ふれるということ
いきなり現れたおねえさんだけど、どうやら私のことを心配してくれてたみたい。
口数は少ないけど、私の様子を微妙に窺って来たし。
出て来た時にはちゃんと閉めたはずの車のドアが、戻ったら開きっぱなしになってて、おねえさんはそれをバンて無言で閉めると、言った。
「雪保。公園から、水汲んできて」
「え」
「どこかに水飲み場みたいなのあるはずだから、そこでこれに水を溜めてきて。なかったらそのまま帰ってきな」
「う、うん。分かった」
いきなり名前を呼ばれて、びっくりした。
いつもは『おまえ』って言うのに。
持ってきたお水がシングルコンロの上に置かれるのを、私は座りながら見る。
銀色のパックが、お鍋の底でくるくるとひっくり返っている。
朝ごはんは“れとるとかれい”だって。
おねえさんはあっという間に“かれい”を食べ終わると、食器を処理しながら尋ねてきた。
「昨日のあれ、ちょっとは考えたか」
「え?」
レジャー椅子に座って、スプーンですくって食べてる私は間の抜けた声を出す。
きのうのあれ?
あっ。
えっと。
もうかんこーはやめろ、ってやつかな……。
「まだ、考えてない」
「早く結論出さないと、問答無用で二度と家に帰れない迷子になるからな」
おねえさんは拭き終えたお皿をケースの中に入れると、腰に手を当ててそっけなく言う。
私はしょぼんとした。
おねえさんと離れ離れになってしまうのなら、マグメルに戻れても戻れなくても、一緒。
私は、一生の迷子。
「やめてよ。そういう風に言うの」
私はおねえさんに『どうしてそんな、急に冷たくするの?』って思う。
おねえさんと出会ってから、長いようで短かったけど、その間おねえさんは私に優しくしてくれた。
お話だっていっぱいにしてくれた。
何かを言ったら、普通に返してくれた。
なのに、今になってどうして急にお終いだって言うの?
私はおねえさんのこと、こんなに好きになった。
でも、おねえさんは違うの?
私のことを思っても、見ても、ドキドキになってくれないの?
私は、なるのに。
じっとおめめを見つめて、おねえさんにいっぱいの気持ちをぶつける。
分かってもらいたくて、でもそっけないおねえさんの態度に「むっ」て気持ちが湧いてきて。
ぎゅっ、って切ない感覚と、「なんで?」っていうもやもやが胸のところで一緒くたになる。
ぐるぐるの、ごちゃまぜになって、それが大きな流れとなって渦を巻く。
おねえさんはそんな私に、おめめをぱちくりとさせた。
いきなり怒り気味に訴えたから、びっくりしたのかも知れない。
真歩おねえさんは何とも言えなさそうな顔で、頭を掻いてつぶやいた。
「おまえのことを思って言ってるんだよ」
「そう、思えないもん。だってやだよって言ってることをやらせるのって、いいことにつながるの?」
「繋がることだってある」
「納得できないもん。やだ。わたしはここにいる。真歩おねえさんから離れない」
「これ以上、私を困らせるな。私は一人がいいんだよ」
「やだ!」
ばふって抱き着いたら、おねえさんがよろけた。
構わず無視して、おねえさんにしがみつく。
おねえさんは困ったようにしてる。
私がこうしてるから動くに動けないし、言葉も通じないし、引きはがすこともできない。
訴える気持ちで抱き着いてたら、肩と頭に、おねえさんの手が触れた。
おねえさんの左手が、背中をそっと触る。
おねえさんの右手が、頭をぽんと触る。
ああ、終わりたくない。
ずっとずっと続きたい。
そう思う。
おねえさんに触られると、私はとっても幸せになるの。
初めておねえさんに出会って、火のそばで横になった時もそう。
そうしてもらえるだけでたまらなく幸福になって、安心して、それでいておねえさんがますます好きになる。
やさしさを感じるから。
本当はどうなのか。おねえさんがどう思っているのか。
それは分からない。
でも、私はおねえさんにとってもやさしくしてもらってるような、そんな気がして、たまらなくなる。泣いてしまいそうになるくらい、胸から何かがあふれてくる。
だから、今もこうして触られていることに震えるほどうれしくて、だから却って、自分の中の気持ちが脆くなった。
引きはがされるのが、こわい。
誰かから奪われる。
そんなのを想像したら、背筋が寒くなる。
はちおうじ市のテレビに映っていた“ケーサツ”の人たち。
あの人たちが、おねえさんと一緒に過ごしている今をどこからか覗き見ている気がした。
今に草の中からザザっと出てきて、「君を連れていく」って言われるような気がした。
目の奥が熱くなって、それがじわりとにじみ出る。
喉元と胸あたりが苦しくて、息ができないみたいに固まって、底のほうから突き上げてくる呼吸が、私の声を勝手に漏らした。
おねえさんは、私を突き放さないでそのまま立ってた。
わがままを言って、迷惑かけてるのに、何も言わずに、ひゃっくりをあげる私にハンカチを渡してくれて。
受け取って鼻水をちーんてしても、いつもみたいに「おまえ」って怒らなかった。
ただじっと、私のことを見てる。
「――そんなに観光、続けたいのか」
「う、ぐ。かんこ、じゃなくて」
溢れ出てくるもののせいで、うまくしゃべれない。
ひっく、ひっくてなって、喉が言うことを聞いてくれない。
おねえさんがすごい近くで、顔を覗き込んで様子を窺ってくるような錯覚がして、ますますこみあげる。
ハンカチが、おねえさんそのものみたいだから。
おねえさんの匂いが、お鼻や口やほっぺを、やさしく包んでくれるから。
でもおねえさん自身は、もう終わりにしろって言う。
一緒にいたいって、言ってくれない。
こうやって抱き着いているのにも、触れるなって言われてるみたい。
「お、おねえさん、おねえさん、の……っ」
ばか、って言おうとしたんだけど、言えなかった。
胸だけじゃなくて、背中まで苦しくなってくる。
突き上げるひゃっくりが、悪さをしてる。
おねえさんがそこを、そっと撫でた。
私は顔を上げる。
おねえさんの顔が、俯くみたいに私を見てる。
その表情は、自分にはうまく読み取れなかった。
どういう時の顔なんだろう。
おねえさんは今、何を考えてるんだろう。
泣くのを忘れてぽかんとしてたら、おねえさんが細い指先で、私のおめめの端っこをそっと拭った。
拭って、かすれるような声で、私を叱った。
「わがままな子供は、わたしは嫌いだ」
「やだ、きらいにならないで」
「だったら、泣くのをやめなさい」
私は自分で、ひゃっくりを抑えた。
胸から飛び出してこようとする息を、必死で抑える。
涙も拭いて、おねえさんに抱き着くのもやめて、自分で立つ。
寄りかからないで、自分の脚で。
おねえさんが、頬を緩ませた気がした。
ほんの、ほんの少しだけ、頬っぺたがにこってした気がした。まるでこぼれたような、静かな笑顔だった。
だから、私も自然と頬っぺたが緩んだ。
締め上げるような苦しさが、ふわってほぐれていく。
そういうあったかさが、じわーって、でもふわって、胸に当たった。




