プロローグ
窓の外では小鳥が楽しそうにさえずり、朝の柔らかな陽射しが部屋を優しく照らしていた。
「お嬢様、おはようございます」
十四歳のミティンシュカはベッドから身を起こし、小さく微笑む。
「おはよう!メアリー」
廊下を歩けば、すれ違う使用人たちが足を止め、深々と一礼した。一人ひとりに明るい笑顔を返す。
料理人には「今日もいい匂い」と声をかけ、
庭師には「今年もバラが綺麗だね」と笑う。
誰に対しても分け隔てなく接するのが、彼女の日常だった。
食堂では、父と母が優しく出迎えてくれた。
「昨日、アッシュ様からお手紙が届いていたわ。来月のお茶会で会えるそうよ」
母の言葉に、ミティは照れながら頷く。幼い頃からの婚約者。将来この人と結婚するのだと、当たり前のように思っていた。朝食後、領地の視察へ向かう父と母の馬車が見えなくなるまで、ミティは笑顔で手を振り続けた。
——この日交わした会話が最後になるなど、知る由もなかった。
昼下がり。血相を変えた侍女に呼ばれ玄関ホールへ向かうと、血と泥だらけの騎士が膝をついていた。
「……領地からお戻りになる途中、馬車が魔物に襲われ……崖から転落いたしました」
時間が止まった。
「違う……お父様は帰ってくる。お母様も……だから、違う!」
少女の必死の願いも虚しく、その日、玄関の扉が開くことは二度となかった。
◇
静かな葬儀を終え、ミティは伯父の屋敷へ引き取られた。
数年が経ち十六歳になったミティは、王国で最も歴史ある学院へ通い始める。屋敷では使用人同然の冷遇を受けていたが、彼女はめげず、学院で婚約者のアッシュと再会できることを支えにしていた。
初日、制服姿のアッシュは優しく微笑んでくれた。
「学院生活で困ったことがあれば、遠慮なく言ってくれ」
(変わっていない……)それだけで心が温かくなった。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
旧友と本の話をしただけで「婚約者がいるのに色目を使い回している」と悪質な噂を流されたのだ。さらに従妹のエリザベスが冷ややかな視線で「誤解されるから気をつけなさい」と追い打ちをかける。柱の陰で薄く笑うエリザベスの存在に、ミティは気づくはずもなかった。
噂に傷つくミティに、最初アッシュはまっすぐ語りかけてくれた。
「出所の分からない噂だけで人を判断するつもりはない。君は私の婚約者だ。誰が何を言おうと信じる」
その言葉に胸が熱くなった。
誰かを手伝えば「いい子ぶっている」
優秀な成績を取れば「不正をしている」
「給使に酷い態度をとっていた」「まぁ見た目通りきつい方なのね」
それでもミティはめげなかった
――アッシュが信じてくれるから…
だが半年後。教室で令嬢のブローチが紛失し、持ち物検査の末、なぜかミティの机から見つかる事件が起きる。
身に覚えのない罪。どれほど訴えても周囲の目は冷たく変わり、アッシュの瞳にも隠しきれない「迷い」が浮かんでいた。エリザベスは言葉巧みに、彼の胸の迷いを確信へと深めていった。
◇
卒業まで残り数か月。相変わらず孤立していたミティだが、「もうすぐこの苦しい日々も終わる」と静かに耐えていた。
だが昼休み、運命の歯車が完全に崩壊する。
階段の踊り場で、並んで歩いていたエリザベスが突如悲鳴を上げ、自ら階段を転がり落ちたのだ。
反射的に手を伸ばしたミティだったが、指先は空を切る。白い書類が宙を舞い、駆けつけたアッシュが現場の惨状に息を呑んだ。
「違います! 私は押していません、助けようと——」
「……私も、この目で見た。君が手を伸ばし、彼女が落ちたのを」
冷酷に背を向けるアッシュ。
過去の盗難事件と多数の目撃証言を理由に、学院側もミティの言葉に耳を傾けることはなかった。下された処分は「退学」。
卒業直前、二年間通った教室から荷物をまとめ、ミティは誰にも見送られることなく静かに学院の門をあとにした。
◇
退学から三か月後。ミティのもとへアッシュから一通の手紙が届く。『今夜の夜会で、話がしたい』という短い一文。
煌びやかな大広間へ足を踏み入れると、一斉に好奇と蔑みの視線が突き刺さった。
嘲笑の囁きが広がる中、奥から堂々と歩み寄ってきたのはアッシュだった。その隣には、悲劇のヒロインのように可憐に寄り添うエリザベスの姿がある。
広間の中心で足を止めたアッシュは、逃げ場を塞ぐように、あえて周囲へ通る大声で宣告した。
「ミティンシュカ! これ以上、我が公爵家と我が身を汚すことは許さん!」
音楽がピタリと止まり、会場全体が静まり返る。誰もが息をのんで中央を注視していた。
「盗難に及んだ挙句、己の従妹を突き落とし、反省の色すら見せぬ恐ろしい女……! 貴様のような悪徳に満ちた者を、公爵家の令息たる私の妻にするわけにはいかない! 本日この場をもって、貴様との婚約を完全に解消する!」
会場からどっと歓声と嘲笑が湧き上がった。見せしめのような断罪。取り乱し、泣き崩れるミティの姿を期待して、アッシュは冷たく見下ろしていた。
ミティは胸の前でそっと手を重ねると、乱れることもなく、静かに目を伏せた。
「……承知いたしました」
凛とした声が、喧騒を静かに切り裂く。
予想に反してあまりに平然としたその態度に、歓声を上げていた貴族たちも、アッシュ自身も言葉を詰まらせた。
「……それだけか」
アッシュの顔から余裕が消える。
「私に何か言い訳や、乞い願う言葉はないのか!?」
ミティは顔を上げた。その瞳には恨みも悲しみもなく、ただどこまでも澄み切っている。
そして、華やかな会場の誰よりも穏やかに微笑んだ。
「今まで、本当にありがとうございました。アッシュ公爵令息様には、たくさん良くしていただきましたこと……心より感謝しております」
「公爵令息様」と吐息のように零された距離感。怨嗟も涙もない、あまりにも美しい一礼。
己の行った断罪が、まるで一人相撲だったかのような虚しさが広場を支配する。
「……ミティ」
立ち尽くすアッシュへ「どうかお元気で」と静かに告げると、ミティは二度と振り返ることなく、光に満ちた大広間をあとにした。
◇
夜会から一週間。荷物をまとめ終えたミティに、伯父が告げた。
「今日限りで、この屋敷を出てほしい」
「今まで、お世話になりました」
静かに頭を下げ、部屋をあとにした。
夕焼けに染まる王都の街並みを見下ろしながら、ふと昔の記憶が蘇る。
幼い頃、父と母に語った夢。「大きくなったら、冒険者になりたい」と笑い合った日のこと。
(そうだった。私は、旅の話が好きだった)
王都に、もう私の居場所はない。だったら——まだ見ぬ世界へ行ってみよう。
子どもの頃に憧れた景色を、自分の目で確かめるために。
ミティは小さく頷くと、二度と振り返ることなく歩き出した。




