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竜骸世界と夢見の子ら 〜死んだ龍の上で、僕らは出口を描く〜  作者: 磯辺
心臓王都カーディアからの脱出

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名前のない夢札

 朝の鐘が鳴る前、夢見院(ゆめみいん)はまだ夜の名残を抱えていた。


 心臓王都(しんぞうおうと)カーディアの内壁近くにあるその建物は、古い石でできた平屋だった。低く、横に長く、中庭を囲むように部屋が並んでいる。


 外から見れば、ただの静かな院に見える。


 けれど中にいると、そこが普通の建物ではないことが分かる。


 床の下から、いつも小さな音がするのだ。


 どくん。


 どくん。


 眠っている獣の胸に、耳を押し当てているような音。


 子供たちは、それを不思議がらない。

 心臓王都で生まれた子供は、みんなその音を聞いて育つ。


 レンもそうだった。


 夢描きの間には、高い窓から赤い光が差し込んでいた。


 朝焼けの赤ではない。

 火の赤でもない。

 もっと深く、もっと静かで、見ていると自分の体の内側まで薄く染まっていくような赤だった。


 長い机が四つ。

 白い夢札(ゆめふだ)

 炭筆。

 色粉。

 水の入った小皿。


 子供たちは、まだ眠そうな顔で、それぞれの夢を描いていた。


 レンは、白い夢札の上に、大きな龍の形を描いていた。


 うまく描けているとは思わない。


 頭は少し長すぎる。

 背中のとげはぎざぎざしすぎている。

 尻尾は紙の端で曲がって、ぐるりと丸くなってしまった。


 それでも、夢で見たものにいちばん近い形は、それだった。


 眠っている龍。


 目を閉じ、体を丸め、何かを守るように眠っている大きな龍。


 龍の顔のあたりには、閉じたまぶたを描く。


 まぶたは、ただの線ではなかった。

 丘みたいに大きくて、重そうだった。


 その近くに、小さな鐘のある丘を描いた。


 鐘は、夢の中でいつも鳴っている。


 ゴオーン。


 ゴオーン。


 けれど、絵にするとただの小さな鐘になってしまう。


 レンは少し不満で、鐘のまわりを何度も黒くなぞった。


 龍の胸のあたりには、尖った屋根の街を描く。


 塔がいくつも立っている。

 屋根は赤く、壁は白い。


 街の下から、赤い線を何本も伸ばした。


 血管みたいな線だった。


 赤い線は、街の下から外へ、さらに龍の体の下の方へ流れていく。


 レンは赤い色粉を指につけ、線を少しだけにじませた。


 赤い線の先には、暗い海を描いた。


 赤黒い海。


 そこに、小さな船を三つ浮かべる。


 船はどれも傾いている。

 夢の中の海は静かなのに、船だけが沈みそうに見えるからだ。


 次に、龍の背中の上へ白い山を描いた。


 山というより、骨だった。


 細く長く、ぎざぎざした白い橋。

 橋の下は深い谷。


 谷の底には、何も描かない。


 何も描かない方が、怖く見える気がした。


 龍の外側には、広い砂漠を描いた。


 黄色と白を混ぜた砂。

 丸いうずまき。

 倒れた石。

 ぽつぽつと立つ細い影。


 夜になると、その砂は星みたいに光る。


 けれど、レンは空には星を描かなかった。


 夢の空には、星がない。


 最後に、紙の端へ黒い丸を描いた。


 黒い丸。


 ただの丸ではない。


 夢の中で、それはいつもどこかにある。


 まぶたのそばにある時もある。

 鐘の下にある時もある。

 赤黒い海の上に浮いている時もある。

 砂の中に沈んでいる時もある。


 穴のようにも見える。

 入口のようにも見える。

 何かを隠すために、ぐりぐりと塗りつぶした跡のようにも見える。


 レンには、それが何なのか分からない。


 でも、描かないと夢札が完成しない。


 だから今日も、黒い丸を描いた。


 白い夢札の上に、眠る龍がいた。


 龍の胸には街。

 龍の血は赤い川。

 龍の背には骨の山。

 龍の鱗は砂漠。

 龍の血は海になり、龍のまぶたには鐘の丘がある。


 子供の絵みたいに、少し曲がっていて、少し乱れていて、ところどころ色がはみ出している。


 けれどレンには、それがただの絵には見えなかった。


