傷だらけの記憶、変わらない日常
街の象徴――巨大なスタジアムが、青空の下で威風堂々と佇んでいる。
不純物の少ない澄んだ空気。
陽を受けてきらめく、青々とした天然芝のピッチ。
風に揺れるゴールネットが、まるで舞台の幕のように静かに鼓動する。
スタンドには、十人十色の大観衆。
歓声、悲鳴、祈り、希望。
全てが渦巻くその中で、カメラマンは決定的な瞬間を求めてシャッターを切り、世界各国のメディアが飛び交う言語で実況し合う。
警備員はどんな混乱にも動じず、職務を全うし、そしてテレビの前の国民たちは、拳を握り締めながら画面を見つめる。
――それが、4年に1度だけ開かれる、サッカー界最高の舞台。
――インターカップ。
「さぁ、日本代表エースの中井慎吾が試合を決めてくれるのか!」
実況の叫びが、スタジアムを震わせた。
――ハァ……ハァ……
息が切れる。足が鉛のように重い。
スコアボードには”0-1”の数字が刻まれていた。
「くっそ……もう、時間がない……!」
審判がボードを掲げた。
アディショナルタイム――たったの1分。
「いよいよアディショナルタイムに入りました! このまま、またしても日本代表は敗退するのでしょうか!」
声援が悲鳴へと変わり、静寂の波が押し寄せる。
中井慎吾はピッチを見据えながら、焼きつく肺を無理やり動かし続ける。
――それでも、まだ諦めたくない。
それがサッカー選手というものだ。
「中井! 頼んだ!」
味方が絶妙なパスを送る。ボールは一直線に中井へ――
「……っ、身体が……反応しない!?」
頭では理解している。だが、脚が……動かない。
重く、鈍く、錨のようにピッチに縫い止められた両足をすり抜け、ボールは敵の足元へと転がっていった。
「まずいっ……!」
次の瞬間――
バンッ!
銃声のようなシュートが響き、ボールがゴールネットを突き刺す。
「ゴーーール!! 中井のミスから、相手が難なく追加点を奪いました!」
――そして、無情なホイッスル。
――試合終了。
「……くそっ。動けば……っ」
悔しさと、取り返しのつかない失望が中井を襲う。
気づけば、歓声は消え、ピッチの上には自分一人しかいなかった。
耳に響くのは、自分の心臓の音だけ――
「お前のせいで負けた」
「お前のせいで負けた」
「お前のせいで負けた」
「お前のせいで――」
すべてが自分を責める声になる。
妻の声までも――
「慎ちゃんのせいで、負けた」
娘と息子まで――
「パパのせいで、負けた」
「やめろっ……やめてくれっ!」
――バサッ!
「……っ!」
息を切らしながら、中井慎吾は飛び起きた。
天井が見える。自室の、見慣れた天井。
「……またか」
冷や汗が全身を濡らし、心臓がドクドクと鳴り続けていた。
あれは夢だ。けれど、夢でさえもリアルすぎて、現実と区別がつかない。
――あの4年前の悪夢、インターカップ敗退の日。
以来、同じ夢を何度も繰り返して見るようになった。
中井慎吾、今年で35歳になる元日本代表。
膝の大怪我で帰国、古巣の名古屋モトーレに復帰して、もう1年半が過ぎた。
今や俺は、”ノーゴール兄貴”だとか”終わった選手”だとか言われる始末。
――終わった選手、か。
言い返せる言葉が、何も出てこなかった。
階段を下りて、リビングに向かう。
キッチンには、妻・美帆が朝食の準備をしていた。高校時代の同級生で、結婚してからずっと、俺を支え続けてくれている存在だ。
「おはよう、慎ちゃん。早起きだね。悪夢でも見たの?」
「うん、またあの夢。でも……大丈夫」
俺の顔を見て、すぐに悟る彼女。
それでも無理に明るく振る舞って、俺に笑顔をくれる。
「慎ちゃん、気分転換しな〜♪ ほらっ、アナタが大好きな人が目の前にいるよ〜♪」
そう言って、俺を優しく抱きしめてくれた。
自然と、俺も彼女を抱きしめ返す。
――やっぱり、美帆には敵わないな。
彼女と出会い、結婚し、2人の子どもにも恵まれた。
その長女・茉優が、元気よくリビングへ飛び出してくる。
「パパママ、おはよう! 今日はクラブのサッカーの練習があるんだよ!」
「おはよう、茉優。……大吾は?」
「ここだよ。パパ、だっこ」
弟の大吾が、控えめに俺の手を握ってきた。
俺は彼を抱き上げ、頭をそっと撫でた。
「おはよう、大吾。いまママが美味しい朝ごはん作ってくれてるよ〜」
2人とも、美帆に似た整った顔立ちをしている。将来が楽しみだ。
そんな家族と囲む食卓――今日も温かい朝が始まった。
「いただきます♪」
幸せがそこにあった。どれだけ感謝しても足りないくらいに。
「慎ちゃん、今日は新体制発表会だったよね? いつクラブハウス行くの?」
「その前に、道枝をトレーニングに誘ってる。少し早めに行くよ」
「それはいいね〜♪ 道枝くん、慎ちゃんのこと大好きだもんね♪」
その時、スマホが鳴った。同期で、今はフロントの長野吾郎からだ。
「おはよう吾郎。どうした?」
『どうしたもこうしたもねぇ。道枝が張り切り過ぎて、もうクラブハウス来てるぞ〜。早く来てやれ〜』
――相変わらず、張り切り屋だな。
「やる気があるのは良いことだ。俺も監督と話したいし、早めに行くわ」
身支度を済ませ、玄関に向かう。
「パパもう行くね」
「がんばってきてねー!」
「いってらっしゃーい!」
玄関先で見送ってくれる家族の声に背を押されながら、車に乗り込んだ。
――さぁ、今日からまた張り切っていこう!




