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神ひらく物語―プレーナ編―  作者: 銀波蒼
アノイ編
2/65

山越え

(前回までのあらすじ)

北方の少数民族アノイの地で育つヒラクは異民族の母と同じ緑の髪をした子どもだった。

父イルシカとはぐれた帰り道、ヒラクは川で不思議な女たちと出会う。そのことをヒラクがイルシカに話したことをきっかけに、母はアノイの地を去ることを決意した。


 アノイの人々は山の向こうは神の国であると信じていた。

 そこは人間が決して足を踏み入れてはならない場所とされている。

 その禁忌(きんき)の地に足を()み入れたばかりか、見たこともない容貌(ようぼう)の女を連れ帰ってきたイルシカは、その後も何度も一人で山を越えた。山歩きに慣れたイルシカでさえ、山を越えるには数日かかる。それでもイルシカは何度も山を越えた。神の国の水がなければ、妻とした女が生きていけないからだ。


 イルシカが山を越えるのはいつも月が満ちていく夜だった。


 そして次の満月は、母と子の別れの時だった。


「……もう、二度と会えなくなるのか?」


 イルシカは切なげに、満ちていく月を見上げてつぶやいた。




 満月の数日前、ヒラクはいつものように母の手を頬にあてながら眠りにつこうとしていた。


 母はヒラクに()い寝しながら子守唄(こもりうた)でも歌うようにささやいた。


「ヒラク、あなたは()()()()の子。いつか必ず私の(もと)に戻ってくる。プレーナと一つになるために。今のあなたは仮の姿。いつか本当の姿に戻る時、あなたは自分が何者であるかを知るわ」


 ヒラクはうとうとしながらも、(にぎ)りしめた母の手を離すまいとしていた。


「母さん、どこにも行かないよね?」


 プレーナを捨てられないと言った母が、自分を抱きしめる手をゆるめたことが、ヒラクをひどく不安にさせていた。


「母さん、朝までずっと手を離しちゃだめだからね」


「……離さないわ。だからゆっくりお休みなさい」


 母の言葉に安心してヒラクは深い眠りについた。



 だが、翌朝ヒラクが目を覚ますと、母の姿はどこにもなかった。


 ヒラクが母と眠っていた小部屋を飛び出すと、炉辺(ろべ)にはイルシカの姉ルイカがいた。


「ルイカおばさん……」


 父の姿はない。


「ヒラク、起きたの? 迎えにきたのよ。数日はうちに泊まってごはんを食べなさい」


「おばさん、父さんは? 母さんはどこ?」


「……おなかすいたでしょう? うちに来たらすぐ食べられるわ」


「おばさん、母さんは?」


 父がいないことよりも、自分の部屋から決して出ようとしない母の姿がないことにヒラクは激しく動揺(どうよう)した。


「母さんはどこ!」


「ヒラク……」


 ルイカは思わずヒラクを抱きしめた。目には涙が浮かんでいる。


「お母さんはもういないの。遠くへ行ってしまったの。かわいそうに……こんな小さな子が……」


 ルイカはこらえきれずに嗚咽(おえつ)する。


 ヒラクはルイカの腕をすりぬけて外に飛び出した。


「待ちなさい、ヒラク、どこに行くの!」


 ルイカの声を背に受けて、ヒラクは山の奥に向かって()けだした。


 母が自分を置いていったことがヒラクには信じられなかった。いや、信じたくなかった。つないだ手を離して、自分との(きずな)を断ち切って、一人でいなくなるなどということは、受け入れられないことだった。