 まだ誰も読めない地図みたいだった。


 隣の席で、ノアが小さくうなった。


「魚、また増えた」


 レンは顔を上げた。


 ノアの夢札には、空から魚が降っていた。

 丸い魚が、ぽとぽと、ぽとぽと、家の屋根に落ちている。魚の顔はどれも困っていた。


「ノア、それ、また魚?」


 レンが小声で聞くと、ノアは真剣にうなずいた。


「昨日より増えた」


「魚が?」


「うん。昨日は十二匹。今日はたぶん百匹」


「数えたの?」


「途中でやめた。夢の中でも面倒だった」


 レンは少し笑った。


 向かいの席では、リタが白い橋を描いていた。


 橋は骨のように細く、深い谷の上にかかっている。

 橋の途中には、黒いひびが何本も走っていた。


「リタ、その橋、昨日より黒くない?」


 レンが聞くと、リタは炭筆を止めずに答えた。


「ひびが増えたの」


「夢の中で?」


「うん。渡ろうとすると、下から音がする」


「どんな音?」


「歌みたいな音。だけど、楽しい歌じゃない」


 レンは、リタの夢札を見た。


 白い橋の下に、細い赤い線が流れている。


 自分の夢札に描いた赤い川と、少し似ていた。


 部屋の端では、小さなユユが、黒い空を描いていた。


 紙いっぱいに黒を塗って、その下に一つだけ家を描いている。


 ユユは不安そうにレンを見た。


「レン、空って黒いもの?」


 レンは少し考えた。


「夜なら、黒いと思う」


「でも、星がなかった」


 ユユは小さな声で言った。


「夢の空、まっくろなのに、星が一つもないの」


 レンは返事に困った。


 レンの夢の空にも、星はない。


 けれど、それを言うのは少し怖かった。


 夢札の時間には決まりがある。


 大声を出さないこと。

 他の子の夢札を勝手に直さないこと。

 描かれた夢を笑わないこと。


 夢は、その子だけが見たものだからだ。


 変でも、怖くても、意味が分からなくても、笑ってはいけない。


 笑われた子は、次の日から夢を描く手が止まってしまうことがある。


 だから子供たちは、夢札の時間だけは少しだけ静かになる。


 やがて、部屋の奥にある砂時計の砂が落ちきった。


 朝の夢札の時間が終わった合図だった。


 先生役の女の人が、机のあいだを歩いて小さな鈴を鳴らす。


 ちりん。


 子供たちは炭筆を置いた。


 その少しあと、扉が開いた。


 徴夢官(ちょうむかん)たちが入ってきた。


 心臓王都へ夢札を運ぶ大人たちだ。


 深い臙脂色(えんじいろ)の長衣。

 胸元には、閉じた目と鐘を組み合わせた王都の紋章。

 白い手袋。

 細長い木箱。


 木箱には、赤い封蝋がついていた。


 徴夢官は話さない。


 夢札を受け取る時も、絵を見る時も、箱へ収める時も、声を出さない。


 ただ、札を見て、記録板に小さな印をつけ、木箱へ入れていく。


 ノアの魚の雨が、木箱へ入れられる。


 リタの骨の橋も、無言で収められる。


 ユユの星のない黒い空を見た徴夢官は、ほんの一瞬だけ手を止めた。


 けれど、何も言わない。


 小さな印をつけ、札を箱へ入れた。


 そして、レンの番になった。


 レンは自分の夢札を両手で差し出した。


 徴夢官はそれを受け取った。


 その手が、少しだけ止まる。


 眠る龍。

 胸の街。

 赤い川。

 赤黒い海。

 白い骨の橋。

 光る砂漠。

 鐘の丘。

 黒い丸。


 徴夢官は何も言わなかった。


 ただ、記録板に印を二つつけた。


 一つではなく、二つ。


 レンはそれが気になった。


 けれど、聞けなかった。


 その背後から、静かな声がした。


「また、この龍か」


 レンの背中がぴんと伸びた。


 院長だった。


 夢見院の院長は、いつも静かに歩く。


 怒鳴らない。

 急がない。

 名前を呼ぶ時も、声は丁寧だ。


 だからこそ、レンは院長が少し怖かった。


 院長はレンの夢札を見下ろした。


「レン」


「はい」


「今日は、海まで描いたのか」


「……はい」


「骨の橋も」


「はい」


「砂のうずも」


「見ました」


 院長の視線が、夢札の端に描かれた黒い丸で止まった。


「これは」


 レンは指先を握りしめた。


「夢に、出てきます」


