第五十四話 おはよう
「おはよう」
矢附舞彩が玄関のドアを開けると、間を置かずに声が飛んできた。まるで“待ってたよ”とでも言いたげな口調だった。
廊下には、あくびを噛み殺しながら眠たげな顔をした瀬名里花が立っていた。長身の彼女は、茶色がかった髪を後ろで一つに束ねていて、その毛先が朝の光をほんのりと反射していた。寝起きのはずなのに、どこか整った印象を崩さないのが不思議だった。
「朝練がない日はギリギリまで寝ていたいの」と語る彼女のだらけた一面は、部活で見せるキリッとした姿からは想像がつかない。でも矢附には、それもちゃんと知っている。朝食さえ「口を動かすのが面倒だから」と抜いてしまうらしい。
「ゼリータイプの食事にしてみたら?」と矢附が提案したことがあったが、瀬名は「私のわがままに合わせて朝食代を変えるほど、うちの親は甘くないよ」とだけ言って笑った。
そして小さく付け足すように、「それに結局、口は動かすじゃん」と。
矢附舞彩にとって、瀬名里花は不思議な存在だった。
二階と四階に住む“ご近所さん”である以上の間柄ではない。けれど、同じマンションに住んで、同じ中学に通い、同じクラスにまでなっているとなると、周囲はそれだけで“仲が良い”と決めつけてしまう。
「何で一緒にいないの?」
「仲悪いの?」
そんな問いに、特別な理由はない。でもその“ない”という答えが周囲には通じないことを、矢附は痛いほど感じていた。
瀬名もきっと、同じように感じていたのだろう。表情に出さなくても、矢附にはそれがわかってしまった。瀬名の心に生まれた嫌気は、やがて苛立ちへと変わり、ますます近寄りがたい空気をまとうようになった。
互いに無理をしてまで関係をつくる必要はない──。
ビジネスをしてるわけじゃないのだから。
そう割り切った矢附は、距離を置いた。瀬名もそれに気づいて、応じるように距離を取った。
最初は逆に意識してしまうこともあった。でも、時間が経つにつれ、互いの存在は“人生に関わらないもの”として処理されていった。
「お、おはよう」
そんな過去を一瞬だけ思い出し、矢附は挨拶を返しそびれていたことに気づく。慌てて言葉を返すと、瀬名は眠気に目を細めながらも、特に気にする様子はなかった。
矢附はリビングの母に「行ってきます」と声をかけて外に出た。ドアが閉まる音が、朝の空気にパタンと吸い込まれる。
隣を歩く瀬名がスマホで時間を確認したので、矢附もつられて腕時計に視線を落とす。まだ登校時間には余裕があった。
「矢附って、いつも早いよね。朝練あるわけでもないのに」
「それに合わせてくれてるんだから、瀬名さんには本当に感謝してるよ」
「気にしなくていいって。好きでやってるだけだし」
この会話も、もう何度目だろう。最初はぎこちなかったやり取りも、今では朝のルーティンのように自然になっている。
かつて断ち切れたはずの関係──。
それが、いつからかまた繋がり始めていた。瀬名が登下校を共にするようになったのは、いつからだっただろう。きっかけも、理由も思い出せない。
なのに、今はそれが“当たり前”のように感じてしまっていることが、逆に奇妙だった。
互いに抱えていたはずの罪悪感は、どうしてか薄れていて──。
その不可解さが、矢附の中で引っかかり続けていた。
「矢附、どうしたの? なんか難しい顔してるよ」
「え? 私、そんな顔してた?」
「うん、眉間に皺寄せてムムムッて顔。寝起きでそれやると、変なとこに皺できちゃうよ」
瀬名は自分の細い眉を指でつまんで、ムスッとした表情を再現してみせた。見ているこっちが笑ってしまいそうな、どこかとぼけた演技だった。
その程度の皺なら別に平気だろう、と矢附は思ったが、自分の顔に置き換えた瞬間、急に心配になって眉間を撫ではじめた。強く撫でれば、少しは伸びるかもしれないと信じながら。
「悩み事? あったら言ってね。相談に乗るの得意じゃないけど、力にはなれると思うから」
「だ、大丈夫。何もないから安心して。……それに、後輩たちの相談にも乗ってるって聞いてるよ。瀬名さん、頼れるって評判だもん」
「それ、ちょっと盛られてるだけだよ。実際は大したこと言ってないし、あの子たちが勝手に喋って勝手に解決してるだけ」
そう言って、瀬名は空中に両手をつき出し、見えない壁に押し当てる仕草をしてみせた。
「私なんて、ただの壁役ってわけ」
その無邪気なふるまいに、矢附は少し驚いた。
こんなに冗談を言う人だっただろうか──。
自分が知らなかっただけで、瀬名は昔からこうだったのかもしれない。
こんな彼女を、もっと前から知っていたなら。
──なら、何だ?
考えかけたところで、言葉が続かなくなった。
頭の中で問いかけても、自分でも答えが見つからない。
まるで、その答えだけが心の奥に隠されているかのようだった。
「矢附……ほんとに大丈夫?」
瀬名の声が優しく響いた。
矢附は眉間をもう一度撫でながら、ぎこちなく笑ってみせた。
――何でもないよ、大丈夫。
その笑みがうまく伝わったかは、わからなかった。




