正義と尊厳の話
騒がしさと入れ替わるように静寂が流れる。静かになると、不思議と嗅覚も鋭くなる。
カーペットやソファに振りまかれた香水の匂いは比較的軽く、貴族にありがちな強くて重苦しい匂いとは正反対。貴族は往々にして己の権威を示したいが為に他より強く重い匂いを纏いたがる。
華やかな社交界の裏で、気分を悪くした紳士淑女でお手洗いが埋まることも珍しくない。かつては私もそのひとりだった。
極限の豪華絢爛は五感を狂わせ、思考を錆び付かせる。錆び付いた者は隙を突かれ、ダンスを相手の掌の上で踊ることになる。耐久力が問われる頭脳戦だ。
「大変失礼なことをお聞きしますが、フーリエ様のお名前は本名でございますか?」
静寂を払ってフィルトネが尋ねてきた。コップを傾ける手が止まり、口内に流れた野菜ジュースが青臭さに眉をひそめる。
「……本当に失礼だね」
「申し訳ございません。しかし、どうも庶民の身分とは思えない所作が節々に表れておりまして。一方でフーリエ・マセラティというお名前の貴族方は存じ上げないものでして」
「私は旅人のフーリエ・マセラティ。それ以上でも、それ以下でもない。貴族事情をたまたま良く知っていて、詳しい情報通も友人にいるだけ」
「わたくし達も、便利屋のクラウンロイツですわ」
彼女は軽やかに反転して、正面をカウンターから食器棚へと向ける。質素な装飾のガラス棚からティーカップセットを出して紅茶の準備を始めた。食後のティータイムだろう。
「わたくしもメフィも貴族の身分を脱ぎ捨てました。境遇は違えど、同じ元貴族の庶民同士、なんだか親近感が湧きますわ」
「っ……勝手に同じにされるのは癪だね。身分を脱ぎ捨てたとか言って、家名はそのままじゃん」
脳を突く腹立ちをコップの中身と共に流し、背もたれに体重を預けた。軽く入れた煽りにも動じず、彼女の表情は微塵も変えずにカップにお湯を注ぐ。まるで丁寧に磨かれた陶器のように。
庶民はそれを上品と言うが、私からすれば気味悪い仮面を付けているようにしか感じない。硬く艶やかな仮面の下に隠したおぞましい表情を吐くほど見てきた。
「わたくし達は産まれてから死ぬまで、貴族でいることを運命付けられた身分。どれだけ離れて隠そうとも、家名の枷は繋がっているのです。それを意識をしなくなった時、止まり切れずに罠に掛かってしまうかもしれません」
「【放し飼いの狼】からの引用?」
「その通りですわ。やはりご存じでしたのね」
【放し飼いの狼】は貴族の間で広く伝わる昔話。狭い森で育った狼は、走り回ることもできずに不満が募っていた。そんなある日、人間がやって来て森の木々を伐採していった。
すると目の前には広い平原があり、遠くにはもっが広大な森の姿が見えた。狼は自由な森の生活を夢見て、大喜びでその森を目指し駆けていく。
そして幾つかの昼を越えて、暗闇を走っていた狼の目の前に、棘が何重にもも刺さった木柵が現れた。ずっとずっと左右に続く木柵を見て狼は、自分は広い場所に放し飼いされていたのだけなのだと気付いた。あの狭い森も放牧地の一部だったのだ。
しかし最高速度まで達した脚では制止が効かずに、そのまま木柵に突っ込んで串刺しとなり絶命する。
狭い世界の中で過ごす子供の貴族に対する躾の為に作られた話だが、フィルトネ達にとっては別の意味で捉えているようだった。
「莫大で絶大で至大なセンチュリー家の権力を知るからこそ、わたくし達は家名を捨てず生まれ故郷で限られた自由を得ることにしましたの」
「…………その話は私に対する警告? それとも探りを入れてるつもり?」
「どちらでもありません。ただ、羨ましいのです」
彼女は抽出が終わった紅茶に口を付ける。目尻がわずかに下がっている。
「わたくし達には仲間がいません。いつも二人三脚でいくつもの絶壁を登り、山脈を越えてきました。でも乗り越えた先で見える景色は、いつも少しだけの変化を加えた景色しかありません。それは貴族の家名が刻まれた枷がそうさせるのです。結局はわたくし達に覚悟が足りなかったのですね。それでも後悔はしていませんが、中途半端ですわ。だからフーリエ様が羨ましいのです。貴女様は真の自由を手に入れている」
「そっちが自分の意思で決めたことでしょ。私に羨ましいとか言われても」
「その意思が、人を殺めることだとしても、ですか?」
一瞬、時間と空気が止まった。なぜここで極端な例を持ち出すのか。フィルトネは私を試すような視線を向けている。何が目的なんだ、
視界の端に飲み終えたコップが映った。手に取ってフィルトネに差し出す。
「一応、今の私は身分どうこうの前に病人なんだけどな。ハーブティー、冷たいのある?」
「かしこまりました」
彼女はコップを下げて、笑顔で私の要求に応えた。
実際、貴族特有の無駄に遠回しで長い話に付き合える程、体力は戻ってきていない。
「お待たせしました。パセリのハーブティーでございます」
爽やかな香りに黄色の花弁がふたつ浮いている。黄色の百合とルドベキアだった。花言葉から推察しろとの分かりやすいヒントのようだ。
なるほどね、と小さく言葉が漏れた。一口飲んで答える。
「私個人の意見を述べるのは控える。ただ肯定する人々はいるだろう。司法が認めるかは分からないけど。少なくとも、私の産まれ故郷では前例が無い。まだその議題を持ち出すには、時期早々だ」
残りのハーブティーを飲み込んで立ち上がる。これ以上の頭を使う長話は体力的に限界だ。
「私は寝る。リラとエリシアが帰ってきたら教えて」
「かしこまりました」
「それから彼女に伝えといて。尊厳を論ずるには、まだこの国、いやこの世界は成熟していないと」
「はい。かしこまりました」
承諾の言葉を背後で捉え、寝室へ階段を上って行った。