「どこに」


「分かりません」


 レンは小さく首を振った。


「毎回、違う場所にあります。でも、いつもあります」


 院長はしばらく黙っていた。


 その沈黙は、叱られる前の沈黙に少し似ていた。


 けれど、少し違う。


 何かを確かめている沈黙だった。


 やがて院長は、徴夢官に目で合図した。


 レンの夢札は木箱へ入れられた。


 ぱたん。


 ふたが閉じる。


 赤い封蝋のついた木箱の中へ、レンの夢が収められる。


 レンは、自分の夢が王都へ運ばれていく音を聞いた気がした。


 徴夢官たちが部屋を出ると、夢描きの間の空気が少しゆるんだ。


 子供たちは椅子を引き、朝食のために廊下へ出ていく。


「今日の朝食、焼き豆かな」


「昨日も焼き豆だった」


「じゃあ今日も焼き豆だよ」


「なんで?」


「だって、ここはそういうところだから」


 小さな声が廊下へ流れていく。


 朝の赤い光は、さっきより少し明るくなっていた。


 夢札の時間が終わり、朝食までの短い片付けの時間になる。


 レンは立ち上がった。


 けれど、机の下に炭筆が一本落ちているのに気づいた。


 誰かが置いていったものだ。


 拾わないと、あとで誰かが怒られるかもしれない。


 レンは炭筆を拾った。


 ついでに倒れていた水皿を直し、散らばった色粉の包みを並べ、椅子を机の下へ戻す。


 みんながいなくなった部屋は、さっきよりずっと広く見えた。


 残っているのは、机と椅子と、色粉の匂いと、朝の赤い光だけ。


 その時だった。


 天井から、小さな音がした。


 みし。


 レンは動きを止めた。


 夢描きの間の天井は高い。


 太い梁が何本も渡り、古い木の匂いがいつも上の方に溜まっている。


 普段なら、そこに気を向けることはない。


 けれど今、頭の上で、確かに何かが軋んだ。


 みし。


 また音がした。


 今度は、少し近い。


 白い粉が、ぱらぱらと落ちてきた。


 レンは一歩下がった。


「……え?」


 天井の向こうで、小さな声がした。


「ちょっと、待って……ここ、乗っていい場所じゃない?」


 女の子の声だった。


 レンは目を丸くした。


 天井から、女の子の声。


 そんなことは、夢見院の朝には普通ない。


 みしみし、と木が軋む。


 天井に、細いひびが走った。


「うそ」


 天井の向こうで、女の子が息をのむ。


「うそ、うそ、うそ。ここで割れるのは違うって」


 その直後、遠くの廊下から大人の声が聞こえた。


「裏庭を探せ!」


「物置の戸が開いている!」


「まだ近くにいるはずだ!」


 天井の上の女の子が、びくりとした。


 そのせいで、足を置く場所を間違えたのだと思う。


 ばきん。


 天井板が割れた。


 木くずと白い粉が降る。


 細い足が見えた。


 外套の裾が梁に引っかかった。


 次の瞬間、女の子がまるごと落ちてきた。


「わっ!」


 どん。


 女の子は長机の端にぶつかり、そのまま床へ転がった。


 机が大きく傾く。

 椅子が倒れる。

 白い札が舞う。

 色粉の包みが破れ、青と黄色が床に散った。


 レンは、声も出せずに固まった。


 天井には、人ひとり分の穴が空いている。


 穴の向こうには、暗い天井裏が見えた。


 太い梁。

 ほこりをかぶった板。

 古い蜘蛛の巣。

 そして、今にも落ちそうな木片。


 落ちてきた女の子は、床の上でしばらく動かなかった。


 年は、レンと同じくらい。


 髪にはほこり。

 頬には細い傷。

 外套はあちこち擦り切れている。

 手には、すすと木くずがついていた。


 けれど、その外套の下に見えた服の布は、夢見院の子供たちが着ているものより、ずっと上等に見えた。


 袖口には、細い銀糸の刺繍がある。


 女の子はそれに気づくと、慌てて外套を引き寄せた。


「……いたた」


 女の子は、むくりと起き上がる。


 レンは、ようやく口を開いた。


「……空って、女の子が落ちてくるところなの?」


 女の子は、ほこりだらけの顔でレンを見た。


「違うと思う。たぶん」


「たぶん……」


 レンは天井の穴を見上げた。


「天井、割れたんだけど」


 女の子も天井を見た。


「ほんとだ」


