始まりは突然に
外へ出た瞬間、レンは息の仕方を忘れた。
風があった。
ただそれだけのことなのに、夢見院の中で知っていた風とは、まるで違っていた。
中庭を回る風は、壁に囲まれていた。
高い窓から入る風は、細く、弱く、どこか遠慮がちだった。
雨の前に石の匂いを運んでくる風でさえ、夢見院の中に入るころには、すっかり丸くなっていた。
でも今、頬を打つこれは違う。
まっすぐだった。
どこか知らない場所から来て、どこか知らない場所へ向かう途中で、たまたまレンの横を通り過ぎていく。
そんな風だった。
レンは夢見院の裏口を出たところで、思わず立ち止まった。
目の前には、夢見院の裏庭が広がっていた。
割れた植木鉢。
乾いた薬草の束。
雨ざらしの木箱。
半分だけ開いた古い物置の戸。
見たことのあるものばかりのはずだった。
けれど、さっきまで部屋の中にいた時とは、何もかもが違って見えた。
空が、広い。
中庭から見上げる空は、四角かった。
壁に切り取られた、手の届かない布みたいなものだった。
けれど今、頭の上にある空には端がなかった。
赤みを帯びた朝の光が、王都の屋根をなめ、古い石壁を照らし、遠くの塔の影をぼんやり浮かび上がらせている。
レンは一歩、後ろへ下がりそうになった。
その腕を、セラが強く引いた。
「止まらないで」
「待って」
「待てない」
「ここ、外だよ」
「知ってる」
「ぼく、外に出たことないんだけど」
「今、出たでしょ」
「そういうことじゃなくて」
レンはうまく言えなかった。
怖い、という言葉では少し足りなかった。
外に出てみたいと思ったことがないわけではない。
夢札に描いた場所を、見てみたいと思ったことはある。
赤い川の先を。
骨の橋を。
星のない空の下で光る砂を。
けれど、それは夢の中の外だった。
本物の外には、匂いがあった。
石の湿った匂い。
遠くから流れてくる煙の匂い。
鉄のような、血のような、カーディアの朝の匂い。
そして、音が多すぎた。
塀の向こうから、人の声がする。
荷車の車輪が石畳を削る音がする。
犬が吠えている。
誰かが笑っている。
どこかで扉が乱暴に閉まった。
世界は、夢見院の中よりずっと乱雑だった。
誰も砂時計を返さない。
誰も鈴を鳴らして始まりを知らせない。
音も匂いも風も、勝手に生まれて、勝手にレンの方へ押し寄せてくる。
レンは胸の奥がぎゅっと狭くなるのを感じた。
「レン」
セラが振り返る。
「何してるの。行くよ」
「どこへ」
「ここじゃないところ」
「それ、答えになってない」
「今はそれで十分」
「十分じゃないよ」
セラは答えず、裏庭の低い塀へ向かった。
夢見院の裏庭は、王都の細い路地に面している。
塀の向こうには、レンの知らないカーディアがある。
セラは積まれた木箱に足をかけた。
「登る」
「え」
「ここから出る」
「門は?」
「門から出たら捕まる」
「じゃあ、出なければ――」
「捕まる」
短く言って、セラは塀の上に手をかけた。
ほこりだらけの外套が、朝の赤い光を受けて揺れる。
レンはその背中を見た。
無茶だと思った。
どうしてこの子は、そんなにすぐ決められるのだろう。
天井の上を進む。
落ちる。
隠れる。
嘘をつかせる。
逃げる。
今度は塀を越える。
何一つ、レンには普通に見えなかった。
けれど、セラの手も少し震えていた。
さっき留め金を外した時、レンは見ていた。
強引で、乱暴で、すぐ「たぶん」と言うくせに、怖くないわけではない。
怖いのに、止まらない。
そこがレンには、分からなかった。
夢見院の方から声が聞こえた。
「裏庭だ!」
「物置を見ろ!」
「足跡がある!」
レンの背中が冷たくなる。
セラは塀の上から手を伸ばした。
「早く」
「ぼく、塀なんて登ったことない」
「じゃあ今やる」
「そういうふうに決めないで」
「決めないと捕まる」
セラの手が、レンの腕をつかんだ。
レンは木箱に足を乗せた。
箱がぎしりと鳴る。
それだけで、心臓が跳ねた。
「壊れない?」
「たぶん」
「その言葉、全然安心できない」
