第二十一話「マッドポップ・サンサーラ」3
第三章 泥の鼓動
数週間後。 季節は巡り、東帝都にも遅い春の気配が訪れていた。 不死川の再開発エリアの影、取り残されたように佇む雑居ビルの3階。 『黒狐便』の事務所は、かつてないほどの喧騒と活気に満ちていた。
「……あー、もう! 忙しい! 猫の手も借りたいわ!」
キリコ(九十九霧狐)の悲鳴に近い声が、書類の山に埋もれたデスクから響く。 アークステイツでの一件以来、裏社会での『黒狐便』の評価はうなぎ登りだった。 「世界を救った運び屋」「どんな修羅場でも荷物を届けるプロフェッショナル」。 そんな尾ひれがついた噂が広まり、依頼が殺到しているのだ。 もちろん、その大半はヤクザの抗争に絡む厄介ごとや、怪しげな呪物の運搬といった「黒い」案件ばかりだが。
「お茶が入りましたよー! ……キリコさん、根詰めすぎです。休憩にしましょう」
湯気の立つマグカップをトレイに乗せ、ルカ・ノクスがパタパタと走り回っている。 彼女はエプロン姿で、荒れ放題だった事務所を驚くべき手際で片付けていた。 床は磨き上げられ、窓ガラスは曇り一つなく、枯れかけていた観葉植物には新しい芽が吹いている。「光の乙女」の加護は、家事全般にも有効らしい。
「ありがとう、ルカちゃん。……あー、生き返るわ」
「私のは? ブラックで頼むわよ」
ソファを占領し、雑誌を顔に乗せて惰眠を貪っていた沈 黒燼が、気だるげに手を伸ばす。 彼女は、黒冠の追跡を躱しながら、この事務所に居候を決め込んでいた。 電話番という名目で居座っているが、大抵の依頼は「面倒くさい」の一言で切ってしまうため、キリコの頭痛の種になっている。
「はい、シェンさん。……でも、お昼前ですから飲み過ぎないでくださいね」
「硬いこと言わないの。……暇なんだもの」
シェンは起き上がり、愛刀の手入れを始めた。 白銀の刃が、窓から差し込む陽光を反射して煌めく。 平和な午後の事務所に、カチャリカチャリという金属音が心地よいリズムを刻む。
ガチャリ、とドアが開いた。
「ほらよ、キリコ。……特盛牛丼だ」
ジン(夜刃迅)が、両手にコンビニ袋を提げて戻ってきた。 袋からは、食欲をそそる肉とタレの匂いが漂っている。
「遅い! ……餓死するかと思ったわ」
「うるせえな。駅前の行列に並んでたんだよ。……ほら、ルカはサラダ付き。シェンはビールだろ?」
「あら、気が利くじゃない。愛してるわよ、坊や」
「からかうな」
ジンは顔を赤くして、安っぽい折り畳みテーブルを広げた。四人が席に着く。 高級な家具など一つもない。食器はプラスチックの容器で、飲み物は缶のまま。貧乏で、騒がしくて、泥だらけの日常。 だが、そこには確かな「体温」があった。 かつて孤独だった彼らが、命を懸けて選び取り、守り抜いた居場所。
「……いただきます」
四人の声が重なる。 割り箸を割る音が、小さな幸せのファンファーレのように響いた。
ふと、牛丼を頬張りながら、キリコの視線がデスクの一角に止まった。書類の山の隙間、一番目立つ場所に置かれた小さなガラスケース。 その中には、くしゃくしゃに潰れた「わかばの空箱」が飾られていた。
次元を超えた旅の、唯一の「戦利品」。そして、自分たちの原点となった英雄の残り香。
「……ふふっ」
キリコは、ガラス越しにその箱に触れた。 冷たい感触。 だが、その奥にある熱を、彼女は確かに感じていた。
窓の外を見る。 いつものように鉛色の雲が垂れ込め、酸性雨がアスファルトを濡らしている。 汚くて、空気が悪くて、欲望と混沌が渦巻く街。 私たちの世界。
「……どうした、キリコ。食わねえのか?」
「食うわよ。……ただ、悪くないなと思って」
キリコは、最後の肉を口に放り込み、勢いよく立ち上がった。
