別れ
(前回までのあらすじ)
ヒラクは自分を置いてアノイの地を去った母を追いかけて、一人で山を越えようとする。そして自分が出会った不思議な女たちが川や沼の神の化身であったことを知る。さらにヒラクは一匹の不思議な狼と出会う。その狼の背に乗って、ヒラクはアノイの人々が「神の国」と呼ぶ、山の向こうにたどり着く。
ヒラクは夢を見ていた。
大地の深い裂け目を挟んで父と母が立っている。
ヒラクはというとその裂け目に渡した綱の上に立っていた。
綱の端はそれぞれ父と母の足に結びつけられている。
足場の不安定さにヒラクはどちらかに渡ろうとするのだが、結局一歩も動けずに、ただ足元の深淵をにらみつけていた……。
ヒラクは物心ついたときからずっと父の世界と母の世界を綱渡りしてきたようなものだった。
父と母は使う言語も異なれば容姿からしてまるでちがう。
ヒラクの緑の髪は明らかに母の特徴を受け継いだものだったが、肌の色は父の褐色も混じったような色で、母のように抜けるほど白いというわけではなかった。
瞳の色も母のように薄い琥珀色ではなく、赤茶色に近かった。
ヒラクは母親似ではあったが、端整な顔立ちでどこかさびしげな印象の母とはちがい、荒々しくも力強い生命力に満ちた野生的な顔つきをしている。
あごの線は細く、顔の骨格は母親と同じだったが、引きしまった唇や力強さを感じさせる眉はイルシカ似だ。
ヒラクは、父と母の住む世界はまるでちがうものだということを肌で感じて知っていた。
それは言葉のちがい以上にへだたりを感じさせるものだった。
まず、体を清めることを教えたのは母だった。
ヒラクは母の小部屋に入るため、川の水で体を洗う。
そうして小部屋に入っても、水がめの水を体にかけるまでは抱きしめてもらえない。
寝る前には必ず黄褐色の粉を練って固めたようなものに火がつけられ、部屋の中は、木の青臭さと甘い柑橘の香りが混ざったような不思議なにおいの煙が充満する。
もやのような煙の中で、ヒラクは、水がめの水と同じものが入った銀の器の前で手を合わせる。
母はひざをつき、足を折って正座して、両こぶしで太ももの上を叩いてリズムをとりながら同じ言葉を繰り返す。
「偉大なるプレーナよ
万物を満たす大いなるものよ
命の源、還元の主
永久に一なるものよ
すべてを捧げん
偉大なるプレーナ
我が命は共にあり
大いなる一つのものとなり……」
ももを打つこぶしは次第に力強さを増し、リズムは加速し、上体を激しく前後に揺さぶって母は声を張り上げる。
ヒラクは横目で母を見る。
乱れた髪が汗で顔にはりついて、その表情は見えないが、鬼気迫るものがある。
いつもおとなしい母はそこにいない。何か見えない力に動かされ、あやつられているようにも見える。
ヒラクは横で手を合わせ、心の中で願った。
(もとのお母さんに戻して)
誰に祈っていいかはわからない。
そもそも祈りというものが何であるかがわからない。
ヒラクにとって毎日くり返されるこの行為は、寝る前の習慣にすぎず、体を洗うことも含めて単なる就寝儀礼でしかなかった。
求めていたのは、やさしく自分を抱きしめる母のぬくもりと安らかな眠りだけだった。
母が我が子を受け入れるために水の清めを必要とするならば、父は太陽と風で我が子を清めた。
朝、目を覚ましたヒラクが小部屋を出ると、まずイルシカは顔をしかめる。
「妙なにおいがしやがる」
母が焚き上げる香のにおいだった。
外に出て存分に遊んだヒラクを抱きしめてイルシカは初めて笑う。
「おまえには太陽と土のにおいがよく似合う。おまえの髪は風に揺れる緑の草だ」
イルシカはそう言ってヒラクの頭をなでた。
ある雨の日、太陽の光を浴びることができないヒラクは、炉の火をじっとみつめながらイルシカに尋ねたことがある。
「火の神は太陽と仲いいの? 太陽のにおいはするの?」
この時ヒラクは四歳で、父の言語と母の言語を区別して話せるようになっていた。
「さあな。別に太陽のにおいはしねえがな」
イルシカは笑って答えた。
「じゃあ火の神とプレーナは仲いいの?」
ヒラクは無邪気に尋ねるが、イルシカはさっと表情をこわばらせた。
「プレーナだと?」
「うん。母さんがいつも言ってるよ。プレーナはえらい神さまなんだって。おれを幸せにしてくれるんだって」
「ヒラク!」
イルシカは声を荒げて、ヒラクの頭の上に手をのばした。
