第5話 翌朝、悪役令嬢は甘えたい
机の上に整然と並んだ文書の束に目を落としながら、ヴァリスは一つ、深く息をついた。
──長かった。だが、ようやくここまで来た。
国を変える、と宣言したのは十年前。
だが本当の意味で、自分自身が“報われた”と感じたのは、昨夜──初めて、彼女と心を通わせた時だった。
レイナ・アグレイア。
誰よりも高貴で、気高く、強くて、美しかった。
そして、誰よりも孤独な少女だった彼女が、自分を愛してくれた。それを、身をもって証明してくれた。
甘く、苦しく、幸福すぎて泣きたくなるような一夜。
彼女が唇で、言葉で、何度も何度も、想いを伝えてくれた。
……いや、伝えすぎた。あの悪役令嬢、絶対に本で勉強してたな。
だが、それでも──
「……可愛かったな」
思わず、ぽつりと独り言が漏れる。
机の脇に置かれた銀の茶器には、今朝、レイナ自ら淹れてくれたローズマリー入りの紅茶が残っていた。
昨夜のぬくもりと、今朝の柔らかな微笑み。その残り香が、部屋の隅々にまで満ちている。
「さて……」
王国の王太子たる身。
心を通わせたとはいえ、腑抜けてはいられない。
今日は次の改革フェーズ、都市外周部への“浴場展開計画”の草案を詰める必要がある。
筆を取り、最上段の文書に目を通した、その時だった。
後ろから、ふわりと甘い匂いがした。
「おや?」
振り向く前に、背中に柔らかな圧がかかる。
背凭れの椅子に寄り添うようにして、レイナがふわりと身体を預けてきていた。
頬がうなじに触れ、彼女の長い金の髪が肩にかかる。
「……レイナ?」
「んー……♡」
寝起きのままの緩んだ声音。その口元が、首筋のあたりに近づいてきた。
──んちゅ。
首筋に、音を立てて口づけされる。
「わっ、ちょっ……書類が!」
「大丈夫よ。少しくらい、サボっても……♡ 昨夜の、あのあと……また夢に見てしまったの♡」
「こ、こら、そんなことを政務室で囁くな!」
蒸気が顔にまで立ちのぼるような感覚。
首筋を伝う吐息が熱い。
レイナはまるで猫のように椅子の背後から身体を押し付けてきて、今度は肩口から手を伸ばして、机上の羽根ペンを“ぽん”とつついた。
「このお堅い書類、ぜ〜んぶ後回しにして……♡ 今日も、二人きりで過ごしましょう?」
「無理だっ!」
即答だった。
しかし、レイナは笑う。耳元で、囁くように。
「……即答、ちょっと傷つくわ。ふふ。でも、その真面目なところも、やっぱり……好き♡」
今度は、真正面から。
椅子を回転させるようにして、ヴァリスの膝の上に座ってきた。
しかも、しれっと脚を組み、指で自分の金髪を弄りながら、上目遣いで覗き込んでくる。
「ほら、目を逸らしてる。照れてるんでしょ?♡」
「言うなっ!!」
「……真っ赤」
「言うなぁぁ!!」
政務室の重厚なカーテン越しに、朝の光が差し込む。
その柔らかな光を浴びながら、いつもの高飛車な彼女が、くすぐったいほど可愛らしく微笑む。
──なんなんだこのギャップは!!!!
ヴァリスの内心は阿鼻叫喚だった。
(あの冷徹な視線、凍るような罵倒、堂々たる態度、悪役令嬢の鑑のような女が……なんで今、膝の上で猫みたいにスリスリしてんだ!!!)
戸惑いと混乱、しかしそれを上回る幸福感が胸を満たす。
手足が震えるのは、もはや緊張ではなく──萌え。
萌え死ぬ。マジで、死ぬ。
レイナはそれを分かっていてやっている。
昨夜、さんざん触れ合ったのは、彼女なりの“支配”だった。
だが今のこれは──愛情と信頼に満ちた、甘え。彼女の素の表情だ。
しばらくして。
レイナは自分の指でヴァリスの胸元を軽く押し、少しだけ距離を取ると、急に真顔になってこう言った。
「……さて。甘えるのは、ここまで。王妃の仕事、果たしてくるわね」
「……うん」
スッと立ち上がり、裾を払って整える。
悪役令嬢モード、再起動。
「午前の式典では、先日の衛生指導講習の成果報告を。午後には教会代表との面談……そちらも、気を引き締めておいてね」
「わかってる。君こそ、無理はするなよ」
最後に、彼女は振り向いて──声を低くして囁いた。
「……でも、夜はまた、わたくしのほうから……お邪魔するかもしれませんわよ?」
唇に指を当て、微笑。
ヴァリスの心臓が、跳ねた。
そして──その扉が閉まると同時に。
「……っっっ、くぅぅぅぅぅっ!!」
雄叫びのような呻き声が政務室に響いた。
政務室の壁に、レイナの余韻が残っている気がする。
可愛い。強い。賢い。抱きしめたい。甘やかしたい。……好きだ。心の底から。全身で。
「はぁ……よし。仕事、しよう」
筆を取り直し、次の文書を開く。
『公衆浴場展開計画:第二案』
書類の上段にはこう記されていた。
***
ヴァリスは茶をひとくち啜ると、眼前の文書群へと目を走らせた。
ここから先は、国家の屋台骨に関わる、慎重かつ大胆な一手になる。
都市部ではすでに十分な成果を上げた施策だが──農村部は、未だ未踏の地だ。
書類の束には、過去十年で整備された都市部の公衆浴場の運用報告、医師による疾病率の推移、労働者の定着率と生産性向上の統計が記されている。
「──死亡率三割減、農閑期の労働時間+二割。生涯平均労働年数が四年延伸」
ヴァリスは唸るように呟いた。
都市部では、公衆浴場の整備は“文化的変革”として確かな実績を上げた。
単なる清潔維持の場ではなく、人々が集い、情報を交換し、心身を癒す「生活の交差点」として定着したのだ。
では、なぜ農村にはまだ、それがないのか?
