表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
心臓王都カーディアからの脱出

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/20

始まりは突然に

 外へ出た瞬間、レンは息の仕方を忘れた。


 風があった。


 ただそれだけのことなのに、夢見院の中で知っていた風とは、まるで違っていた。


 中庭を回る風は、壁に囲まれていた。

 高い窓から入る風は、細く、弱く、どこか遠慮がちだった。

 雨の前に石の匂いを運んでくる風でさえ、夢見院の中に入るころには、すっかり丸くなっていた。


 でも今、頬を打つこれは違う。


 まっすぐだった。


 どこか知らない場所から来て、どこか知らない場所へ向かう途中で、たまたまレンの横を通り過ぎていく。


 そんな風だった。


 レンは夢見院の裏口を出たところで、思わず立ち止まった。


 目の前には、夢見院の裏庭が広がっていた。


 割れた植木鉢。

 乾いた薬草の束。

 雨ざらしの木箱。

 半分だけ開いた古い物置の戸。


 見たことのあるものばかりのはずだった。


 けれど、さっきまで部屋の中にいた時とは、何もかもが違って見えた。


 空が、広い。


 中庭から見上げる空は、四角かった。


 壁に切り取られた、手の届かない布みたいなものだった。


 けれど今、頭の上にある空には端がなかった。


 赤みを帯びた朝の光が、王都の屋根をなめ、古い石壁を照らし、遠くの塔の影をぼんやり浮かび上がらせている。


 レンは一歩、後ろへ下がりそうになった。


 その腕を、セラが強く引いた。


「止まらないで」


「待って」


「待てない」


「ここ、外だよ」


「知ってる」


「ぼく、外に出たことないんだけど」


「今、出たでしょ」


「そういうことじゃなくて」


 レンはうまく言えなかった。


 怖い、という言葉では少し足りなかった。


 外に出てみたいと思ったことがないわけではない。


 夢札に描いた場所を、見てみたいと思ったことはある。

 赤い川の先を。

 骨の橋を。

 星のない空の下で光る砂を。


 けれど、それは夢の中の外だった。


 本物の外には、匂いがあった。


 石の湿った匂い。

 遠くから流れてくる煙の匂い。

 鉄のような、血のような、カーディアの朝の匂い。


 そして、音が多すぎた。


 塀の向こうから、人の声がする。

 荷車の車輪が石畳を削る音がする。

 犬が吠えている。

 誰かが笑っている。

 どこかで扉が乱暴に閉まった。


 世界は、夢見院の中よりずっと乱雑だった。


 誰も砂時計を返さない。

 誰も鈴を鳴らして始まりを知らせない。

 音も匂いも風も、勝手に生まれて、勝手にレンの方へ押し寄せてくる。


 レンは胸の奥がぎゅっと狭くなるのを感じた。


「レン」


 セラが振り返る。


「何してるの。行くよ」


「どこへ」


「ここじゃないところ」


「それ、答えになってない」


「今はそれで十分」


「十分じゃないよ」


 セラは答えず、裏庭の低い塀へ向かった。


 夢見院の裏庭は、王都の細い路地に面している。

 塀の向こうには、レンの知らないカーディアがある。


 セラは積まれた木箱に足をかけた。


「登る」


「え」


「ここから出る」


「門は?」


「門から出たら捕まる」


「じゃあ、出なければ――」


「捕まる」


 短く言って、セラは塀の上に手をかけた。


 ほこりだらけの外套が、朝の赤い光を受けて揺れる。


 レンはその背中を見た。


 無茶だと思った。


 どうしてこの子は、そんなにすぐ決められるのだろう。


 天井の上を進む。

 落ちる。

 隠れる。

 嘘をつかせる。

 逃げる。

 今度は塀を越える。


 何一つ、レンには普通に見えなかった。


