第五十一話 緑の鬼
一つの命の終わりを合図に、マンション中から一斉に悲鳴が上がった。狂気に染まる五階の廊下を、小学生の足取りで駆けていく黒い影。
「さーて、殺すよー」
笠沼正太の無邪気な声が、惨劇の鐘のように響いた。ドアが開き、逃げ出そうとした住人を目指して、レインコートの子供は跳ねるように走る。その姿を、奈菜も花菜もただ目で追うしかなかった。
奈菜は両腕と胴を、三本の異形の腕に掴まれ、みしり、と骨がきしむほど締めつけられている。花菜もまた、水面から突き出た腕に仰向けのまま貼り付けられていた。
その目の前を、悠然と走り抜ける笠沼正太。
「二対一、やなんて誰が言ったんや?」
花菜が小さく呟いた直後、黄金の一閃が疾風のように襲った。 金色の衝撃が横薙ぎに笠沼正太を打ち据え、彼の身体を壁へと叩きつける。
「鬼化、進んでるようだな」
白い僧衣に麻の法衣を纏った大男が廊下に立っていた。フードで顔の半分以上を隠し、わずかに覗く顔には深い皺。右手に持つ金色の錫杖が、空気ごと場の流れを断ち切るようだった。
左手は印を刻む為の形を成していた。親指は自己を指し、人差し指と中指は天へと向けて、薬指と小指は折り曲げ力を内包する。
壁に強く押さえつけられた笠沼正太はその錫杖を掴もうとするも、掴んだ左手が熱に焼かれた。苦痛の声を漏らすも顔面を強く押さえつけられたままなので、口端から泡となり弾けた。
ならばと、笠沼正太は男の足元に腕を発生させようと念じた。イメージを抱くこと、それが大事だと《カレ》は言っていた。イメージを抱けばそれは生まれる。
「散っ!」
男の一声と共に、水面に張ったような緑の結界が破れ弾ける。
「な、なんで──」
笠沼正太の疑問は全てを聞かれるまでもなく欠き消された。一瞬の浮遊感があった後、再びの金の衝撃。二度、三度と続けて痛みが襲う。
「喝っ!」
四度目の一撃で、正太の顔面が壁へとめり込んだ。骨が砕ける不快な音が、空気を震わせる。
「顎さんは容赦が無くて恐いね」
腕の異形の拘束が弛み、即座に花菜は抜け出し立ち上がった。棍を投げつけ奈菜を掴む腕の異形を断ち切ると、自らを縛っていた腕も蹴り飛ばし、散らした。
顎と呼ばれた男はさらに五打目を構える。花菜の手元にも投げた棍が戻る。二人の祓い師が、壁に叩きつけられた鬼に向かって踏み込んだ。
笠沼正太は、鬼として祓われる。
奈菜はようやく解けた拘束から体勢を立て直し、両手で廊下を叩いた。広がる水面が、マンション中の各部屋に繋がっている。そこに光を叩き込む。
笠沼正太は既に五人殺した。通り魔として四人、つい先ほど一人。結界内の殺しは、祓い師のものであれ鬼のものであれ、認知の産物だ。殺されたと、死んだと認知されなければ、鬼を祓えば何事も無かったと救えたかもしれない。
けれど、もう手遅れだった。
誰も──救えなかった。
「──正太くん!!」
突然、五〇六号室のドアが開いた。そこから飛び出してきたのは、小早志真理亜だった。異形の腕を必死で振り切り、足をもつれさせながら廊下へと飛び出す。
その目が、壁にめり込む黒いレインコートの少年を捉える。緑色に変色した顔が、度重なる打撃で変形しているのがよく見える。
「奈菜っ!」
「わかってる!」
奈菜の結界が反応し、小早志を包むように光が守る。追っていた腕の異形が弾かれ、身動きを止めた。
「殺さないで──お願い、やめて!!」
小早志の声が廊下を震わせた。その叫びは、鬼を祓おうとする力の波に抗うようだった。
「正太くんを──正太くんを、殺さないでぇぇぇ!!」
顎の錫杖が、花菜の朱棍が、それぞれの祓いの光を伴って少年へと振り下ろされる。
壁が崩れ、緑の水面が暴風のように逆巻いた。
「もう遅いねん、この子は──」
「祓うしかあるまい」
錫杖と棍が、光の双星となって輝く。
「ぐああああぁぁぁぁっっっっ!!」
少年の口から響く声は、もはや人のものではなかった。 緑に染まった皮膚が崩れ、悲鳴と共に鬼の形が砕かれていく。
「やめてぇぇぇぇ!」
小早志の絶叫。光に守られながらも、彼女は祓いの力を振り払おうと叫び続けた。
だが──鬼が祓われれば、鬼に関わった記憶もまた消える。
少年の死は、小早志の記憶からも失われる。忘れるのではなく、存在ごと消える。
それが“救い”なのだというのなら──
奈菜は唇を噛み締めた。
誰一人、救えなかった。