ヒラクは身を固くして、思わず首をすくめたが、その手はヒラクの頭の上にそっとやさしく置かれた。
「いいか、幸せにしてくれる神さまなんていやしねえ。雨は恵みだが川をあふれさす。川があふれりゃ溺れもする。獣も食うか食われるかだ。神々は俺たちを生かしもするが殺しもする」
ヒラクは父の言うことは母とはまるでちがうと思った。
眠る前、ヒラクは同じようなことを母にも尋ねたことがある。
「ねえ母さん、プレーナは水なの?」
「ただの水じゃないわ。あらゆるものに行き渡り、すべてを満たすものなのよ」
「水の神さま?」
「そうね、偉大な神さまよ」
「川の神と同じようなもの?」
「同じじゃないわ。プレーナはプレーナ。唯一無二の偉大なるお方よ。いい? ヒラク。ここに神はいないの。全部にせものなの。大いなる神は一つでしかないの。それがプレーナよ。ここの人たちには理解できないわ。選ばれた者にしかプレーナのことはわからない」
母はヒラクを哀れむようにじっと見て、ほほに優しく手をあてた。
「……かわいそうな子。あなたはこんなところにいるような子ではないのに。あなたは選ばれた者なのよ」
「選ばれた者?」
「そう、生まれながらプレーナに祝福された子よ。還元の主プレーナと一つになることが許された子なの。私と同じくね」
母が言うことはヒラクには理解できなかった。
「さあ、もう眠りなさい。あなたにもいつかわかるときが来るわ。偉大なるプレーナよ。目覚めの時には祝福を」
母は器の水に手を合わせた。
ヒラクも横で同じように手を合わせる。そうすると母が喜ぶからだ。
ヒラクには祈りも神もわからない。
ただ、父が気に入ることと母が喜ぶこととの区別をつけることを覚えていった……。
ヒラクは目を覚ました。
炉の火がはぜる音がする。
一瞬、ヒラクは自分が母の小部屋にいるのかと思った。
けれどもすぐに母の夢を見ていただけだということに気がついた。
そこはアノイの人々が猟のときに簡易的に作る狩り小屋だった。
三本の長い木の棒を上端で束ねて三脚とし、そこに草や葉、木の皮などを葺いて作った小屋だ。
小屋の外から声が聞こえてくる。
誰かがすぐそばで話している。
ヒラクは、入り口の隙間から顔を出してみた。
声は裏側だ。
ヒラクは小屋からはい出て裏に回った。
焚き火のそばに父イルシカが立っていた。
そしてそばにもう一人。
こちらに背を向けて立っている人物は、頭からすっぽりと黒い布をかぶり、全身をおおい隠していて、誰なのかはわからない。
ヒラクは小屋の影からじっと二人の様子を見ていた。
すると突然、イルシカが黒い布をかぶった人物を力強く抱きしめた。
「最後にもう一度、おまえの顔を見せてくれ」
イルシカは、抱きしめた人物がまとう黒装束の頭部をあらわにした。
ヒラクははっきりと見た。
月明かりに浮かぶ黒装束の人物の髪の色は、ヒラクの髪の色と同じ緑色だった。
「母さん!」
ヒラクは我慢できずに後ろからその人物に飛びついた。
驚いて振り返った顔は、まさしく母の顔だった。
「母さん、どこにも行かないで! ずっと、ずっとそばにいてよ! いやだよ……おれを置いていかないで……」
ヒラクは黒装束にしがみついて泣きじゃくる。
イルシカはつらそうに目をそむけた。
「ごめんね、ヒラク」
女はしゃがみこみ、手をのばしてヒラクを抱きしめた。
「すべて私が悪いの。私が……。もしもあの時に戻れたら……、出会ったところからやりなおせたら……」
「出会ったのはまちがいじゃねえ」
イルシカは叫び、二人はそのまま黙り込んだ。
どれぐらいの時間が経ったのか、母のぬくもりに安心したヒラクは、黒装束にしがみついたまま、いつのまにか寝入っていた。
「そろそろ行かないと……」
その言葉にイルシカはうなずき、ヒラクを抱き上げた。
女は立ち上がると、その目にしっかり焼きつけようとするように、琥珀色の瞳でじっとイルシカをみつめた。
「……それじゃ、行くわね」
立ち去ろうとする後ろ姿を、イルシカは、自分の胸の中に引き戻したかった。
だが今は、腕の中にはヒラクがいて、手をのばすこともできない。
それがイルシカが下した選択の結果なのだ。
それでもイルシカは最後に思いをぶつけるように言った。
「俺は後悔なんてしねえ。何度出会っても、やりなおしても、俺はおまえしか愛さない」
「……残酷な人」
そう言って、振り返った人影は、闇に遠ざかり姿を消した。