 けれど、セラの手も少し震えていた。


 さっき留め金を外した時、レンは見ていた。


 強引で、乱暴で、すぐ「たぶん」と言うくせに、怖くないわけではない。


 怖いのに、止まらない。


 そこがレンには、分からなかった。


 夢見院の方から声が聞こえた。


「裏庭だ!」


「物置を見ろ!」


「足跡がある!」


 レンの背中が冷たくなる。


 セラは塀の上から手を伸ばした。


「早く」


「ぼく、塀なんて登ったことない」


「じゃあ今やる」


「そういうふうに決めないで」


「決めないと捕まる」


 セラの手が、レンの腕をつかんだ。


 レンは木箱に足を乗せた。


 箱がぎしりと鳴る。


 それだけで、心臓が跳ねた。


「壊れない?」


「たぶん」


「その言葉、全然安心できない」


「いいから登って」


 レンは息を詰めて、塀に手をかけた。


 石は冷たかった。

 ところどころ苔がついていて、指が滑る。

 腹をぶつけ、膝をこすり、何とか体を持ち上げた。


 セラが上から引っ張る。


「重い」


「言わなくていいよ」


「でも登れてる」


「褒めてるのか怒ってるのか分からない」


「どっちでもいいから来て」


 ようやく塀の上に上がった時、レンは初めて王都を見た。


 心臓王都(しんぞうおうと)カーディア。


 その名を知らない日はなかった。


 けれど、知っている名前と、目の前に広がるものは違った。


 赤い屋根が重なり合っている。


 白い壁の建物が、細い路地を挟んで寄りかかるように立っている。


 石畳には、血管のような赤い筋が走っていた。


 遠くには、閉じた目と鐘の紋章を掲げた塔が見える。


 その奥、朝の霞の向こうに、黒い鎖のようなものが何本も伸びていた。


 何を縛っているのかは分からない。


 けれど、ただの飾りではない。


 あまりに大きすぎる。


 レンは息をのんだ。


 夢で見た街に似ていた。


 でも夢より、ずっと重い。


 夢の中の街は、目を覚ませば消える。

 描き終えれば夢札の中へ収まる。


 けれど目の前の街は、レンが見ても見なくてもそこにある。

 人が歩き、声がして、匂いがして、どこかで湯気が上がっている。


 世界は、夢札よりずっと大きかった。


「降りて」


 セラが言った。


 彼女はもう塀の向こう側へ足を下ろしている。


 レンは下を見た。


 高い。


「無理」


「できる」


「できない」


「足から降りれば大丈夫」


「足以外から降りることあるの?」


「ある」


「あるんだ……」


 追手の声がすぐ後ろまで来た。


「塀の上だ!」


「逃がすな!」


 レンは目をつぶった。


 そして、飛び降りた。


 石畳は硬かった。


 足の裏から痛みが突き上げ、膝ががくんと折れる。


「いたっ」


「立って」


「今、足が痛い」


「あとで痛がって」


「痛いものは今痛いよ」


 セラはレンの腕を引き、路地へ走り出した。


 レンは引っ張られるまま、知らない道へ踏み込んだ。


 路地は思ったより狭かった。


 外は広いものだと思っていた。


 けれどカーディアの路地は、建物と建物の間に押し込まれたように曲がりくねっている。


 上には赤い布が渡され、そこから朝の光が透けていた。

 壁の下の方は湿っていて、指で触れたら赤く染まりそうだった。

 石畳の隙間から、白い湯気が細く上がっている。


 レンは息を切らしながら走った。


 人がいる。


 それが、まず怖かった。


 夢見院にも人はいた。


 子供たち。

 先生。

 院長。

 徴夢官。


 けれど、そこにいる人たちは、いつも役割を持っていた。

 誰が何時にどこにいるのか、だいたい決まっていた。


 ここにいる人たちは違う。


 水桶を抱えた女の人がいる。

 眠そうな顔でパンをかじる男の子がいる。

 細い犬を連れた老人がいる。

 窓から誰かが布を振っている。


