約束
俺と奏楽ちゃんが約束を交わした翌日に、咲楽の意識は回復した。
しかし、俺と咲楽の家族は、お医者さんにこう告げられた。
「結論から言えば、咲楽さんには後遺症が残ります。まず、首を吊ったことによって頸動脈と椎骨動脈が一時的に塞がってしまっていたのですが、これによる虚血時間、つまり血液の供給が止まっていた時間が長く、脳細胞が酸欠状態となっていました。そして、それにより脳に一部障害が残る形となります。言語聴覚士の方と共にリハビリを行う予定ではありますが、咲楽さんはしばらくの間、言葉を話したり書くことが難しくなると思われます。……簡潔に言えば、『失語症』です」
——それを聞いた俺たちは、言葉を失った。
「咲楽さんは『心因性失声症』、精神的に言葉が話せなくなるような症状を患っていたとお聞きしましたが、今回の失語症は症状が全く異なります。具体的に申し上げますと、今の咲楽さんにはブローカ失語と健忘失語の症状が見受けられます。相手の言っていることや見たものの意味は概ね理解できますが、自分で言葉を話すことが難しくなる症状です」
「例えば……」
咲楽の父親が問う。
「そうですね。例えば、今私が持っているものを咲楽さんが言葉にするとします。そして、咲楽さんは私の持っているものが何であるか理解することができます。しかし、咲楽さんはそれを『ボールペン』ではなく、『ゴールヘンヌ』と間違って発音してしまったり、何も言えなかったり、もしくは新造語と呼ばれる全く未知の単語に置き換えて話してしまったりするのです」
「……」
咲楽の家族は、何も言えないままだった。
俺はあの夜、森で咲楽を抱えて走っていた時のことを思い出していた。
『……ま、も……く』
もう、あの時には。
「安心してくださいとは言えませんが、回復の見込みが全くないわけではありません。言語聴覚士の方とリハビリを行い、ある程度回復して社会復帰を成功させた方の例もあります。ただ、簡単な道のりではないことも、理解していただきたいと思っています。咲楽さんの場合、彼女はまだ16歳ですから、時間は十分にあります。しかし、普通の高校生活を送れるかと聞かれたら、正直な話、難しいかもしれません」
俺の隣に立っていた奏楽ちゃんの手が震えていた。
俺は彼女を心配させないように、その手を握りしめた。
「……それから、もう一つお話したいことがあります」
「何でしょうか」
咲楽の母が身構える。
「先ほど申し上げた通り、これから咲楽さんはいくつもの困難にぶつかることでしょう。ご家族の方も大変不安に思われることだと思います。ただ……咲楽さんは全く諦めていません」
お医者さんは毅然として言った。
「失語症は、患者さんの思い通りにならない非常に難しい障害です。道半ばで自信を失ってしまう方々や、絶望してしまう方々もたくさんいらっしゃいます。しかし、それを理解した上で、咲楽さんは前へ進もうとしています。彼女に後遺症のことを伝えた時、彼女は全く動揺しませんでした。むしろ、前々から覚悟していたかのように、非常に落ち着いておられました」
前々から……。
『もしも、私が喋れなくなったとしても、真守くんは、私を支えてくれる?』
……咲楽は、分かっていたのか。
全部知った上で、元の世界に戻ろうとしていたのか。
「咲楽さんは何か言葉にしようとしていましたが、すみません、まだ私の理解が及ばす。ただ、彼女は本当に前向きな姿勢を見せています。ですので、ご家族の方々も、諦めず、咲楽さんを支えていただければと思っております」
お医者さんが説明を終えて、咲楽の両親が諸々の手続きを行っている間、俺は奏楽ちゃんと二人で待合室のソファに腰を下ろしていた。
「真守さん」
「何だ」
「真守さんってテレパシーとか使えますか」
「使えるわけないだろう」
「はは、ですよね……」
奏楽ちゃんが乾いた笑い声を溢して、俯いた。
「お姉ちゃん、大丈夫ですよね」
その声は潤んでいた。
「……ああ、大丈夫だ」
「お姉ちゃん、また喋れるようになりますよね」
「ああ、当然だ。そのために俺たちがいる。俺たちが咲楽を支えるんだ」
「……はい」
咲楽は、あの世界にいた時からこうなることを覚悟していた。
知っていた上で俺のためを思い、元の世界に戻りたいと願った。
俺と一緒に生きていきたいと願った。
ならば、俺がやろうとしていたことは変わらない。
これからも咲楽の隣で、彼女を支え続ける。咲楽が辛い時は、俺が側にいる。
これからもずっと、咲楽と一緒に居続けるんだ。




