第六十四話 マイナスの話 プラスの話
小早志は、まるで糸が切れたかのように立ち尽くし、奈菜に道を開けた。
視線の先、不敵な笑みを浮かべる斎藤を、ただ呆然と見つめている。
奈菜は小早志の異変に気づき、声をかけようかと一瞬迷ったが――また斎藤と問答になるのは面倒だと思い直し、黙ってその横を通り過ぎた。
矢附も小早志を一瞥するが、何も言えず、小さく首を振って奈菜のあとに続いた。
「……高城さんが死ぬとか、鬼になるだなんて、聞いてませんよ、斎藤先生!」
小早志の怒りを孕んだ声が、空気を震わせる。
「うんうん。そりゃあ、聞いてないはずだ。僕は説明を省いたからね。いや、正確に言えば“あえて”省いたと言っていい。君なら、薄々気づくんじゃないかと思ってたものでね」
斎藤は肩をすくめ、気楽そうに言った。
和美が死ねば、当然その力も失われる。
では、彼女が世界を“元に戻した”という結果は、どうなる?
命が尽きれば、それすらも消えるのだろうか?
――いや、そんなこと、奈菜はもうわかっているのだ。
和美を止めに行くということは、つまり、世界を再び“作り変えさせよう”としているわけじゃない。
修復の回収でも、再生でもなく、“停止”。
無かったことを、無かったことのままで終わらせるためには、また力が要る。
継続するにしても、やり直すにしても。
すべては力が必要であり、力は生命を削る。
死ねば、消える。
――正太の“存在”が、どこまでいっても本来のものとは程遠い“まやかし”だったのだと、小早志は今さら理解した。
「で、申し訳ついでに、もう少しだけ踏み込んで説明しようか。『鬼になる』っていう話――確かにそうなる可能性はある。でもね、『僕のように、ある程度まともな形で意識を保ったまま、都合よく人間のふりをしていられる鬼』になる確率なんて、極めて低いんだ。ほんの、一握り以下」
斎藤はいつもの調子で語り始める。
「仮に、高城和美さんが異常なまでに希少な力を持っていたとしても、普通はね、呼び出した鬼に喰われて“同化”するか、もしくは“まるで別人のような、全く別の鬼”になってしまうのが関の山さ。その場合、彼女の“誰かを助けたい”という歪んだ願いだけが突出して残り、他のこと――世界を元に戻したとか、誰かを甦らせたとか、そういう意識は吹き飛んでしまう。つまり、力の維持も、当然期待できないだろうね」
斎藤は大げさに息を吐くと、おどけたように肩をすくめてみせた。
「いやいや、残念だったねぇ」
深刻な内容をわざと軽く語る。それが、彼なりの“カウンセリング的”なテクニックだというが、斎藤自身はその繊細な効能を正確に理解していない。ただ、習ったから使っているだけだ。
「……ぬか喜びさせて、楽しかったですか?」
小早志が鋭い眼差しを向ける。
正太が“生きている”と知らされたとき。
状況が理解できずに困惑していた彼女に、先んじて状況を語ったのは斎藤だった。
求めたわけでもないのに、与えられた“希望”。
それが、結局は虚構に過ぎなかった。
「ぬかでも、喜べたなら良かったじゃないか。混乱だけして、彼の“存在”を見過ごしてしまった方が良かったかい? 彼の死を、彼の“殺し”を止められなかったと、ただ後悔するだけの君が――本当に欲しかったのは、そんな結末だったのかい?」
「私はっ……!」
言い返そうとしたその声は、喉の奥で詰まり、言葉にならない。
ただ、自分が――何の犠牲も、痛みもないままに、都合のいい奇跡だけを願っていたのだと、小早志は痛感していた。
「……斎藤先生」
不意に、笠原が口を開く。
それまで二人の会話を黙って聞いていたが、その表情にはわずかな迷いと、戸惑いが見えた。
「笠原さん、君は西生さんたちにはついていかないのかい?」
斎藤が問いかける。
笠原は一瞬、言葉に詰まった。
正直言えば、いま自分が何をすべきか、何ができるのか、すらわかっていなかった。
ただ一つ、どうしても気になることがあった。
「斎藤先生。私に、《お手伝い》を頼れって言ったのは……高城さんの力を目覚めさせるためだったんですか?」
「へぇ……意外と勘が鋭いじゃないか、笠原さん。ご明察。実に見事な読みだよ」
斎藤はにやりと笑う。
「高城和美さんはね、“誰かを助けたい”っていう願いに、尋常じゃないほど固執していた。その願いを叶えれば叶えるほど、彼女の中で目覚めかけていた力も、着実に育っていったんだ。ほんの僅か。巫女も、小鬼たちも気づかない程度の、ごくごく小さな芽だけどね」
西生の力の影響を受けずに記憶を保持し続け、小鬼も視認できる。
和美には、確かに力の片鱗が見えていた。
笠原がカウセリングを受けたのは、ただの愚痴をこぼすためだった。
アルバイトの不満、将来への不安。そこで紹介されたのは、高城和美だった。
「……斎藤先生。じゃあ、先生は高城さんをどうするつもりなんですか?」
自分のせいで、和美が苦しみ、死ぬかもしれない。
そんな想像に、笠原の胸がわずかに締め付けられる。
「どうするもこうするも……彼女には“餌”になってくれても、“鬼”になってくれても、どっちでも助かるよ。彼女の力は極めて稀有で、彼女がただそれを使ってくれるだけでも、僕たちにとっては貴重な“知識”になるからね。僕たち鬼はさ、個別の存在でありながら、全体でもある。得た知識はすべて共有され、集合体の力になる。つまりはね、彼女の力をどう使うかは、将来的に僕たちが“人間に取って代わる”ための大きな一歩ってわけさ」
斎藤は両手を大きく広げた。
ふくよかな身体が、さらに大きく見える。
「宿願、なんていうほど立派なものじゃないけどね……“未来の素材”としては、実に有望だよ。高城和美さんは」