 みんな、レンを知らない。


 レンも、誰も知らない。


 それなのに、その間を走っている。


 それがひどく心細かった。


「右!」


 セラが叫んだ。


「どっちの右?」


「右は右!」


「走ってると分からなくなる!」


「じゃあ、こっち!」


 セラが腕を引く。


 レンは転びそうになりながら曲がった。


 その先に、市場が開けていた。


 朝市だった。


 赤い布屋根の下に、野菜が並んでいる。

 丸いパンが籠に積まれている。

 水桶の中では、小さな魚が跳ねていた。


 その魚は、ほんのり赤く光っている。


 レンは思わず足を緩めた。


「魚が光ってる」


「見なくていい」


「でも光ってる」


「あとで光る魚くらい見られる!」


「あとでって、さっきから多くない?」


「今は前!」


 セラは人混みに飛び込んだ。


 レンも続いた。


 肩がぶつかる。

 荷物に足を引っかけそうになる。

 香辛料の匂いが鼻を刺したと思えば、次の瞬間には焼きたてのパンの匂いがする。


「こら、走るな!」


「危ないよ!」


「どこの子だい!」


 怒鳴り声が飛ぶ。


 レンは何度も頭を下げた。


「すみません、すみません」


「謝りながら走らないで」


「怒られたくないんだよ」


「もう怒られてる」


「だから謝ってるんだよ」


 セラは少しだけ笑った。


 それが余計に腹立たしい。


 けれど、レンはその笑いにほんの少しだけ救われてもいた。


 この状況で笑えるのが、信じられない。


 でも、笑う人が隣にいると、怖さの形が少し変わる。


 その時、市場の入口で金属の音が鳴った。


 かしゃん。


 兵士だった。


 胸当てには、閉じた目と鐘の紋章。

 肩には赤い布。

 腰には剣。


 兵士の視線が市場をなぞり、セラで止まった。


 一瞬だった。


 けれど、その一瞬で空気が変わった。


 兵士の顔から、ただの警戒が消えた。


 代わりに浮かんだのは、驚きだった。


 見つけた、という顔ではなかった。


 見てはいけないものを見た、という顔だった。


「まさか……」


 セラはすぐにフードを深くかぶった。


「行くよ」


「え、今の人」


「知らない」


「でも」


「知らない!」


 兵士が一歩近づく。


「待て!」


 声は市場のざわめきの中でもよく通った。


 レンの肩が跳ねる。


 セラがレンの手を握り直した。


「待たない」


「だと思った」


 二人は市場の奥へ走った。


 背後で兵士の声が上がる。


「そっちへ回れ!」


「逃がすな!」


 市場がざわつく。


 振り返る顔が増える。


 レンは息がうまく吸えなかった。


 自分は何をしているのだろう。


 夢見院を出た。

 塀を越えた。

 市場を走った。

 兵士に追われている。


 ひとつひとつは、ありえないことだった。


 それが朝の短い時間に積み重なって、もう昨日までの暮らしを壊してしまっている。


 戻れるのだろうか。


 戻ったとして、同じ顔で夢札を描けるのだろうか。


 答えは出なかった。


 ただ、胸の奥に黒い丸が沈んでいるような気がした。


 夢札に描いた、あの黒い丸。


 意味の分からない印。

 穴のようなもの。

 入口のようなもの。

 消された何かの跡のようなもの。


 今、自分はそこに落ちていく途中なのかもしれない。


「下!」


 セラが細い階段に飛び込んだ。


「どこの下?」


「王都の下!」


「行っていい場所なの?」


「たぶん!」


「またそれ!」


 階段は暗く、湿っていた。


 石段の真ん中に赤い水が細く流れている。


 レンは足を滑らせ、手すりにしがみついた。


 手すりは冷たく、少しぬめっていた。


「うわっ」


「早く」


「今、手すりが」


「あとで洗えばいい!」