理由は単純だ。
一つは、物理的な距離。
一つは、文化的な“壁”。
保守的な価値観が根強い村々では、裸を公にすることに対する抵抗感がいまだ強い。
それに加えて、性の話題──とりわけ“公的施設”の導入に関しては、都市部ですら激しい議論を伴った。
ヴァリスは指で机を叩いた。
──性は本能だ。否定はできない。
ならば、それを否定するのではなく、“制度”として包摂しなければならない。
「……快楽は、罪ではない。だからこそ──秩序の中に組み込むべきだ」
この理念は、彼自身が十年前に掲げた国家方針の中核であり、現在では法令としても定着している。
だが、法は作るよりも“守らせる”ことの方が難しい。
都市部で施設制度が受け入れられたのは、決して性への寛容さからではなかった。
むしろその逆──暴力と搾取、違法行為による治安の悪化を食い止めるためだった。
最初の公的区画「ルシエール・レーン」が設けられたのは、王都南部。
その一角では、犯罪率が平均の三倍に跳ね上がっていた。
売春組織と薬物、児童誘拐、密輸。複合的な闇が、貧困層を蝕んでいた。
そこに、ヴァリスは乗り込んだ。
ただし、剣を持たず、法と仕組みを持って。
行政管理下の施設において、成人確認、健康診断、労働契約を義務付け、価格・待遇・客の範囲すらも法規で定めた。
女性だけでなく、男性、さらには無性愛者や身体的制約を持つ者までも、“働き手”として社会的地位を保障する。
その上で、施術には古代魔法による“身体検査”と“安全な行為”を促す術式を導入し、事故・搾取・依存の抑制に徹底した配慮を施した。
「ルシエール・レーン」は、五年で王都の最も治安の良い区画へと変貌した。
初期に雇用された元従業者の女性たちは、現在では“性健康指導士”として王立学院に籍を置き、若年層への教育に従事している。
ヴァリスは、その報告書を手に取った。
ページには、元従業者の女性が村の少女に性教育を教える様子が描かれている。
女性は微笑み、少女は頷いている。
「これが、未来だ」
声が漏れる。
性を“地下に押し込める”のではなく、“地上に引き上げる”。
その上で制度と知識を与え、人間としての尊厳を守る。
だが、それを農村部にまで適用するには、新たな段階が必要だった。
都市部では、情報が届く。モデルケースが見える。
だが村には、それがない。
伝令の馬は届いても、思想は届かない。
彼は筆を取り、紙に新たな命題を書き記す。
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【農村部性啓蒙施策案(第一次草案)】
・地方浴場の設置推進(水循環+古代魔法による熱変換)
・保健衛生と共に性健康指導士の巡回派遣
・公的施設に準じた「愛護院(仮称)」設置(地域住民による参加型運営)
・高齢者・未婚層・障害者への“余暇福祉”支援との連携
・地元住民との合意形成プロセスの標準化
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「まずは、村長・教会・青年団──三者の承認が得られる構造でなければならない」
机の上には、また新たな文書が増えた。
だが、そこには迷いがない。
初夜を超えたヴァリスは、もう迷わない。
国を変える。そして、彼女のいるこの世界を守る。
「……最初の試みは、エルフェイン公爵家の領地で行おう。あの地ならば、統治も安定し、実験的導入に相応しい」
心に再び火が灯る。
この事案の成立は、大きな試金石となるだろう。
上手く運用の“型”が出来れば、地方自治の貴族たちに任せることも出来るし、
加速度的に国全体へ普及するだろう。
正直、ここまで、ブラック労働もかくやというほど、がむしゃらに働いてきたが──
レイナと結ばれた以上、彼女に言われるまでもなく、彼女と過ごす時間を増やさなくてはならない。
「よし、とっとと行って、さくっと計画決めて、速攻で戻ってきて、いちゃつくぞ! 長期休暇だ!」
近侍がいれば、恐らく驚いて見返したであろう大声を出し、気合を入れる。
イチャラブライフは、まだ始まったばかりだ!