「いいから登って」
レンは息を詰めて、塀に手をかけた。
石は冷たかった。
ところどころ苔がついていて、指が滑る。
腹をぶつけ、膝をこすり、何とか体を持ち上げた。
セラが上から引っ張る。
「重い」
「言わなくていいよ」
「でも登れてる」
「褒めてるのか怒ってるのか分からない」
「どっちでもいいから来て」
ようやく塀の上に上がった時、レンは初めて王都を見た。
心臓王都カーディア。
その名を知らない日はなかった。
けれど、知っている名前と、目の前に広がるものは違った。
赤い屋根が重なり合っている。
白い壁の建物が、細い路地を挟んで寄りかかるように立っている。
石畳には、血管のような赤い筋が走っていた。
遠くには、閉じた目と鐘の紋章を掲げた塔が見える。
その奥、朝の霞の向こうに、黒い鎖のようなものが何本も伸びていた。
何を縛っているのかは分からない。
けれど、ただの飾りではない。
あまりに大きすぎる。
レンは息をのんだ。
夢で見た街に似ていた。
でも夢より、ずっと重い。
夢の中の街は、目を覚ませば消える。
描き終えれば夢札の中へ収まる。
けれど目の前の街は、レンが見ても見なくてもそこにある。
人が歩き、声がして、匂いがして、どこかで湯気が上がっている。
世界は、夢札よりずっと大きかった。
「降りて」
セラが言った。
彼女はもう塀の向こう側へ足を下ろしている。
レンは下を見た。
高い。
「無理」
「できる」
「できない」
「足から降りれば大丈夫」
「足以外から降りることあるの?」
「ある」
「あるんだ……」
追手の声がすぐ後ろまで来た。
「塀の上だ!」
「逃がすな!」
レンは目をつぶった。
そして、飛び降りた。
石畳は硬かった。
足の裏から痛みが突き上げ、膝ががくんと折れる。
「いたっ」
「立って」
「今、足が痛い」
「あとで痛がって」
「痛いものは今痛いよ」
セラはレンの腕を引き、路地へ走り出した。
レンは引っ張られるまま、知らない道へ踏み込んだ。
路地は思ったより狭かった。
外は広いものだと思っていた。
けれどカーディアの路地は、建物と建物の間に押し込まれたように曲がりくねっている。
上には赤い布が渡され、そこから朝の光が透けていた。
壁の下の方は湿っていて、指で触れたら赤く染まりそうだった。
石畳の隙間から、白い湯気が細く上がっている。
レンは息を切らしながら走った。
人がいる。
それが、まず怖かった。
夢見院にも人はいた。
子供たち。
先生。
院長。
徴夢官。
けれど、そこにいる人たちは、いつも役割を持っていた。
誰が何時にどこにいるのか、だいたい決まっていた。
ここにいる人たちは違う。
水桶を抱えた女の人がいる。
眠そうな顔でパンをかじる男の子がいる。
細い犬を連れた老人がいる。
窓から誰かが布を振っている。
みんな、レンを知らない。
レンも、誰も知らない。
それなのに、その間を走っている。
それがひどく心細かった。
「右!」
セラが叫んだ。
「どっちの右?」
「右は右!」
「走ってると分からなくなる!」
「じゃあ、こっち!」
セラが腕を引く。
レンは転びそうになりながら曲がった。
その先に、市場が開けていた。
朝市だった。
赤い布屋根の下に、野菜が並んでいる。
丸いパンが籠に積まれている。
水桶の中では、小さな魚が跳ねていた。
その魚は、ほんのり赤く光っている。
レンは思わず足を緩めた。
「魚が光ってる」
「見なくていい」
「でも光ってる」
「あとで光る魚くらい見られる!」
「あとでって、さっきから多くない?」
「今は前!」
セラは人混みに飛び込んだ。
レンも続いた。
肩がぶつかる。
荷物に足を引っかけそうになる。
香辛料の匂いが鼻を刺したと思えば、次の瞬間には焼きたてのパンの匂いがする。
「こら、走るな!」
「危ないよ!」
「どこの子だい!」
怒鳴り声が飛ぶ。
レンは何度も頭を下げた。
「すみません、すみません」
「謝りながら走らないで」
「怒られたくないんだよ」
「もう怒られてる」
「だから謝ってるんだよ」
セラは少しだけ笑った。