「洗える場所があるかも分からないよ」


「じゃあ、あとで探す!」


 階段を下りきると、そこは水路の横だった。


 水、と呼ぶには少し赤い。

 血、と呼ぶには少し薄い。


 それが石の溝の中を、ゆっくり流れている。


 壁には、根のような管が走っていた。


 管の奥で、何かが脈打っている。


 とくん。


 とくん。


 レンは立ち尽くした。


 王都の下に、こんな場所があるなんて知らなかった。


 いや、知らないことだらけだった。


 夢見院の外に出た瞬間、自分が知っていた世界は、薄い紙みたいに破れてしまった。


「ここ、どこ」


「たぶん排水路」


「たぶんで排水路に入らないで」


「追われてる時は、きれいな道より汚い道の方が安全なの」


「誰が言ったの」


「本で読んだ」


「本で読んだことを、今やってるの?」


「役に立ってるでしょ」


 背後で足音が響いた。


「こっちへ来たぞ!」


「水路を塞げ!」


 セラがレンを見た。


「ほら」


「ほらじゃないよ。早く行こう」


 二人は水路沿いを走った。


 狭い道だった。


 壁から伸びた管を避け、濡れた石を踏み、赤い水の匂いを吸い込みながら進む。


 セラは前を走っている。


 強引で、無茶で、説明不足で、信用ならない。


 なのに、不思議とレンの足はその背中を追っていた。


 それは、まだ信頼ではなかった。


 そんなきれいなものではない。


 追わなければ、一人になる。


 一人でこの王都に放り出される。


 それが怖かった。


 それから、もう一つ。


 セラの持つ古い夢札が気になっていた。


 あの絵は、レンの夢と同じだった。


 なぜ同じなのか。


 誰が描いたのか。


 どうしてセラが持っているのか。


 聞きたい。


 でも、聞くのが怖い。


 知りたい。


 でも、知ったら戻れなくなる気がする。


 その矛盾が、レンの足を前へ進ませていた。


「レン」


 セラが急に言った。


「何」


「あんた、本当に外に出たことないの?」


「ないよ」


「一度も?」


「中庭ならある」


「それは外じゃない」


「空は見える」


「空が見えるだけじゃ、外じゃないよ」


 レンは言い返そうとして、やめた。


 たぶん、その通りだった。


 中庭の空は、誰かが許した分だけの空だった。


 今朝初めて見た空は、誰の許しも受けていないように見えた。


「君は?」


 レンは聞いた。


「君は、外に出たことあるの?」


 セラの足が、一瞬だけ遅くなった。


「……窓からなら」


「窓?」


「高いところの窓」


 それだけ言って、セラは前を向いた。


「でも今日は違う。今日は、自分の足で出た」


 レンはその横顔を見た。


 そこには、さっきまでの勝ち気な笑みがなかった。


 少しだけ、痛そうだった。


 セラは外を知っている子ではないのかもしれない。


 外を知っているふりをしているだけなのかもしれない。


 レンと同じように、外へ出たばかりなのかもしれない。


 ただ、怖がり方が違うだけで。


 水路の先が二つに分かれていた。


 左は暗い。

 右は赤い光が強い。


 セラは丸めた紙を広げた。


 夢見院でちらりと見た、変な印の多い地図だった。


 太い線。

 丸。

 ばつ印。

 何かを急いで書き写したような跡。


 普通の地図には見えなかった。


 レンはのぞき込む。


「読めるの?」


「読める」


「本当に?」


「たぶん」


「それは読めてない時の返事だよ」


 セラは地図と道を見比べ、自信ありげに右を指した。


「こっち」


 その時、右の奥から声がした。


「いたぞ!」


 セラはすぐに左を指した。


「やっぱりこっち」


「今の地図、何だったの?」


「確認」


「聞こえただけでしょ」


「確認できた」


 レンはもう言い返す気力がなかった。