「ほんとだ、じゃなくて」


「ごめん。あとで直す」


「直せるの?」


「たぶん」


 レンは、この子の「たぶん」は信用してはいけない気がした。


 女の子は立ち上がろうとして、ふらついた。


 レンは反射的に手を伸ばす。


 女の子の手は、少し冷たかった。


「大丈夫?」


「大丈夫」


 そう言いながら、女の子は全然大丈夫そうではなかった。


 息が荒い。

 外套の端を強く握っている。

 目だけが、部屋の入口と、天井の穴を何度も行き来している。


 誰かから逃げてきた目だった。


「君、誰?」


「セラ」


「セラ?」


「そう。あんたは?」


「レン」


「レンね。じゃあレン、お願い」


 セラは急に真剣な顔になった。


「私を見なかったことにして」


 レンは、天井の穴を指さした。


「無理だよ。天井が見てる」


「そこをなんとか」


「なんとかって言われても」


 遠くから、また声が聞こえた。


「こちらを探せ!」


「夢見院の中も確認しろ!」


 レンの体がこわばる。


 大人の声。


 しかも、夢見院の人たちの声ではない。


 セラの顔色が変わった。


「まずい」


「まずいって、何が」


「説明してる時間ない」


「説明してよ」


「あとで!」


「……あとで、ちゃんと説明してよ」


 セラは答えず、部屋を見回した。


 隠れられそうな場所を探している。


 でも夢描きの間は、物が少ない。


 机。

 椅子。

 札の棚。

 掃除用具。

 夢札の空箱。


 隠れるには、あまり向いていない。


 足音が近づいてくる。


 セラは唇を噛んだ。


 さっきまで強気だった顔が、ほんの少しだけ揺れた。


 怖がっている。


 レンは、それに気づいてしまった。


 気づかなければよかった。


 気づかなければ、知らないふりができた。

 院長に言って、部屋の隅で小さくなっていればよかった。


 でも、気づいてしまった。


 レンは小さく息を吸った。


「こっち」


 セラの手を引いて、夢札の棚の裏へ押し込む。


「ここ、狭い」


「静かにして」


「でも狭い」


「天井から落ちてきた人が言うことじゃないよ」


 レンは倒れた机を少し動かし、棚の影を隠した。


 床に散らばった札を拾い集める。


 その時、セラの外套から何かが落ちた。


 古い夢札だった。


 白かったはずの札は、少し黄ばんでいる。

 角はすり減り、何度も誰かが触ったような跡があった。


 レンは拾い上げた。


 そして、息を止めた。


 そこには、子供が描いたような龍の絵があった。


 眠る龍。


 龍の胸には街。

 赤い川。

 赤黒い海。

 骨の橋。

 白い砂漠。

 鐘の丘。

 黒い丸。


 線はレンの絵より少し強く、色は少し薄い。


 でも、描かれているものは同じだった。


 同じ。


 今朝、自分が描いた夢と。

 昨日も、その前も、何度も描いた夢と。


 レンの指が震えた。


「それ、見ないで」


 棚の裏から、セラが小さく言った。


 レンははっとした。


「ご、ごめん」


 セラは夢札を奪おうと手を伸ばした。


 でも、その前に廊下の足音が止まった。


 扉の前。


 レンは古い夢札を握ったまま、固まった。


 扉が開く。


 入ってきたのは、院長だった。


 深い灰色の長衣。

 胸元には夢見院の小さな紋章。

 静かな足取り。

 怒っているのか、そうでないのか分からない顔。


 院長は、ひっくり返った机を見た。

 床に散らばった札を見た。

 天井に空いた穴を見た。

 レンを見た。


 それから、レンの手元の古い夢札を見た。


「レン」


「はい」


「その札は?」


 レンの喉がきゅっと縮んだ。


 棚の裏で、セラが息を殺しているのが分かる。


 廊下の向こうでは、まだ誰かが走り回っている。


 レンは夢札を胸元に引き寄せた。


「ぼくのです」


 言ってから、自分でもひどい嘘だと思った。


 院長は、少しだけ目を細めた。


「今朝の札は、もう王都へ送ったはずだが」


「描き途中でした」


「描き途中」


「はい」


 院長は、レンの手元の札を見る。


 黄ばんだ紙。

 すり減った角。

 古い色。

 何度も触られた跡。