それが余計に腹立たしい。
けれど、レンはその笑いにほんの少しだけ救われてもいた。
この状況で笑えるのが、信じられない。
でも、笑う人が隣にいると、怖さの形が少し変わる。
その時、市場の入口で金属の音が鳴った。
かしゃん。
兵士だった。
胸当てには、閉じた目と鐘の紋章。
肩には赤い布。
腰には剣。
兵士の視線が市場をなぞり、セラで止まった。
一瞬だった。
けれど、その一瞬で空気が変わった。
兵士の顔から、ただの警戒が消えた。
代わりに浮かんだのは、驚きだった。
見つけた、という顔ではなかった。
見てはいけないものを見た、という顔だった。
「まさか……」
セラはすぐにフードを深くかぶった。
「行くよ」
「え、今の人」
「知らない」
「でも」
「知らない!」
兵士が一歩近づく。
「待て!」
声は市場のざわめきの中でもよく通った。
レンの肩が跳ねる。
セラがレンの手を握り直した。
「待たない」
「だと思った」
二人は市場の奥へ走った。
背後で兵士の声が上がる。
「そっちへ回れ!」
「逃がすな!」
市場がざわつく。
振り返る顔が増える。
レンは息がうまく吸えなかった。
自分は何をしているのだろう。
夢見院を出た。
塀を越えた。
市場を走った。
兵士に追われている。
ひとつひとつは、ありえないことだった。
それが朝の短い時間に積み重なって、もう昨日までの暮らしを壊してしまっている。
戻れるのだろうか。
戻ったとして、同じ顔で夢札を描けるのだろうか。
答えは出なかった。
ただ、胸の奥に黒い丸が沈んでいるような気がした。
夢札に描いた、あの黒い丸。
意味の分からない印。
穴のようなもの。
入口のようなもの。
消された何かの跡のようなもの。
今、自分はそこに落ちていく途中なのかもしれない。
「下!」
セラが細い階段に飛び込んだ。
「どこの下?」
「王都の下!」
「行っていい場所なの?」
「たぶん!」
「またそれ!」
階段は暗く、湿っていた。
石段の真ん中に赤い水が細く流れている。
レンは足を滑らせ、手すりにしがみついた。
手すりは冷たく、少しぬめっていた。
「うわっ」
「早く」
「今、手すりが」
「あとで洗えばいい!」
「洗える場所があるかも分からないよ」
「じゃあ、あとで探す!」
階段を下りきると、そこは水路の横だった。
水、と呼ぶには少し赤い。
血、と呼ぶには少し薄い。
それが石の溝の中を、ゆっくり流れている。
壁には、根のような管が走っていた。
管の奥で、何かが脈打っている。
とくん。
とくん。
レンは立ち尽くした。
王都の下に、こんな場所があるなんて知らなかった。
いや、知らないことだらけだった。
夢見院の外に出た瞬間、自分が知っていた世界は、薄い紙みたいに破れてしまった。
「ここ、どこ」
「たぶん排水路」
「たぶんで排水路に入らないで」
「追われてる時は、きれいな道より汚い道の方が安全なの」
「誰が言ったの」
「本で読んだ」
「本で読んだことを、今やってるの?」
「役に立ってるでしょ」
背後で足音が響いた。
「こっちへ来たぞ!」
「水路を塞げ!」
セラがレンを見た。
「ほら」
「ほらじゃないよ。早く行こう」
二人は水路沿いを走った。
狭い道だった。
壁から伸びた管を避け、濡れた石を踏み、赤い水の匂いを吸い込みながら進む。
セラは前を走っている。
強引で、無茶で、説明不足で、信用ならない。
なのに、不思議とレンの足はその背中を追っていた。
それは、まだ信頼ではなかった。
そんなきれいなものではない。
追わなければ、一人になる。
一人でこの王都に放り出される。
それが怖かった。
それから、もう一つ。
セラの持つ古い夢札が気になっていた。
あの絵は、レンの夢と同じだった。
なぜ同じなのか。
誰が描いたのか。
どうしてセラが持っているのか。
聞きたい。
でも、聞くのが怖い。
知りたい。
でも、知ったら戻れなくなる気がする。
その矛盾が、レンの足を前へ進ませていた。
「レン」
セラが急に言った。
「何」
「あんた、本当に外に出たことないの?」
