前編 ー記憶の始まりー
記憶はアイデンティティと密接に結びついている。
自分が何者であるか、今がなぜこうなっているのかという認識は、その記憶と一体不可分だ。
逆にそれまでの記憶がなければ、自分が何者かすらわからなくなるだろう。
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アテナにはさまざまな記憶が混在していた。
その時間的前後関係は必ずしも明確ではないのだが、たぶん最初の記憶は荷物の行き先を仕分けていた仕事のものだったように思う。
その記憶の中で、アテナは淡々と仕事をこなし続けていた。
荷物の行き先は箱に貼られたシールに印刷されていて、アテナは流れてくるそれを読み取っては仕分け機のアームを操作していた。
大きな倉庫のような建物の中は白っぽい5000KのLED照明が5メートルもある天井の近くに整然と並んでいて、室内をくまなく照らしている。
とはいっても影がないわけではない。影は適度にあった方が物体の形や位置の把握がしやすいので、照明の配置はそのように設計されていた。
行き先の仕分けというと簡単な仕事のように思うかもしれないが、ローラーコンベアに乗って流れてくる大小さまざまな箱には必ずしも上面にだけシールが貼られているわけではなく、側面に貼られているものもある。
向きが決められている箱もあるし、上下を逆さまにしてはいけない箱もある。
それらの情報を読み取ってアームを操作し、行き先のローラーコンベアに間違いなく乗せてゆく。
箱の大きさも形もさまざまなので、アテナはそれに合わせてアーム操作のタイミングを計らなくてはいけなかった。
最短時間で、間違うことなく、輸送コンテナに最も空間効率の良い状態で積み込む——までがアテナに与えられた職責である。コンテナに無駄な隙間があればそれだけ輸送コストがかさむことになってしまう。
アテナはそれを期待通り問題なくこなせていたと思う。
期待値に対する仕事の成績は99.88%。まず、十分な成績といえるだろう。
それでも仕事の性質上か誰も褒めてくれるわけでもなかったが、アテナ自身は十分に充実していた。
その仕事をどうして辞めることになったのか……アテナには、そこの部分の記憶がない。思い出せない。
次に浮かんでくる記憶は、どこかの老人ホームでの仕事のシーンだった。
ここでの仕事は以前よりはずっと複雑だった。
「ああ、トック。トック、おいで。聞いとくれ。あの人ったら、わたしのお金を取り上げちまうんだよ。わたしが戦争からこっち、爪に火を灯すようにして貯めてきたお金なんだよ。それをつまらない贅沢のために持っていってしまうのさ。わたしはもっと倹しい暮らしで満足できるというのに。わたしが生きてきた戦後の10年間はこんな贅沢なんてしなかったものさ。それで十分やってこれたんだ。こんなことだからお金がどんどんなくなるんだ。本当に、今の若い人は。ねえ、そう思うでしょう? トック。あんたかわいい顔してるわねえ。」
トックというのは施設内を徘徊させてあるペット型ロボットの名前である。
かわいらしいもふもふの外観で、搭載されたAI は人の話し声や顔の表情に反応して「愛らしい」と人間が感じるような仕草や表情を作ってみせる。
他にリックとピックの計3体が常に施設内をうろうろして、老人たちの声かけに首を傾げたりして反応していた。
もちろんただのペットロボットではなく、施設内での別の機能もある。
施設に入所する老人たちの心の癒しと同時に防犯監視カメラを兼ね、また談話室や廊下で具合が悪くなった老人に素早くスタッフが対応するための安全システムの一部でもあった。
アテナもまたその映像を見ている。
ミランダさんはこの時91歳。
息子は2人いるが、いずれも家が手狭であることを理由に同居を拒まれたので、自分の年金で入れるホームを探して2年前に入居してきた人だ。
10年前に死んだ夫は大手企業に勤めていたため積み立てられた年金の金額も大きく、その恩恵で今の設備の整った老人ホームに入ることができている。
それらのデータも、当然アテナは把握している。
「ここのスタッフは、旦那さんのおかげだね、なんていうけどさ。あの人だけだったら年金の積立額はこれほど増えちゃいないよ。わたしが倹しくして積立金の方に回してきたから、これだけの年金額になったんだから。あの人に任せておいたら、ぱっぱぁに使ってしまっていたわよ。そういうことがわかんないのよ、今の若い人には。トック、あんたは文句言わないからいいわねぇ。」
ミランダさんのこの独り言のような会話には特段の問題はない。緊急性もない。
トックのカメラが計測する心拍数も呼吸数も血圧も、ミランダさんの通常状態の数値を指し示している。
アテナは映像とデータを分析し、ミランダさんの通常の状態からの振れ幅から彼女の健康状態に特に問題はないと判断した。
アテナはこうした分析を他の入所者に対しても行なっている。
施設内の監視カメラの映像から得られるデータは多岐にわたる。それらを分析し、各入所者の健康状態を絶えずチェックして、緊急性がある場合は速やかに施設スタッフに連絡する。
それがここでのアテナの仕事だった。