 二人は左の暗い道へ飛び込んだ。


 赤い光が遠のく。


 壁の鼓動だけが近くなる。


 とくん。


 とくん。


 やがて、低い鉄の扉が見えた。


 錆びている。


 でも、すきまから白い光が漏れていた。


「出口?」


 レンが聞く。


「たぶん」


「もう驚かなくなってきた」


 セラは扉を押した。


 開かない。


 引いた。


 開かない。


 蹴ろうとしたので、レンが慌てて止めた。


「待って」


「何」


「そこ。留め具」


 扉の横に、錆びた金具があった。


 夢見院の裏口で外したものに、少し似ている。


 レンは手を伸ばした。


 指先に錆がつく。

 爪が痛い。

 金具は固く噛んでいる。


 でも、さっき一度やった。


 同じように、少しずつ動かす。


 ぎ。


 ぎぎ。


 かちん。


 留め具が外れた。


 扉が小さく開く。


 セラが目を丸くした。


「レン、できるじゃん」


「たまたまだよ」


「たまたまでも、できた」


 そう言われて、レンは返事に困った。


 怒られないようにすることには慣れている。


 でも、何かをして、誰かにまっすぐ見られることには慣れていない。


「早く出よう」


 レンはごまかすように言った。


 セラは扉を押し開けた。


 白い光が差し込む。


 二人は外へ出た。


 そこは、王都の外れにある古い鐘溜まりだった。


 使われなくなった鐘が、いくつも置かれている。


 大きな鐘。

 小さな鐘。

 ひび割れた鐘。

 舌を失った鐘。


 表面には、閉じた目の紋章が刻まれていた。


 赤い草が、鐘の根元を覆っている。


 風が吹いた。


 ひび割れた鐘の内側で、低い音がした。


 ゴ……。


 ゴオ……。


 レンは足を止めた。


 夢の中の鐘に似ていた。


 完全に同じではない。


 もっと弱く、もっと壊れている。


 けれど、どこかが似ていた。


 セラも同じように立ち止まっていた。


 胸元から古い夢札を出す。


 その札には、鐘の丘が描かれている。


 小さな鐘。

 閉じたまぶた。

 黒い丸。


「似てる」


 セラが言った。


「……うん」


「ここじゃない。でも、似てる」


 レンは夢札から目を離せなかった。


 言うべきだった。


 ぼくも、その夢を見ている。


 毎朝描いている。


 同じ黒い丸を描いている。


 言えば、何かが進む。


 でも同時に、もう戻れなくなる。


 レンの喉は、開かなかった。


「レン?」


 セラがのぞき込む。


「顔、変」


「変じゃない」


「変だよ」


「君に言われたくない」


「私は今、ほこりで変なだけ」


「自覚あるんだ」


 セラは少し笑った。


 その笑いは、ほんの短いものだった。


 次の瞬間、鐘溜まりの入口で声がした。


「いたぞ!」


 兵士たちだった。


 市場で見た兵士もいる。


 兵士はセラを見た瞬間、わずかに目を見開いた。


 けれど、すぐに表情を戻した。


「そっちへ回れ!」


「逃がすな!」


 別の兵士が、鐘の間を抜けて近づいてくる。


 セラは夢札を胸元に押し込んだ。


「走るよ」


「また?」


「今度は本当に急いで」


「今までは?」


「今までも急いでた!」


 セラはレンの腕をつかみ、鐘溜まりの奥へ走り出した。


 赤い草を踏み、割れた鐘の間を抜ける。


 鐘溜まりの奥には、半分崩れた石段があった。


 石段は、王都の外壁に沿うように上へ伸びている。

 昔は見張りの兵が使っていたのかもしれない。


 けれど今は、手すりも欠け、石の隙間から赤い草が伸びていた。


「こっち」


 セラが石段を駆け上がる。


「そこ、上に行くだけじゃないの?」


「上に行けば、道が見えるかもしれない」


「かもしれないで登るの?」


「下にいたら捕まる!」


