第29話 お前じゃなきゃダメなんだ
ー智幸視点ー
胸部外科病棟での騒ぎは収まった。
だが──直己は今、オペ室にいる。
普段なら、あそこのスタッフは仲間をくだらない噂で非難するような連中じゃない。
だが今回は、優奈のおいたが過ぎた。
外科チームでさえ、直己のプライベートに踏み込むようになっていた。
「矢木くん、科長とどういう関係なわけ?」
「胸部外科からオペ室って異動、普通じゃないよね?」
「そういえば、結婚詐欺の件、ほんとなの? 科長が助けたって聞いたけど」
直己が辟易しているのは、見れば分かった。
オペ中でさえ、医者や看護師からプライベートを詮索されている。
──あいつは、そんな話をされるためにここにいるんじゃない。
真弥が「矢木くんを胸部外科チームに欲しい」と願い出た理由も、すぐに理解できた。
あいつは直己を守ろうとしている。
本当に優しい親友だ。
──だが、あいつを守るのは俺の役目だ。
◇
オペが終わったあと、俺は看護師が集まる中央カウンターに立った。
噂話をしていた看護師たちが、気まずそうに視線をそらす。
「三和優奈の言っていることは全部嘘だ」
静かに告げると、空気が一瞬で張りつめた。
「根拠のない噂に飲み込まれるな。矢木直己はそんな人間じゃない……俺が一番知ってる」
看護師たちが息を呑む。
「胸部外科でも、オペ室でも──直己の悪口を言うやつがいたら、俺が相手をする」
その言葉に、誰も反論しなかった。
むしろ、安心したように頷く者さえいた。
その日の夕方、医局に寄ると、外科のオペを珍しく早く終えた昌幸が書類を整理していた。
「叔父貴、優奈の件、オペ室にも噂が流れています」
「……そうか。あの人は本当に懲りないな」
「俺が全部止めます。直己に迷惑をかけるのは、これ以上許せません」
昌幸はふっと笑った。
「お前がそこまで言うなら、もう大丈夫だろう。病院としても、三和先生の処遇は検討している。来週には彼女は辞めるか本院への移動となる予定だ」
「お願いします」
◇
翌週。
胸部外科のオペ部屋に、直己が緊張した面持ちで入ってきた。
「今日から胸部外科チームに入ります。矢木直己です。よろしくお願いします」
その声は少し震えていたが、しっかり前を向いていた。
真弥がふふっと笑う。
「ようこそ、地獄の胸部外科へ。心配しなくても暫くは俺が外科と兼務だから守るよ」
「おい、真弥。直己を守るのは俺だろ」
思わず口に出ていた。
真弥が肩を竦め、直己は真っ赤になっていた。
もう二人、同じチームのスタッフたちが温かく迎え入れ、胸部外科の空気が少しだけ柔らかくなる。
よろしく、と小声で言い、直己が俺の隣に立つ。
その姿を見て、胸の奥が静かに熱くなった。
──これでいい。
ようやく、直己が正しい場所に戻ってきた。
直己は、俺の大切な相棒なのだから。
◇
その夜。
俺たちは馴染みの干物屋で、直己が胸部外科チームに入った歓迎会を開いた。
「神野さんがいなくなったらマジで不安なんすけど……」
「大宮くんは次からリーダーなんだから、矢木くんのこと頼むよ」
「安西部長のオペは神野さん帰ってきてくださいよ……」
胸部外科七年目の大宮悠人は、真弥に頼り切りだ。
穏やかで優しいのに、ビクビクした性格のせいでよく怒られている。
もったいない男だ。
直己はというと、真弥の移動を聞いて申し訳なさそうに眉を下げていた。
器械出しがまだ得意ではない自覚があるのだろう。
「俺が、もう少しできたらいいのに。すいません、神野さんに迷惑を……」
「矢木くん、まさか“自分が胸部外科に入るから俺が出る”って思ってる?