「ないよ」
「一度も?」
「中庭ならある」
「それは外じゃない」
「空は見える」
「空が見えるだけじゃ、外じゃないよ」
レンは言い返そうとして、やめた。
たぶん、その通りだった。
中庭の空は、誰かが許した分だけの空だった。
今朝初めて見た空は、誰の許しも受けていないように見えた。
「君は?」
レンは聞いた。
「君は、外に出たことあるの?」
セラの足が、一瞬だけ遅くなった。
「……窓からなら」
「窓?」
「高いところの窓」
それだけ言って、セラは前を向いた。
「でも今日は違う。今日は、自分の足で出た」
レンはその横顔を見た。
そこには、さっきまでの勝ち気な笑みがなかった。
少しだけ、痛そうだった。
セラは外を知っている子ではないのかもしれない。
外を知っているふりをしているだけなのかもしれない。
レンと同じように、外へ出たばかりなのかもしれない。
ただ、怖がり方が違うだけで。
水路の先が二つに分かれていた。
左は暗い。
右は赤い光が強い。
セラは丸めた紙を広げた。
夢見院でちらりと見た、変な印の多い地図だった。
太い線。
丸。
ばつ印。
何かを急いで書き写したような跡。
普通の地図には見えなかった。
レンはのぞき込む。
「読めるの?」
「読める」
「本当に?」
「たぶん」
「それは読めてない時の返事だよ」
セラは地図と道を見比べ、自信ありげに右を指した。
「こっち」
その時、右の奥から声がした。
「いたぞ!」
セラはすぐに左を指した。
「やっぱりこっち」
「今の地図、何だったの?」
「確認」
「聞こえただけでしょ」
「確認できた」
レンはもう言い返す気力がなかった。
二人は左の暗い道へ飛び込んだ。
赤い光が遠のく。
壁の鼓動だけが近くなる。
とくん。
とくん。
やがて、低い鉄の扉が見えた。
錆びている。
でも、すきまから白い光が漏れていた。
「出口?」
レンが聞く。
「たぶん」
「もう驚かなくなってきた」
セラは扉を押した。
開かない。
引いた。
開かない。
蹴ろうとしたので、レンが慌てて止めた。
「待って」
「何」
「そこ。留め具」
扉の横に、錆びた金具があった。
夢見院の裏口で外したものに、少し似ている。
レンは手を伸ばした。
指先に錆がつく。
爪が痛い。
金具は固く噛んでいる。
でも、さっき一度やった。
同じように、少しずつ動かす。
ぎ。
ぎぎ。
かちん。
留め具が外れた。
扉が小さく開く。
セラが目を丸くした。
「レン、できるじゃん」
「たまたまだよ」
「たまたまでも、できた」
そう言われて、レンは返事に困った。
怒られないようにすることには慣れている。
でも、何かをして、誰かにまっすぐ見られることには慣れていない。
「早く出よう」
レンはごまかすように言った。
セラは扉を押し開けた。
白い光が差し込む。
二人は外へ出た。
そこは、王都の外れにある古い鐘溜まりだった。
使われなくなった鐘が、いくつも置かれている。
大きな鐘。
小さな鐘。
ひび割れた鐘。
舌を失った鐘。
表面には、閉じた目の紋章が刻まれていた。
赤い草が、鐘の根元を覆っている。
風が吹いた。
ひび割れた鐘の内側で、低い音がした。
ゴ……。
ゴオ……。
レンは足を止めた。
夢の中の鐘に似ていた。
完全に同じではない。
もっと弱く、もっと壊れている。
けれど、どこかが似ていた。
セラも同じように立ち止まっていた。
胸元から古い夢札を出す。
その札には、鐘の丘が描かれている。
小さな鐘。
閉じたまぶた。
黒い丸。
「似てる」
セラが言った。
「……うん」
「ここじゃない。でも、似てる」
レンは夢札から目を離せなかった。
言うべきだった。
ぼくも、その夢を見ている。
毎朝描いている。
同じ黒い丸を描いている。
言えば、何かが進む。
でも同時に、もう戻れなくなる。
レンの喉は、開かなかった。
「レン?」
セラがのぞき込む。
「顔、変」
「変じゃない」
「変だよ」
「君に言われたくない」
「私は今、ほこりで変なだけ」
「自覚あるんだ」
セラは少し笑った。
