第三話
真冶は水瀬の後を追ったが、彼女とは基本性能の差があったのだろう、水瀬の動きは予想以上に素早くて真冶は彼女の姿を見失った。そうこうしている間に昼休みは終わり、真冶は仕方なく教室に戻った。
放課後になるのを待ちかねて真冶は水瀬のいる2組の教室に行った。しかしそこに水瀬の姿はなく、さらに周辺を探しても見つけられなかった。諦めて真冶が戻った教室では、水瀬がいつもの笑顔で速見に何かを話しかけていた。
速見はどちらかというと大人しい性格で、何かと有名な水瀬が自分に話しかけてきたことで戸惑っていた。周囲の生徒は2人からは少し離れて様子をうかがっている。水瀬は真冶が教室に入ってきたことに気付くと、手を上げて彼を呼んだ。
「鹿波さん。ちょっと来て」
周囲の目が真冶に集まり、彼は居心地の悪い思いをしたが、無視することなど到底できずに2人の方へ歩いて行った。
「鹿波さんからも薦めてあげて」
「何を?」
水瀬が何も言わないので、真冶は速見に視線を移した。
「インターネットに面白いマンガがあるって教えてもらってたの。『メガネ・デイズ』ってお話」
(何てこと言ってるの! 水瀬さん!)
真冶は心の中でそう叫んだ。あやうく本当に口に出して言うところだった。彼は何とかそれを阻止しようとした。
「……え~、どうかな。速見が読んで面白いかな。原作が好きじゃないと分かりにくいかも知れないよ」
「どうして鹿波さんがそんな言い方するの!?」
水瀬が非難するような口調で真冶に言った。
「いや、ほら。絵だってはっきりいって下手だろ。最初の頃なんてそれ以下の絵で、初めての人は読み始めるのに抵抗があるんじゃないか」
「だからこうやって薦めてるのよ。それで読まないなんて絶対に損だから」
「無理に薦めなくてもいいんじゃないか。速見だって困ってるよ」
「だって……、あれ? 速見? わたしは水瀬さんなのに?」
「水瀬さんは水瀬さんだよ。みんなそう呼んでるじゃないか。水瀬さんも僕を鹿波さんって呼んでるよ」
「あのっ、あたし読んでみます。絵のことも分かりました」
「いや、それは」「本当? 後で感想を聞かせてね」
しばらく呆然としていた真冶だったが、いきなり水瀬の腕をつかむと教室の外へと引っ張っていった。それを見送る生徒たちからどよめきの声が上がった。
「どうしてあんなことを言ったんだよ? マンガを描いてることは知られたくないって言ったよね?」
真冶の口調には心の動揺がはっきりと表れていた。
「速見さんにはセンセが描いたマンガだってことは言ってない」
「え? そうなの」
「でも、あんなにがんばってることを恋人になる人に秘密にするのはどうかな?」
「なる人じゃないから。決まってないから」
「あのマンガを読んだら絶対描いた人に好意を持つと思う。そうしたらチャンスよ」
「もしかして、彼女が僕のマンガを面白かったって言ったら、作者が誰かばらすつもり?」
「うん」
「やめてよ! 彼女をモデルにしてるって言っただろ。知られたらどうなると思ってるの?」
「わたしだったら感動するかな?」
「速見は水瀬さんとは違うんだよ」
「そうね。わたしは『さん』づけだもの」
「何でそこにこだわるんだよ。呼べばいいんだろ。水瀬、水瀬、水瀬、水瀬!」
「はい、センセ」
水瀬は楽しそうにそう言った。真冶は急に疲れを感じて、それ以上何も言わずに水瀬と別れた。
家に帰った真冶は、どうしようもない不安にとらわれていた。自分の学校にいる2人の先生がマンガに出ていると気付いたら、速見は自分がスズカのモデルだと気付くだろう。すると自然とその作者は学校の関係者だということになって、今日の話から僕が作者じゃないかと疑うかもしれない。
「鹿波くん。あんなマンガを描く人だったのね。あたしのこと、そんな目で見てたのね」
「速見、かわいそう。こんなオタクのおもちゃにされて」
「あたしたちだって同じ目にあうかもしれないよ?」
「何だよ鹿波。女の裸なんか描いてるのかよ。そーゆーので興奮するヤツなんだ?」
「絶対他にもっとエロい絵とかも描いてんだぜ」
「いや。違うよ。そんなんじゃないんだ!」
真冶が叫ぶと、目の前には自分の部屋の天井があった。ヘッドから起き上がるとひどく汗をかいていた。彼が学校へ行くことをためらってグズグズしていると、母親にが彼を玄関から追い出した。真冶が心底驚いたことに、家のすぐ前には水瀬がいて彼が出てくるのを待っていた。
学校に向かう道のりで、真冶は自分が屠殺場に引かれて行く家畜のような気がしていた。相変わらずにこやかな水瀬を見て『こいつは牛を売ったらいくらになるか皮算用してるに違いない』などと被害妄想におちいっていた。