こないだも言ったけど、リーダーの佐久間さんが産休に入るから仕方ないんだよ。
俺が行かないと新人さんが潰れちゃう」
本当に、真弥はよく人を見ている。
俺は感心しながらビールを飲んでいると、気の利く真弥がさらりと追加のビールを頼んでいた。
「神野さんって、科長とデキてんですか?」
「ぶぶふぉっ!!」
「おい……智幸汚いよ……」
「あ、わ、悪い……」
直己の噂が収束した理由は、もう一つある。
俺が前から真弥のことを“好きだ”と言いまくっていたからだ。
しかも、ほぼ毎日真弥のお手製おにぎりをもらっている。
これは、はっきり言って異常だ。
だからオペ室の人間は、俺と真弥が“友達以上”だと勝手に思ってくれていた。
それがいつもの均衡で、誰も何も触れてこなかった。
──その均衡が、直己の登場で崩れた。
そう思ったのか、噂の広がりは異常なほど早かった。
そもそも真弥との関係は、友達としての延長線だ。
俺が親から送られてくる見合い話を断るための方便として始めたものだったが、
切るタイミングを逃して、ずるずる真弥の優しさに甘えていた。
確かに、そろそろ頃合いだ。
「ああ、真弥にはずっと“許嫁とか面倒くさい話が来ないように”隠れ蓑になってもらってたんだ。
うちの両親は俺が真弥のこと好きだと言い続けてるから、もう孫は諦めたって言ってたよ」
「そ、そうなんですか……」
直己は複雑そうに眉を寄せた。
大宮も「なんとも言えない」という顔をしている。
「ああ、俺は智幸の彼氏にはならないよ。だって顔が好みじゃないから」
「か、顔って……」
軽くショックを受ける俺に、真弥はシラフのまま笑って言った。
「冗談だよ。智幸は本当に好きな人と一緒になるべきだから、俺のお仕事は今日で終わり。
はい、後はお二人仲良くね?」
「えっ、え!?」
「どうせ智幸の奢りだから、俺たちは帰りましょう」
真弥は空気を察した大宮を連れて、ニヤニヤ笑いながら店を出ていった。
俺と直己だけが残される。
「全く……」
ため息をついたところで、直己がそっと口を開いた。
「あのさ、智幸……」
「おう、どうした?」
直己はグラスを握りしめたまま、少しだけ視線を落とした。
頬がほんのり赤い。
酔いか、緊張か──どちらにせよ、胸がざわつく。
「今日……お前のマンション、行ってもいいか?」
その声は小さくて、けれど真剣だった。
「大歓迎だよ」
答えた瞬間、直己がほっと息を吐いた。
その表情が、妙に愛しく見えた。
◇
店を出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。
直己は俺の横を歩きながら、何度も言いかけては飲み込むように唇を噛んでいる。
街灯の下を通るたび、
その横顔が少しずつ揺れて見えた。
──言いたいことがあるんだろうな。
けれど、急かすのは違う。
直己はいつも、自分の中で答えを出してから言葉にするタイプだ。
だから俺は、ただ隣を歩いた。
沈黙は不思議と重くなく、むしろ心地よかった。
マンションが見えてきた頃、直己がそっと息を吸い込む気配がした。
エントランスの鍵を開け、エレベーターに乗り、部屋の扉を開ける。
直己は一歩だけ中に入り、そこで立ち止まった。
まるで、ここから先に踏み込んでいいのか迷っているみたいに。
「……どうした?」
「すみません、急に……」
「なあに、お前はいつでも大歓迎だよ。寒いから入れって」
俺が軽く背中を押すと、直己は小さく頷いて靴を脱いだ。
リビングに入った瞬間、直己は深く頭を下げた。
その肩が、かすかに震えている。
「噂……全部、止めてくれたんですよね。本当に……ありがとうございました」
声は震えていた。
悔しさと安堵が入り混じったその響きが、胸に刺さる。
「礼なんていらない。あれは俺がやるべきことだった」
そう言うと、直己はゆっくり顔を上げた。
目が赤く滲んでいる。
泣くのを必死に堪えているのが、痛いほど伝わった。
「──彩香の件は笑って終わる話だから、いつかこの傷は消えると思ったのに……。お前の金をあてにして近づいたんじゃないかとか、笠原が東龍会から金借りてるから、俺もきっとそういう……なんか、悪い奴らに関わってんじゃないかって!」
珍しく、直己が感情を爆発させた。
「俺は、お前と金の関係なんてなりたくない……!」
「直己、落ち着け」
「智幸に金を借りるなんて、死んでも御免だ。そんなの、友達でもなんでも──!」
その瞬間、興奮で震える直己の手首を掴み、
俺は衝動のまま口づけていた。
呼吸を奪うほど長く、深く。
唇を離したとき、直己の震えが少しずつおさまっていくのが分かった。
「……悪ぃ」
また勢いで、と怒られるかと思ったが、
直己は怒りを失い、視線をそらした。
「このまま、変な噂が広がると……俺の居場所がなくなるんじゃないかって……」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「直己」
名前を呼ぶと、直己の肩がびくりと揺れた。
「もう二度と、あんな思いはさせない。俺がいる。どこにいても、何があっても──お前の味方だ」
直己は目を大きく見開き、
そのまま俯いて唇を噛んだ。
泣くのを必死に堪えているのが痛いほど伝わる。
しばらく静かな時間が流れたあと、
俺はゆっくりと息を吸った。
「……直己」
「なに……?」
顔を上げた直己の瞳は揺れているのに、その奥には確かな覚悟が宿っていた。
「うちの両親に会ってくれないか」
直己が固まる。
本当に呼吸が止まったようだった。
「え……?」
「許嫁の件も、噂の件も、全部俺が終わらせる。そのためには──お前を俺の大切な人として紹介する必要がある」
直己の喉が小さく鳴る。
驚きと戸惑いと、それでも逃げない強さがあった。
「……俺は、男だよ?」
「男とか、女とか関係ない。俺は、お前じゃなきゃ駄目なんだよ」
その瞬間、直己の目に涙が溜まった。
堪えていたものが、静かに溢れそうになる。
俺はそっと手を伸ばし、直己の頭に触れた。
その髪が、かすかに震えていた。
「一緒に来てくれ」
直己は震える声で、しかしはっきりと答えた。
「……はい」
その返事は弱々しいのに、どこまでも真っ直ぐだった。