その笑いは、ほんの短いものだった。
次の瞬間、鐘溜まりの入口で声がした。
「いたぞ!」
兵士たちだった。
市場で見た兵士もいる。
兵士はセラを見た瞬間、わずかに目を見開いた。
けれど、すぐに表情を戻した。
「そっちへ回れ!」
「逃がすな!」
別の兵士が、鐘の間を抜けて近づいてくる。
セラは夢札を胸元に押し込んだ。
「走るよ」
「また?」
「今度は本当に急いで」
「今までは?」
「今までも急いでた!」
セラはレンの腕をつかみ、鐘溜まりの奥へ走り出した。
赤い草を踏み、割れた鐘の間を抜ける。
鐘溜まりの奥には、半分崩れた石段があった。
石段は、王都の外壁に沿うように上へ伸びている。
昔は見張りの兵が使っていたのかもしれない。
けれど今は、手すりも欠け、石の隙間から赤い草が伸びていた。
「こっち」
セラが石段を駆け上がる。
「そこ、上に行くだけじゃないの?」
「上に行けば、道が見えるかもしれない」
「かもしれないで登るの?」
「下にいたら捕まる!」
追手の声が、鐘溜まりの下から近づいてくる。
「上だ!」
「石段を回れ!」
「二人とも、逃がすな!」
兵士たちが石段へ駆け込んでくる音がした。
けれど、崩れた石段は狭かった。
一人ずつしか上れない。
途中には、割れた鐘の残骸と赤い草が絡みついている。
先頭の兵士が足を取られ、短く舌打ちした。
「急げ!」
「詰まっている!」
レンは息を切らしながら、セラの後を追った。
石段は途中で大きく崩れていた。
最後の数段は、壁の外側へ張り出した小さな見張り台につながっている。
そこに出た瞬間、風が変わった。
王都の中を回っていた風ではない。
外からまっすぐ吹きつけてくる風だった。
レンは思わず足を止めた。
眼下に、赤い川が見えた。
王都の外壁のすぐ下を、太い赤い流れが横切っている。
水ではない。
けれど、ただの血でもない。
朝の光を受けて、重たく光りながら、ゆっくりと霧の方へ流れていた。
川の向こうは、すぐに白い霧に沈んでいる。
その先に何があるのか、レンには分からなかった。
海なのか。
谷なのか。
ただの低い土地なのか。
何も見えない。
ただ、その赤い川だけは見えた。
セラは胸元から古い夢札を出した。
夢札に描かれた眠る龍。
その胸から伸びる、赤い線。
セラは夢札と眼下の川を見比べた。
「……この線」
レンも見た。
夢札の赤い線と、外壁の下を流れる赤い川。
同じだ、とすぐには言えなかった。
夢札は子供の絵だ。
線は曲がっていて、太さもばらばらで、場所も正確ではない。
でも、龍の胸の街から赤い流れが出ている。
そして今、心臓王都カーディアの外には、赤い川がある。
それだけは、確かだった。
「この川を下れば、次の場所に行けるかもしれない」
セラが言った。
「次の場所って?」
「分からない。でも、この札には、赤い線の先に黒い場所がある」
「黒い場所?」
「海かもしれない。穴かもしれない。何かの影かもしれない」
「分からないのに行くの?」
「分からないから行く」
レンは言葉を失った。
下から、追手の声がさらに近づく。
「見張り台だ!」
「そこから先へ行かせるな!」
セラは夢札をしまい、見張り台の端を指さした。
「こっち」
「道なの?」
「たぶん」
「また?」
「でも兵士よりは細い道に強い!」
「それは初めて聞く自信だよ!」
見張り台の端には、外壁に沿って下へ続く細い降り道があった。
石は欠け、片側は赤い草の斜面になっている。
その下に、赤い川が流れていた。
大人が鎧をつけたまま走るには、危なすぎる道だった。
けれど、子供が身を低くして駆け下りるには、ぎりぎり通れそうだった。
セラがレンの腕をつかんだ。
「赤い川まで下りる」
「どうやってって聞く前に、もう答えが怖い」
「今見つけた道で」
「それ、道って言っていいの?」
「落ちなければ道!」
「落ちたら?」
「落ちない!」
背後で兵士が見張り台へ上がってくる音がした。
「いたぞ!」
セラは先に足を踏み出した。
レンも続く。
背後で兵士が叫んだ。
「そっちは危ない!」
