い掛かった。
式神が炎に焼かれ、ことごとくが灰になって消える。閻婆を焼くはずの地獄の炎は、更に強大な炎に押し返される。
太陽の光で妖力を抑えられていない閻婆には、退魔師の攻撃も滅魔師の攻撃も、届かない。チヤちゃんは、攻撃に巻き込まれてすらいない。
閻婆の周りで燃える紅蓮の炎の中では、リンフォンは熊から鷹へ、鷹から魚へと姿を変え、それが終われば信じられないほどの大きさにまで膨らんだ何かに変わっていた。
怒り狂った表情を浮かべる獄卒たち。
その獄卒に追われ、おびえながら逃げる罪人たち。
この獄卒たちと罪人たちが、一個の粘土細工としてぐちゃぐちゃにまとめられ、それを両開きの大きな扉と、その外枠という形を取るようにこねられたかのような、奇怪なオブジェ。それが、閻婆とチヤちゃんの背後にできていた。
この奇怪なオブジェは、あの小さなリンフォンからできたとは思えないほどに大きい。象のように大きな閻婆の体より、更に高く、そして幅も広かった。
もうわたしは、自分が何を叫んでいるのかすら覚えていないくらいに、ひたすらにチヤちゃんに声を上げていた。
その扉を開いちゃ駄目、ただそう伝えたいがためだけに。
パパも、レイヤさんもチヤちゃんに叫ぶ。けれども、地面を切り裂く刃の波の勢いに阻まれて、閻婆に近づくことができない。
「――『門』」
わたしの耳の奥までを引き裂くような、鈍く、けれども恐ろしいほどに大きな軋み音を立てて、その扉……地獄の「門」が開いてゆく。
閻婆は、チヤちゃんの体を翼で抱きしめた。できあがった地獄の「門」に、振り返ることすらせず、そのまま落ちてゆく。
地獄の「門」から覗ける、赤と黒の二色の世界に、閻婆とチヤちゃんは落ちていった。
閻婆は、喜びの声を上げながら。
チヤちゃんは、涙と笑顔を同時に見せながら。
地獄の「門」は、二人が通った後、ひとりでに閉まっていく。あのリンフォンの変形音を響かせながら、たちまちのうちに縮んでいく。
変形音が鳴りやんだ時、この空き地には、チヤちゃんがいた証拠も、閻婆がいた痕も、何も残されてはいなかった。
リンフォンすらも、この場から消えていた。
「チヤ……ちゃん……」
わたしの足腰から、すべての力が抜けていった。パパがとっさに後ろから私の体を支えてくれなければ、その場でわたしはしりもちをついていたかも知れない。
「チヤちゃん……!」
レイヤさんは、うつむいたままだった。何とか眼鏡をかけ直そうとはしていたけど、まるで体を別の妖魔に操られているみたいに、その動作はおぼつかない。
「チヤちゃぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
わたしは、まぶたを強くつぶって、流れそうな涙を、必死に押さえていた。