 ヒラクは必死に走った。


 いつかの川の女たちがまた自分を助けてくれるかもしれない、そう思いながら、ヒラクは家のそばの川沿いを走った。


 家の前の川の女は現れない。いつも自分の体を洗ってくれたあの女……。


 ヒラクは気づいていた。 不浄(ふじょう)を嫌う母の部屋に入る前、いつもヒラクの体を洗い流してくれた川、それがあの女の正体だった。

 それはアノイの川の神の姿なのだろう。

 枝川(えだがわ)の男が威厳(いげん)ある女にひざまずいたのは、支流(しりゅう)の神が本流(ほんりゅう)の川の神に従属(じゅうぞく)するからだ。

 沢の神、沼の神など、アノイの神にはそれぞれ上下関係があることは、ヒラクも聞いたことがある。



 やがて川岸のやぶを抜けたが、枝川の男は現れない。



 さらに本流にまで行き着いたが、そこにいるはずの女の姿はどこにもない。

 それでもヒラクは川沿いを山の奥に向かって走り続けた。



 そして、初めて本流の川の女と出会った場所まで行き着いた。

 右手のやぶを抜ければ沼の女がいた場所にたどりつく。


 ヒラクはじっと川の真ん中を見て、女が現れるのを待った。


 水音がして、女の気配(けはい)(ただよ)った。


 まばたきの一瞬で、以前見たときと同じ、重そうな飾り板の首飾りを身につけた姿で、女は悠然(ゆうぜん)と川の中央に立っていた。


「教えてよ、母さんはどこ? どこに行ったか教えてよ」


 川の神である女は、ヒラクを目でとらえるが、何かを伝えようとするそぶりはない。


「教えてよ、母さんはどこに行ったの? 教えてよ!」


 女は興味をなくしたかのように、川が流れる方向に目を移したかと思うと、口を開け、天に向かって両腕を伸ばした。


 何かが滝のように勢いよく女の口の中に飛び込んでくるのと、それを飲み込もうとした女の姿が消えるのは同時だった。


 すでにヒラクの目の前には巨大な蛇の胴体(どうたい)のようなものがあり、川下から川上に向かい、延々と続いていた。


 ヒラクは後ずさりし、川の女をあきらめ、身をひるがえして、やぶの中に飛び込んでいった。



 やぶを抜けると沼があった。


 沼の女はいた。


 以前見たときと同じ光景がヒラクの目の中に飛び込んできた。

 木の皮で織った服を着たアノイの若い女が沼に向かって泣いている。


「この沼の水は泥だらけで飲めない。ああ、のどが(かわ)いた。のどが渇いた」


 女は以前とまったく同じように(なげ)いていた。


「もう家には帰れない。誰も私をみつけない」


 ヒラクはただ黙ってその様子を(なが)めていた。


 すると今度は女は何かにおびえたようにふりかえった。

 その目はヒラクではない何かをとらえている。


「ああ、もうだめだわ。囲まれてしまった。誰か、助けて……」


 女は恐怖に(こお)りついた顔で沼の方に後ずさる。


 ヒラクは辺りを見回すが、どこにも誰も、何もいない。


 ところが次の瞬間、どこから現れたのか、一匹の狼が女に(おそ)いかかった。


 女が(さけ)び声をあげたと同時にそこに現れたようだった。


 そして女も狼も同時に姿を消した。


 かわって現れたのはアノイの老夫婦だった。それもまたどこから現れたのかさっぱりわからない。二人が手にしている衣服は、先ほどの女が着ていたものだ。泥と血にまみれて引き裂かれている。


「おまえ、もう泣くんじゃない。あの子は器量(きりょう)のいい子だったから、きっと神の国に連れて行かれてしまったんだ」


「そうね、あなた。私たちはむしろ喜ばなければいけないわ。きっと、この沼の神があの子を妻にと望んだのでしょう。今頃は夫婦になって幸せに暮らしているわ」


 そう言って老夫婦はなぐさめあった。


 その直後、老夫婦の姿が消えたかと思うと、以前と同じように沼がぬくぬくと盛り上がり、そこに人が現れた。今度は二人だ。狼に襲われた若い女は精悍(せいかん)な若者に寄り()っている。


 ヒラクは二人のそばに駆け寄った。


「おまえたち、神さまなのか? だったら教えてよ! 母さんはどこ?」


 沼の二人は困ったように顔を見合わせた。そして女の方は以前と同じように背後のやぶを指差した。


「いやだ、帰るもんか。母さんをみつけるまでは帰らない!」


 沼の女は首を振る。そしてそのまま沼の中に若者とともに沈んでいった。二人が完全に沈んでしまった後、沼には先ほど老夫婦が手にしながら嘆いた、ぼろぼろになった女の衣服が浮かんだ。