 追手の声が、鐘溜まりの下から近づいてくる。


「上だ!」


「石段を回れ!」


「二人とも、逃がすな!」


 兵士たちが石段へ駆け込んでくる音がした。


 けれど、崩れた石段は狭かった。


 一人ずつしか上れない。

 途中には、割れた鐘の残骸と赤い草が絡みついている。


 先頭の兵士が足を取られ、短く舌打ちした。


「急げ!」


「詰まっている!」


 レンは息を切らしながら、セラの後を追った。


 石段は途中で大きく崩れていた。


 最後の数段は、壁の外側へ張り出した小さな見張り台につながっている。


 そこに出た瞬間、風が変わった。


 王都の中を回っていた風ではない。


 外からまっすぐ吹きつけてくる風だった。


 レンは思わず足を止めた。


 眼下に、赤い川が見えた。


 王都の外壁のすぐ下を、太い赤い流れが横切っている。


 水ではない。

 けれど、ただの血でもない。


 朝の光を受けて、重たく光りながら、ゆっくりと霧の方へ流れていた。


 川の向こうは、すぐに白い霧に沈んでいる。


 その先に何があるのか、レンには分からなかった。


 海なのか。

 谷なのか。

 ただの低い土地なのか。


 何も見えない。


 ただ、その赤い川だけは見えた。


 セラは胸元から古い夢札を出した。


 夢札に描かれた眠る龍。

 その胸から伸びる、赤い線。


 セラは夢札と眼下の川を見比べた。


「……この線」


 レンも見た。


 夢札の赤い線と、外壁の下を流れる赤い川。


 同じだ、とすぐには言えなかった。


 夢札は子供の絵だ。

 線は曲がっていて、太さもばらばらで、場所も正確ではない。


 でも、龍の胸の街から赤い流れが出ている。


 そして今、心臓王都カーディアの外には、赤い川がある。


 それだけは、確かだった。


「この川を下れば、次の場所に行けるかもしれない」


 セラが言った。


「次の場所って?」


「分からない。でも、この札には、赤い線の先に黒い場所がある」


「黒い場所?」


「海かもしれない。穴かもしれない。何かの影かもしれない」


「分からないのに行くの?」


「分からないから行く」


 レンは言葉を失った。


 下から、追手の声がさらに近づく。


「見張り台だ!」


「そこから先へ行かせるな!」


 セラは夢札をしまい、見張り台の端を指さした。


「こっち」


「道なの?」


「たぶん」


「また?」


「でも兵士よりは細い道に強い!」


「それは初めて聞く自信だよ!」


 見張り台の端には、外壁に沿って下へ続く細い降り道があった。


 石は欠け、片側は赤い草の斜面になっている。


 その下に、赤い川が流れていた。


 大人が鎧をつけたまま走るには、危なすぎる道だった。


 けれど、子供が身を低くして駆け下りるには、ぎりぎり通れそうだった。


 セラがレンの腕をつかんだ。


「赤い川まで下りる」


「どうやってって聞く前に、もう答えが怖い」


「今見つけた道で」


「それ、道って言っていいの?」


「落ちなければ道!」


「落ちたら?」


「落ちない!」


 背後で兵士が見張り台へ上がってくる音がした。


「いたぞ!」


 セラは先に足を踏み出した。


 レンも続く。


 背後で兵士が叫んだ。


「そっちは危ない!」


 レンは思わず振り返りそうになった。


「危ないって言ってる!」


「知ってる!」


「じゃあ止まろうよ!」


「止まったら捕まる!」


 石が足元で崩れた。


 レンは壁に手をつき、なんとか踏みとどまる。


 背後では兵士たちが見張り台まで上がってきていた。


 けれど、彼らはすぐには降りてこない。


 細い降り道を見て、動きが止まる。


「回り込め!」


「川沿いに先回りしろ!」


 兵士の声が遠ざかっていく。


 完全に逃げきったわけではない。


 ただ、少しだけ時間ができた。


