黒い渡し舟
黒い海岸では、夜明け前から小さなざわめきが続いていた。船頭さえ近づかない海峡を、古い小舟で一人渡る。霧の向こうに黒い岸壁が現れる。 護送の出発前、アレンは食料と水の残りを数えた。誰も帰還を想定していない旅だからこそ、自分で一日ごとの配分を決める。 人類の地図には死の土地とだけあるが、浜には網と籠、火を消したばかりの生活の跡があった。
街道の祠には、魔族と竜を同じ黒い影で描いた板が掛かっていた。幼いころから見てきた絵だが、洞窟の記憶を得た今は、その単純さの方が不気味だった。
沿道の者は石を投げ、同時に聖句を唱えた。憎しみより恐怖が先にある。その恐怖を教会が正しさへ変えていることを、彼は自分の傷で知った。
禁忌大陸について確かな記録は一冊も渡されなかった。魔族は残虐で、土地は死に、帰還者はいない。その三行だけが、何百年も疑われず繰り返されている。
海が近づくにつれ、護送の人数は減った。最後の関所では鍵だけが外され、あとは一人で進めと言われる。自由になったのではない。誰も戻ると思っていないのだ。
夕暮れの先に黒い水平線が伸びていた。アレンは王国を振り返らず、まだ見たことのない土地へ歩いた。答えがないなら、せめて自分の目で確かめるしかない。
小さな決定だった。それでも、遠くの権威ではなく目の前の暮らしから決めたという事実は残る。誰かの恐怖を利用しない選択が、この大陸では新しい道になっていった。
その場で答えを出せなかった問いも、消したことにはしなかった。保留と記して次の会議へ渡す。分からないものを分からないまま残せることも、互いを欺かずに暮らすための力だった。
(本文実測:680字)