「ずいぶん、古く見える」


 レンは汗が出てきた。


 どうしよう。

 どう答えればいい。


 古い理由。

 古いけど新しい。

 新しいけど古い。


 頭の中がぐるぐる回った。


 そして、レンは言った。


「……古く描きました」


 沈黙。


 部屋の空気が止まった。


 棚の裏から、セラが息を飲む気配がした。


 たぶん、今の嘘の下手さに驚いている。


 レンも驚いていた。


 自分に。


 院長は何も言わなかった。


 ただ、レンを見ていた。


 その目は、いつものように静かだった。


 でも、ほんの少しだけ、遠くを見ているようにも見えた。


 まるで、レンではなく、レンの後ろにある何かを見ているような目。


 やがて院長は、古い夢札から視線を外した。


「では、あとで私の部屋へ持ってきなさい」


 レンは思わず聞き返した。


「え?」


「あとで、だ」


「……はい」


 院長はそれ以上追及しなかった。


 机の壊れ方も。

 天井の穴も。

 落ちた木くずも。

 棚の裏の小さな気配も。


 何も聞かなかった。


 ただ、扉の前で一度だけ立ち止まった。


「レン」


「はい」


「同じ夢を描く子は、自分だけではない」


 レンは何も答えられなかった。


 院長は部屋を出ていった。


 足音が遠ざかる。


 扉の向こうの気配が消えてからも、レンはしばらく動けなかった。


 胸の奥で、まだ心臓が跳ねている。


 どくん。


 どくん。


 それが床の下の音なのか、自分の胸の音なのか、分からなかった。


 棚の裏から、セラがそろりと顔を出した。


「……行った?」


 レンは小さくうなずいた。


「たぶん」


 セラは息を吐いた。


 それは、さっきまでの強がった息ではなかった。


 本当に、助かったと思っている息だった。


「よかった……」


 レンも、つられて息を吐いた。


 よかった。


 怒られなかった。

 見つからなかった。

 夢札も取り上げられなかった。


 いや、あとで院長の部屋へ持ってこいと言われたのだから、何も終わっていない。


 けれど少なくとも今は、まだ終わっていない。


 そう思っただけで、膝の力が少し抜けた。


 セラは棚の裏から出てくると、レンをじっと見た。


「ねえ」


「何?」


「あんた、嘘、下手すぎ」


 レンはむっとした。


「分かってるよ」


「分かってるなら、もう少しなんとかしてよ。バレるかと思った」


「ぼくだって、バレると思ったよ」


「じゃあ、なんであんな嘘ついたの」


「他に思いつかなかったんだよ」


「古く描きました、って何?」


「言わなくていい」


「すごかった」


「言わなくていいってば」


 セラは少しだけ笑った。


 その笑いは、からかっているようで、でも少しだけ震えていた。


 レンはその震えに気づいて、言い返す言葉をなくした。


 この子も怖かったのだ。


 天井から落ちてきて、追われていて、知らない部屋に隠れて、知らない少年の下手な嘘に自分の行き先を預けるしかなかった。


 強そうに見えるだけで、怖くないわけではない。


 そう思った瞬間、廊下の奥から声がした。


「こっちだ!」


「夢見院の中も探せ!」


「物置の方にも足跡がある!」


 セラの顔から笑いが消えた。


 レンの背中も冷たくなる。


 足音が近づいている。


 院長の静かな足音ではない。


 重く、急いでいて、床板を踏み鳴らすような大人の足音だった。


「まずい」


 セラは古い夢札を胸元にしまい込んだ。


「もう隠れるの無理。逃げる」


「え、今?」


「今じゃなかったら捕まるでしょ!」


「でも、それは君の話で――」


「違う」


 セラはレンの腕を掴んだ。


「もう、あんたも関係ある」


「ないよ!」


「ある!」


「なんで!」


 セラは部屋を指さした。


「天井に穴。机ぐちゃぐちゃ。色粉ぜんぶ床。私を隠した。夢札も見た。院長に嘘ついた」


 ひとつ言われるたび、レンの顔から血の気が引いていく。


「だから何?」


「だから、残ったら全部聞かれる」


「それは……」


「説明できる?」


 レンは口を開いた。


 でも、何も出なかった。


 なぜ天井に穴が空いているのか。

 なぜ机が倒れているのか。

