01.深紅のダリア(わざとね)——1768年9月3日
隣の部屋から裏切りの音が忙しなくしている。
甘いけど獣のような声。
女はわざと声を出している。
私に聞こえるようにだ。
男がやってきてから数分と立っていない。
男は私の夫。
私がここに潜んでいて、彼らのことを聞いているのを彼女は知っている。
涙で前がよく見えない。
頭に血がのぼり、震える手で必死に壁に手をつき、倒れないようにしているのが精一杯だ。息がしづらい。
今、ここで座り込んでしまったら、二度と床から起き上がれないような気がした。
私の夫は爵位を持っていた。
彼女は私の親友、だと思っていた人だ。ずっと2人で私を裏切っていた。
そんなことってあるかしら?
私の親友のフリをし続けながら、ずっと私を裏切るということが本当にできるのかしら?
自分がバカだった。
私のふらつく足が、我がレッドワイク伯爵家の冬の社交場として使われるロンドンのタウンハウスの床を軋ませた。涙の滲む目が私の高価な革靴のつま先をとらえた。
そっと動かなければと思うのに、体がいうことを聞かない。
「嘘だ」と思う一方で、体が震えてしまう。絶対的な確信が私の胸を痛みで貫く。
心臓は早鐘を打ち、喉がカラカラになった。震える指が廊下の壁を必死で掴もうともがいている。
私と夫の主寝室ではなく、廊下を隔てた先の小応接室が2人の裏切りの現場だった。私は2人に気づかれる前にと、階段室に急いだ。
――親友が私の夫と……そんなバカな……。
逃げるように階段を降りた。悔しさとショックで視界が暗くなる。
――私は愛していたのに……。
――私はずっと信頼していたのに……。
ただ、ただ、この息苦しさから逃げたい。その一心だった。
心臓の鼓動が響き渡り、世界が一気に音を失ったかのようだ。
声にならない嗚咽が込み上げて来ているのが分かる。ここから一刻も早く逃げなければならない、そう思った。
夫は私には興味がない。夫と私は一緒の寝室で寝たことは一度もない。その相談を親友の彼女に私はずっとしていた。
夫が持っているのは爵位だけ。
私が持っているのは土地とそこから毎年生み出される莫大な富。
他にも色々ある。私の生家は海運業で莫大な資産を築いたシーブルック家。
私と夫の結婚で、夫が欲しかったのは私の保有するお金。それだけだ。夫が欲しいのは私ではなかったのだ。
夫の家を建て直したのは、私だった。
親友の彼女はわたしの悩みを慰めて、親身になっているフリをしながら、その裏で笑っていたのだろう。だって、こうやって自分が夫と楽しんでいるのだから。
さっきの衣擦れの音と甘い声が私の耳に蘇り、刃物のように私の胸を突いた。慟哭が込み上げてきて、視界が涙に歪む。
彼女の名前はアーニャ。
私の十三歳の時から親友だった人。
夫は私が十五歳の時から私の恋人だった人。
私は夫との清く正しい交際を経て、結婚をした。
アーニャは綺麗な子だった。今も綺麗だ。いつも綺麗にしている。素敵な姿だ。
私は親友のアーニャが自慢だった。彼女ほど素晴らしい友達はいないとずっと思っていた。
私がおめでた過ぎるのかしら?
私には見えていない何かがずっとあったのだ。
でも、あんなにうまく二人で私を騙せるものかしら?
彼女は夫が欲しいのだ。きっと私から奪いたいのだ。
私はこんな夫もこんな親友も要らない。
ただ、身体が思うように動かない。
頭が割れそうに痛い。
倒れてしまいそうだ。
吐き気がするような気がする。
私はよろよろと階段を降りきった。大サロンを抜け、玄関ホールを出た。必死に這うような思いで、ロンドン市内のタウンハウスを出た。
なんとかあの二人から遠ざからなければならないと思った。
裏切りを悟った以上、戻ることはできなかった。
扉を押し開けて建物から出た瞬間、音の消えた世界から、一気に音が広がり、私の頭に喧騒が鳴り響いた。
馬の蹄が石畳を叩く金属音、車輪が軋む音、誰かの叫び声で辺りは騒々しい音で充満していた。
ロンドンの喧騒に私は圧倒された。
馬車の往来がいつも以上に激しい。
「奥様、お顔が真っ青ですっ!」
馬車のところで待っていてくれたネルが叫んだ。
ネル…………。
彼女の丸いふくよかな顔を見た途端、どこかほっとする自分がいた。
だが、吐き気をどうも抑えきれない。
よろよろとネルの方に向かって歩こうとした。白いエプロンを押さえながら、ネルが心配のあまりこちらに駆け寄ろうとしているのが見えた。
しかし、私は石畳の傷んだ端に足を取られ、そのままぬかるみに倒れた。
夫と親友の裏切りが今でも信じられない私は、その瞬間、世界が音もなく崩れるのが分かった。
「きゃあっ!奥様っ!」
ネルの悲鳴と周りの人々の悲鳴が聞こえた。
けたたましい馬のいななきが耳をつんざいた。
「止まれーっ!」と叫ぶ音が耳に迫る。一層の轟音が私の耳に迫った。
私の運命を凄まじい轟音が一気に呑み込んだ。
私は自分に迫り来るものを一瞬見た。
私は重いもので轢かれた。助骨が押し潰された。私の靴が宙を舞ったのが見えた。視界がぐるりと回転し、そのまま真っ暗になった。息を吸えず、血の味が口っぱいに広がった。耳に聞こえる音が水の中で聞いているようになり、身体中が一瞬焼き付くように熱くなったが、それも無くなった。
走馬灯のように、直前で私の意識が見たものをとらえて離さない。
私を轢いた馬車は家紋付きの馬車だ。
深い赤と金の縁取り……。
ぬかるみから目を上げた私の目に一瞬映ったのは、我がレッドワイク伯爵家の馬車だった。
馬車の側面のドア部分、後部、馬車の上部にはコート・オブ・アーム(紋章)が描かれている。盾の模様、動物、色づかい、冠の形は見慣れたものだ。
私自身が嫁いだ先の貧乏伯爵家の馬車をデザインし、私がこの街に送り出した馬車なのだから。
迫り来る馬車の伯爵冠の形をはっきりと私の瞳は認識した。金の縁に8つのストロベリー・リーフ。あの伯爵冠を、私は何度見たことか。
嫁いだ日、夫に「この赤と金が我が家の色だ」と言われた。
私が見た深い赤と金の縁取りは我がレッドワイク家の馬車だ。
私の馬車はネルが立つ所にあった。では、突進してきたのは夫の馬車だ。
赤と金のリバリースーツを着たコーチマンが必死に馬を操り、何か叫んでいた。泥を跳ね上げながら突進してくる馬の胸飾りの紋章の金は煌めいていた。新調したばかりの馬具だ。馬車の金のモールディングは私がデザインしたものだ。
見間違いようがない。
一体どんな策略で私に突進させたのか。
夫と親友の裏切りに気づいた途端、この仕打ちはどういうことなのか。
完全に息を引き取る一瞬、私の脳裏に何かが閃いた。
だが、それが何なのかはっきり認識する前に私の目の前は真っ暗になった。
1768年9月3日。私は馬車に轢かれて暗い闇に落ちた。
私は、殺された。
お読みいただきまして、ありがとうございます。
深紅のダリアが咲く9月に、全ては始まりました。
どうか引き続きお楽しみ頂けましたら幸いです。