 セラは振り返らずに言った。


「ほら、今のうち」


「今ので寿命が減った」


「寿命って何歳から数えるの?」


「今そういう話しないで」


 二人は、外壁沿いの細い降り道を駆け下りた。


 背後では、王都の鐘が鳴り始めた。


 ゴオーン。


 ゴオーン。


 朝の鐘ではない。


 もっと低く、もっと重い。


 王都全体に命令を出すような鐘だった。


 セラの顔が強張る。


「まずい」


「今度は何?」


「本気で探す鐘」


「今までは本気じゃなかったの?」


「今からもっと本気」


「最悪だ」


 追手の声は、石壁の向こうへ回り込んでいく。


 眼下では、赤い川がゆっくり流れている。


 夢札に描かれた線が、本当にこの世界に引かれているみたいに。


 レンは王都の中心を見た。


 閉じた目と鐘の紋章を掲げた塔が、赤い光の中に立っている。


 その塔のずっと奥。


 見えるはずのない場所で、何か大きなものが眠っている気がした。


 どくん。


 地面が鳴る。


 レンの胸が鳴る。


 セラの夢札が、外套の中でかすかに揺れる。


 レンは、自分の夢札がもう手元にないことを思い出した。


 けれど不思議と、夢は失われていなかった。


 夢札は王都へ送られた。


 でも、夢はまだレンの中にある。


 閉じたまぶた。

 鐘の丘。

 赤い川。

 赤黒い何か。

 骨のような橋。

 光る砂。

 黒い丸。


 レンはまだ、それを誰にも言えない。


 でも、歩き出すことはできた。


 セラが手を差し出す。


「レン」


 レンはその手を見た。


 夢見院の天井から落ちてきた、ほこりまみれの手。


 王都から逃げてきた手。


 古い夢札を握っていた手。


 強引で、無茶で、たぶんばかり言う手。


 まだ、信用しているわけではない。


 でも、ひとりで戻るよりは、その手を取る方が怖くなかった。


 レンは握った。


「行こう」


 セラが目を丸くした。


「今、レンが言った?」


「言ったよ」


「もう一回言って」


「言わない」


「今のよかったのに」


「走るんでしょ」


「うん」


 二人は細い降り道を駆け下りた。


 心臓王都カーディアの外壁から、赤い川へ向かって。


 背後では、王都の鐘が鳴り続けている。


 ゴオーン。


 ゴオーン。


 追手の声は遠ざかった。


 けれど、消えたわけではない。


 兵士たちは外壁の向こうを回り込み、赤い川沿いへ向かっている。


 レンにも、それは分かった。


 少しだけ時間ができただけだ。


 逃げきったわけではない。


 それでも、今は進むしかなかった。


 その音は、まるで死んだ龍の胸の中で、誰かがまだ夢を見ている音のようだった。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


第2話では、レンとセラが夢見院を抜け出し、心臓王都カーディアの外へ踏み出しました。


レンにとって外の世界は、まだ憧れの冒険ではなく、知らない音と匂いに満ちた怖い場所です。

一方のセラも、強引に見えて、実は怖くないわけではありません。


二人はまだ仲間というより、成り行きで一緒に逃げているだけ。

けれど、古い夢札に描かれた景色は、少しずつ現実の世界と重なり始めています。


赤い川。

血海。

白い骨の山。

そして、何度も現れる黒い丸。


この先、二人はどこへ向かうのか。

セラが持っている古い夢札は、誰が描いたものなのか。

黒い丸は、何を意味しているのか。


少しでも「続きが気になる」「レンとセラを見守りたい」と思っていただけたら、感想や評価で応援してもらえると、とても励みになります。


次回は、夢札に描かれた「赤い川」へ向かいます。

レンとセラの逃避行を、ぜひ引き続き見届けてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