 ヒラクの耳に、狼に襲われた女の悲鳴が再びよみがえった。


 ヒラクはぶるっと体を震わせたが、それでも引き返そうとはせず、沼につながる細い川筋(かわすじ)をたどって、さらに山の奥の方に向かった。


 沼に浮かんだ女の衣服はすでに消えていた。



 むきだしの岩や倒木(とうぼく)にはばまれながら、ヒラクは懸命(けんめい)に先を急いだ。


 (けわ)しい山道は、人の侵入を(こば)(わな)であるかのように、幼い体力を奪っていく。


 やがて足が前に出なくなった。


 山の向こうまでは思った以上に遠い道のりだった。


 のどが渇き、口の中はからからだった。


 母を追う気持ちだけが先へ先へと進んでいき、ヒラクの体を置き去りにして、山道をはいあがっていくようだ。



 日も高くなる頃には、すっかり疲れきっていたため、ヒラクは少し休もうと川をそれた。


 そしてすぐそばの古木の根にはさまるようにして、柔らかなコケの上に身を横たえ、そのまま眠ってしまった。




 ヒラクが目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。

 ヒラクは一瞬自分がどこにいるかわからなかった。


 どこからか狼たちの遠吠(とおぼ)えが聞こえる。


 恐怖がヒラクを襲った。


 沼の女が狼に襲われた場面が脳裏(のうり)鮮明(せんめい)に浮かんだ。


 ヒラクは、はうようにして木の根の間から抜け出た。


 そして、全身で闇の気配をうかがいながら、立ち上がって歩きだした。


 ざわざわと木々の葉がこすれあう音がヒラクの不安をかき立てる。

 ヒラクはとにかくこの暗闇から逃れたいと思った。




 やがて、ヒラクが木立を抜けると、細い川が明るく見えた。


 月の光を受けて水面がきらきらと輝いている。その水面をじっと見ていると、先ほどからずっといたように、ヒラクの視界の中に人影が浮かんだ。


 姿を見せたこの川の女は、川の本流の女よりは身なりが粗末(そまつ)だった。


 女はヒラクを見て微笑みかけた。


「ここの神さま?」 


 ヒラクが(たず)ねても、女はくすくすと笑うだけだった。


「母さんを探しているんだ。お願いだ。どこに行ったのか教えてよ」


 女は首をかしげると、水が跳ねる音とともに消えた。 


 どちらに一歩を踏み出せばいいのか、ヒラクにはもうわからなかった。進むか戻るか、どちらにしても、どこをどう歩いていいのか、すでに戻る方向を見失っていた。


 ヒラクは川の(ふち)にひざを落としてうなだれた。


 そして、そのまま顔をあげられなくなった。


(……何かがいる)


 川の女などではない。その種類の者たちは、浮かび上がるようにしてぼうっと、そして次第にはっきりと、それまでもそこにいたかのように姿を見せるのだ。そのことをすでにヒラクは知っている。


 今、ヒラクのすぐ前にいるのは、確かな存在感と気配を漂わせるものだ。


 けれど人間ではない。


 ヒラクはおそるおそる顔をあげた。


 そして一瞬呼吸を止めた。


 細い川をはさんで向こう側にいたのは、月明かりに青白く浮かび上がる大きな狼だった。その鋭く光る目は、しっかりとヒラクをとらえている。


 ヒラクは震えながら、ガチガチと歯を鳴らした。


 狼はヒラクをまっすぐみつめ、一歩一歩近づいてくる。ヒラクは腰が抜けてその場から動けなかった。


 狼はヒラクの横に来ると、ゆっくりとした動作で伏せた。それは、危害を加える気がないという意思表示のようでもあった。


 ヒラクはそっと手をのばしてみた。(かた)い毛の感触があった。その狼は確かにそこにいる。


―乗りなさい


 狼の背に触れたとき、ヒラクは手のひらで狼の意思を感じた。


 ヒラクはおそるおそる狼の背にまたがった。


 先ほどの川の女が再び現れて指でどこかを示した。それと同時に、狼はヒラクを背に乗せて、女が指差す方に駆けだした。


 狼は木々の間を()うように疾走(しっそう)した。


 月に青白く浮かぶ草木が、ヒラクの目に飛び込んでくる。


 だがそれも一瞬のこと。


 ヒラクは狼の毛に顔をうずめてしがみついているのが精一杯(せいいっぱい)だった。


(母さん……)


 今度はヒラクの意思が狼の背に伝わったようだった。


 狼は一瞬足を止め、背中の方をちらりと見た。


―しっかりつかまりなさい


 そんな言葉を聞いた気がして、ヒラクはしがみつく腕とひざに力を入れなおした。


 やがてヒラクは狼と一体化しているような気分になった。


 時間の感覚もなく、ただ疾走(しっそう)する瞬間だけが延々(えんえん)とつながるようだった。


 その中で、ヒラクは山を越える父の背中を見た気がした。

 まるでちがう時の流れの中に父が存在しているような感覚だった。


 朝の静謐さ、昼の暖かな日差し、夜の湿った重い空気が、めまぐるしく入れ替わり、ヒラクは途切れ途切れの瞬間に飲み込まれていくようだった。


 そして瞬間が途絶(とだ)えると、そこはもうアノイがいう神の国、山の向こうの世界だった。

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