 誰がここにいたのか。

 なぜ古い夢札を持っていたのか。

 なぜ院長に嘘をついたのか。


 答えられることが、一つもない。


 セラはレンの腕をさらに強く引いた。


「ほら、無理。来る!」


「来るって、どこに!」


「外!」


「ぼく、外に出たことないんだけど!」


「じゃあ今日が最初!」


「そんな簡単に決めないで!」


「簡単じゃない! 急いでるの!」


 廊下の声がさらに近づいた。


「この部屋だ!」


 レンの体が跳ねた。


 セラはレンの手を掴み直した。


「走る!」


「ぼくはまだ行くって――」


「言わなくていい!」


「よくない!」


「足だけ動かして!」


 次の瞬間、セラは走り出した。


 レンは引っ張られた。


 最初の一歩は、完全にセラの力だった。


 二歩目も、たぶんそうだった。


 けれど三歩目からは、レン自身の足が床を蹴っていた。


 逃げるつもりなんてなかった。


 外へ出るつもりもなかった。


 夢札の場所へ行くつもりなんて、もっとなかった。


 それでも、追手の声が背中を押し、セラの手が前へ引き、天井の穴がもう戻れないことを告げていた。


 レンは走った。


 夢見院の回廊を抜ける。

 中庭の赤い光を横目に走る。

 王都へ送られる夢札の木箱が積まれた札置きの間の前を通り過ぎる。


 レンは一度だけ振り返った。


 自分がずっといた場所。

 毎朝、夢を描いていた場所。

 怒られないように、静かに息をしていた場所。


 そこが、遠ざかっていく。


 遠ざかっていくのに、まだ足は止まらなかった。


 セラが叫ぶ。


「レン、こっち!」


「そこ物置だよ!」


「さっき入ったところ!」


「じゃあ出口じゃないよね!?」


「たぶん、別の出口がある!」


「その“たぶん”禁止!」


 二人は裏庭へ続く物置に飛び込んだ。


 古い荷物のあいだをすり抜ける。


 藁の匂い。

 ほこり。

 割れた木箱。

 倒れた脚立。

 天井から下がる古い布。


 レンはちらりと上を見た。


 あそこから、セラは入ったのだろうか。


 そんなことを考える暇もなく、セラが外壁に面した小さな扉へ向かった。


 扉は重かった。


 セラが押す。


 開かない。


 レンも押す。


 やっぱり開かない。


「鍵!」


 レンが叫ぶ。


「鍵がかかってる!」


 セラは扉の横を見た。


 古い留め金がある。


「じゃあ、外す」


「外せるの?」


「たぶん!」


「だから!」


 セラが留め金に手をかけた。

 レンも手伝う。


 冷たい金属。

 固く噛んだ留め具。

 指先が痛い。


 廊下の向こうから、足音が近づいてくる。


「こっちだ!」


「物置を見ろ!」


 レンの指が震えた。


 セラの指も震えていた。


 けれど二人とも、手を離さなかった。


 ぎい。


 ぎぎ。


 かちん。


 留め金が外れた。


 扉のすきまから、風が入ってきた。


 レンは、思わず息を止めた。


 それは夢の匂いではなかった。


 石でも、薬でも、古い水でもない。


 どこまでも遠くへ続いていそうな匂いだった。


 セラが扉を押し開ける。


 外の光が差し込む。


 レンは目を細めた。


 心臓王都カーディアの外壁の向こうに、見たことのない空が広がっていた。


 高く、遠く、少し赤い空。


 地面の奥では、低い音が鳴っている。


 どくん。


 レンの胸も、小さく震えた。


 セラは古い夢札を握りしめる。


「この絵の場所へ行く」


 レンは、まだ何も言えなかった。


 自分も同じ夢を見ていること。

 同じ黒い丸を描いていること。

 夢の龍が、ただ眠っているだけではない気がすること。


 何一つ、言えなかった。


 けれど、足は止まらなかった。


 追手の声が、すぐ後ろまで来ていた。


「開けろ!」


「裏口だ!」


 もう戻れない。


 そう思ったのではない。


 戻る時間がなかった。


 レンは、セラに引かれるまま、外へ踏み出した。


 その瞬間、夢見院の中だけで終わるはずだった朝が、どこまでも遠い冒険へ変わった。

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