1.リトープス
そより、頬を撫でる柔らかな風の気配に、わたしは目を覚ました。
背中を濡らす、あたたかな水の感触。
窓から見える空は、淡いマゼンタと水色がまだらに混ざり合ったカオスに染まっている。
ぱしゃり。
身を、起こす。
わたしの前に広がっている景色は、床一面を浅い水で満たされた、電車の中。
ピンク色の、プラスチックの座席。ふわふわ、ベロア生地の長椅子。
空色の溶けた水面に、真っ白く広がる長い髪。
「おはよう、ハニー」
濡れた肌に貼り付く、黒いレース。
上目遣いの、甘い声。
「おはよう、ミルク」
つるりとした陶器のような、白い頬に触れる。
「992回目の素敵な朝ね。私、なんだか胸がどきどきしちゃう」
嬉しそうにそういうミルクの唇。
しっとりと湿るそこは、桃色の亀裂を描いて――。
「違うわ。882回目の憂鬱な朝よ。わたしはとってもブルーだわ」
寝そべったままのミルクが、すくいあげた水が、ぽたり、ドレスを汚す。
「今日はどこに行こうかしらね? たくさんあって迷ってしまうわ」
ぽたり、ぽたり、黒いドレスに、雫が染みる。
「今日もどこにも行かないわ。行先なんてあってないようなものよ」
座ったまま、水の中に投げ出された、わたしの足。
白いレースに結ばれたつま先に、足首に、波紋がゆらり。
「お腹がすいたわ。何か食べましょう」
小首をかしげた、ねだるような目。
「お腹なんてすかないわ。何も欲しくない」
ぱしゃり。
わたしは、横たわる。
白いシフォンを、レースを、ぬるい水に晒す。
「今日は電車なのね。こんな水浸しで一体どこに向かって走るのかしら」
見上げた天井。
逆さまに花をつけた、金色のマリーゴールド。
「さあね。少なくとも、おしゃれなカフェではないでしょうね」
今度はミルクが起きる。
まくれ上がったドレスの裾、内ももに、雫が伝う。
「それ、ちょうだい」
ふかふかの、座席の上。
ドーナツの入った、籐のバスケットに指をさす。
「丸とハート、どっちの形にする?」
細い膝が、水を割り開いて、進む。
「どっちでもいいわ」
かたん、ことん。
小さな振動に合わせて、人肌みたいな水が、ふわふわと髪を揺らす。
膝立ちでわたしに近付くミルク。
肩から滑り落ちた白い髪が、黒いドレスの胸元から覗く肌を、飾る。
「じゃあ私からのラブってことでハート」
甘い瞳。
「はいはい、ありがとう」
茶色いドーナツ。
歯を立てて、噛みちぎると、どろり――
「コーヒー味ね。今日はストロベリーの気分だったのに」
座り込んだ、脚の間。
水に混ざった茶色いもやが、白いドレスに渦を描く。
「昨日のヨーグルト味は悪くなかったわ」
ドーナツの穴に差し入れられたミルクの指が、その円を左右に引き裂いた。
「ヨーグルト味は一昨日よ。昨日はアップル味」
ぼとりと水に沈む、茶色。
「ねえハニー、そのココア味、私にも1口ちょうだい」
あ、と開かれた唇。
「コーヒー味よ。全部食べていいわ」
押し込むと同時に、ミルクから零れ落ちる、茶色。
喉がこくりと跳ねて、ハニーの手を掴むミルク。
「チョコレート味は好きじゃない。蜂蜜味がいいわ」
指先から、あたたかく、這う。
「もう……気まぐれなんだから」
這って、唇へ――
同じ温度が、入る。
入って、混ざる。
「すごく甘い」
端から、とろり。
「味なんてしないわ」
首元走る、爪。
「もっと欲しい」
視線。
「お腹いっぱい」
入る。
「もっと、もっと」
水音、花びら、歌う声。
蜜、絡まって、リトープス――