教室に入ると速見は先に登校していた。速見が自分を見ている表情には軽蔑の色がなく、それを感じた真冶はとりあえず安心した。しかしまだ水瀬が速見にばらしてしまう恐れがある。速見があのマンガを気に入ったと言わないように。真冶はそう祈っていた。
「どうだった? 速見さん」
速見は言い難そうに言った。
「ごめんなさい。あたし、ああいうマンガはちょっと」
「えっ! どうして?」
水瀬は本当に意外そうに言った。
「まあいいじゃないか。何を面白いと思うかは人それぞれなんだから」
「でも! ……鹿波さん。どうして嬉しそうなの?」
「いや? そんなことはないよ。自分の好みを他人に押し付けようとしないだけだよ」
申し訳なさそうな速見を残して水瀬は自分の教室に戻って行った。真冶は最初、ほとんど眠れないほどだった悩みが解消されたことで良い気分だったが、しばらくすると胸の中にしこりのような物を感じるようになり、それがどんどん大きくなっていった。昼休みになって水瀬が現れたとき、真冶はどう見ても落ち込んでいる様子だった。今度は水瀬が真冶の腕を引いて中庭まで連れて行った。
「どうしたの」
「いや……知り合いに自分の作品を否定されることが、こんなにショックだとは思わなかった」
それを聞いて水瀬は少し満足そうな顔をした。
「それじゃあ、他の方法を考えましょうか」
「速見さんのこと? ……もういいよ」
「どうして?」
「なんだかんだ言っても、あのマンガには僕の1年半が詰まってるんだ。それを隠して、僕の作品を否定している人とつき合う気にはなれないよ」
「ごめんなさい。絶対気に入ると思ったのに」
「水瀬さ……水瀬は知らないだろうけど、あのマンガはそんなに他人に受けないんだよ。しばらくはアニメの人気に引っ張られて色々な人に読んでもらったけど、今でも水瀬みたいに読み続けてくれているのは、たぶん100人もいないんだ」
「そんなことない!」
「本当なんだよ。僕のサイトには来てくれた人の数が分かるカウンターがあって、僕はその数字を確認しているから分かるんだ」
水瀬は何か言おうとしたが、そのまま言葉を飲み込んだ。2人ともうつむいたまましばらく時間が過ぎた。
「センセ」
「ん?」
「BLって知ってる?」
「まあ、何の略かぐらいだけどね。BOYS LOVEだっけ?」
「そういうのって、どう思います?」
しばらくの沈黙の後、真冶はいきなり立ち上がった。
「な、何? 質問の意味が分からなかったんだけど」
「だから……、そういうのに偏見とかあります? それともOK?」
「へ……偏見とかじゃないけど、ダメだからね、僕は! ホントこれっぽっちも!」
「……」
真冶は今すぐここを離れて、もう水瀬とは一切かかわらないようにすべきじゃないかと真剣に考えた。水瀬は難しい顔をして何かを考え込んでいる。
「……こうなったら……いや……でも……とりあえず……なら……」
小声で何かぶつぶつと言っていた水瀬は、ついにその顔を上げると真冶の目を見つめてこう言った。
「わたしとつき合いましょう。センセ」
「……ツキアイマショウ?」
「そう。こうなったらセンセにも妥協が必要よ。わたしは速見さんと違ってセンセの作品のファンだから、条件の1つはクリアしてる」
真冶は自分の思考回路に全くなじんでくれない水瀬の言葉を、理解するため必死になっていた。
何か日本語が色々とおかしい。これは水瀬が外国人だからだろうか。水瀬とつき合うことと妥協という単語の意味とが全くつながらない。もしかして別の意味のダキョウだろうか。ダキョウ、ダキョウ、ダキョウ……何も思いつかない。ダキョウダキョウダキョウダキョウダ、キョウダ? 怯懦? 強打? 怯懦が必要? そんな言い方はしないだろう。強打が必要? この言い回しは聞き覚えがある。
強打というのは、思い切って1つ上の成果を目指せと言うことか。おお、なんとか意味が通じるようになってきた。僕に恋人を作ろうとした水瀬のこれまでの言動を考えると、自分に対する恋愛感情は全く無いように思える。これは確かに高難度の挑戦だ。
真冶が脳内でコントを繰り広げている間に、水瀬は何かを決意したような顔になって立ち上がった。
「センセ。では、次の日曜日にデートをします。場所はセンセが決めてください。それじゃあ」
そう言い残して水瀬はその場を立ち去ろうとしたが、すぐ立ち止まると振り返って真冶を見た。そして真剣な顔でこう言った。
「わたしたち中学生ですから、子どもができるようなことはダメですよ」
水瀬が立ち去ってしばらくしてから、真冶の顔が耳の先まで赤くなった。