レンは思わず振り返りそうになった。
「危ないって言ってる!」
「知ってる!」
「じゃあ止まろうよ!」
「止まったら捕まる!」
石が足元で崩れた。
レンは壁に手をつき、なんとか踏みとどまる。
背後では兵士たちが見張り台まで上がってきていた。
けれど、彼らはすぐには降りてこない。
細い降り道を見て、動きが止まる。
「回り込め!」
「川沿いに先回りしろ!」
兵士の声が遠ざかっていく。
完全に逃げきったわけではない。
ただ、少しだけ時間ができた。
セラは振り返らずに言った。
「ほら、今のうち」
「今ので寿命が減った」
「寿命って何歳から数えるの?」
「今そういう話しないで」
二人は、外壁沿いの細い降り道を駆け下りた。
背後では、王都の鐘が鳴り始めた。
ゴオーン。
ゴオーン。
朝の鐘ではない。
もっと低く、もっと重い。
王都全体に命令を出すような鐘だった。
セラの顔が強張る。
「まずい」
「今度は何?」
「本気で探す鐘」
「今までは本気じゃなかったの?」
「今からもっと本気」
「最悪だ」
追手の声は、石壁の向こうへ回り込んでいく。
眼下では、赤い川がゆっくり流れている。
夢札に描かれた線が、本当にこの世界に引かれているみたいに。
レンは王都の中心を見た。
閉じた目と鐘の紋章を掲げた塔が、赤い光の中に立っている。
その塔のずっと奥。
見えるはずのない場所で、何か大きなものが眠っている気がした。
どくん。
地面が鳴る。
レンの胸が鳴る。
セラの夢札が、外套の中でかすかに揺れる。
レンは、自分の夢札がもう手元にないことを思い出した。
けれど不思議と、夢は失われていなかった。
夢札は王都へ送られた。
でも、夢はまだレンの中にある。
閉じたまぶた。
鐘の丘。
赤い川。
赤黒い何か。
骨のような橋。
光る砂。
黒い丸。
レンはまだ、それを誰にも言えない。
でも、歩き出すことはできた。
セラが手を差し出す。
「レン」
レンはその手を見た。
夢見院の天井から落ちてきた、ほこりまみれの手。
王都から逃げてきた手。
古い夢札を握っていた手。
強引で、無茶で、たぶんばかり言う手。
まだ、信用しているわけではない。
でも、ひとりで戻るよりは、その手を取る方が怖くなかった。
レンは握った。
「行こう」
セラが目を丸くした。
「今、レンが言った?」
「言ったよ」
「もう一回言って」
「言わない」
「今のよかったのに」
「走るんでしょ」
「うん」
二人は細い降り道を駆け下りた。
心臓王都カーディアの外壁から、赤い川へ向かって。
背後では、王都の鐘が鳴り続けている。
ゴオーン。
ゴオーン。
追手の声は遠ざかった。
けれど、消えたわけではない。
兵士たちは外壁の向こうを回り込み、赤い川沿いへ向かっている。
レンにも、それは分かった。
少しだけ時間ができただけだ。
逃げきったわけではない。
それでも、今は進むしかなかった。
その音は、まるで死んだ龍の胸の中で、誰かがまだ夢を見ている音のようだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
第2話では、レンとセラが夢見院を抜け出し、心臓王都カーディアの外へ踏み出しました。
レンにとって外の世界は、まだ憧れの冒険ではなく、知らない音と匂いに満ちた怖い場所です。
一方のセラも、強引に見えて、実は怖くないわけではありません。
二人はまだ仲間というより、成り行きで一緒に逃げているだけ。
けれど、古い夢札に描かれた景色は、少しずつ現実の世界と重なり始めています。
赤い川。
血海。
白い骨の山。
そして、何度も現れる黒い丸。
この先、二人はどこへ向かうのか。
セラが持っている古い夢札は、誰が描いたものなのか。
黒い丸は、何を意味しているのか。
少しでも「続きが気になる」「レンとセラを見守りたい」と思っていただけたら、感想や評価で応援してもらえると、とても励みになります。
次回は、夢札に描かれた「赤い川」へ向かいます。
レンとセラの逃避行を、ぜひ引き続き見届けてください。