「さあ、休憩終わりよ! 稼ぐわよ!」
彼女はパーカーを羽織り、銀色の髪をかき上げた。その頭頂部で、狐耳がピーンと立つ。
「依頼が来てるわ。……『迷子の幽霊と、ヤクザの抗争に巻き込まれた少女の救出』よ」
「また厄介ごとかよ。……割に合うのか?」
ジンが、飲み干したコーラの缶を握りつぶし、ライダースのジッパーを上げる。 その背中で、見えない翼がバサリと広がる気配がした。
「あら、楽しそうね。……運動不足解消には丁度いいわ」
シェンが直刀を腰に佩き、不敵に微笑む。
「私、救急箱持っていきます! ……あと、おやつのクッキーも!」
ルカがリュックを背負い、元気に敬礼する。
四人の影が、狭い部屋の中で重なり合う。 かつての『リコリス・バロック』のように。 いや、彼らだけの新しい形として。
「行くわよ! ……今日も世界は、最高にマッドでポップなんだから!」
キリコが叫び、ドアを蹴り開けた。 溢れ出す光と騒音。 彼らは雑踏の中へと駆け出していく。 終わらない輪廻の中で、誰かの想いを届けるために。 その足取りは軽く、迷いはなかった。
次元の壁を隔てた、遥か彼方の向こう側。
平和な東京、新宿。 雲ひとつない青空から、優しい西日が差し込んでいる。
『久遠探偵事務所』。
静かな部屋に、カウベルの音がカランコロンと響いた。スーパーの買い物袋を提げた久遠灯が、あくびを噛み殺しながら帰ってきた。
「……ただいま。……っと、誰もいねえか」
今日は事務所におばちゃんはいない、返事はない。 灯は袋を置き、冷蔵庫を開けてビールを取り出そうとした。
その時。 デスクの上に置かれた、見慣れないものに気づいた。
漆塗りの小箱と、一通の手紙。 そして、自分が吸い終わって灰皿に捨てたはずの「わかば」の箱が消えている。
「……あ?」
灯は、眉をひそめて近づいた。 泥棒か? いや、何も盗まれていない。むしろ、置いていかれた。
彼女は、封筒を手に取った。差出人の名前はない。 ただ、震えるような、けれど力のこもった文字で、こう書かれていた。
『ありがとう。貴女たちが守った世界で、私たちは生きています』
「……なんだこれ? イタズラか?」
灯は、怪訝そうに呟いた。 意味がわからない。 だが、その文字を目で追った瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられるような、強烈な痛みが走った。痛みではない。 懐かしさ。切なさ。そして、どうしようもない愛おしさ。 覚えのない記憶。 けれど、魂が知っている「誰か」の気配。 背中を預けた誰か。手を繋いだ誰か。
「……へっ。律儀な泥棒もいたもんだ」
灯は、目頭の熱さを誤魔化すように笑った。彼女は手紙を大切に引き出しにしまい、空っぽの小箱を手に取った。 中には何もない。 だが、そこには確かに、温かい風が詰まっていた。
「……さてと。飯にするか」
灯は伸びをして、キッチンへと向かう。平和な夕暮れ。 事件も、怪異も、戦いもない日常。
新宿のビルの谷間。 人通りの絶えた、薄暗い路地裏。
そこには、一つの黒い金属ケースが落ちていた。 次元の裂け目から落下した衝撃で、ロックが外れ、蓋が少しだけ開いている。
その隙間から。 ドロリとした、アスファルトよりも黒い泥(Mud)が滲み出した。それは、ただの汚れではない。 生き物のように蠢き、這い広がり、不定形の泥だまりを作る。
平和な世界の、平和な日常。
その影で。
ドクン。
静かに、しかし確かに、「黒胎」が鼓動(Pop)し始めた。
世界は巡る。 物語は終わらない。新たな「歪み」が、次の輪廻を呼び寄せようとしていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




