第28話 決別
土曜日。来週のオペが行われる部屋の準備をしていると、
俺のことをチラチラ見ては何か囁き合うスタッフが増えた気がした。
──もしかして、俺と智幸との関係が露見した?
このまま変な態度を取られたら働きづらくなる……そんな不安が胸をかすめる。
けれど、今は慣れない仕事に追われていて、噂を気にしている余裕なんてない。
「矢木くん、ちょっといい?」
「あ、はい」
コンテナを片付けていると神野さんに呼ばれ、そのまま胸部外科の部屋へ連れて行かれた。
「来週から、矢木くんをうちのチームにもらうことになったんだ」
「えっ……い、いいんですか?」
胸部外科のオペは新人には荷が重い。
器械は多いし、一分一秒を争う。
初めて見学した時、智幸が動く心臓を掴み、血管を結紮して術衣を血で汚していた姿を見て、失神しかけたのを思い出す。
あんな激しいオペに入るのか。……大丈夫か俺?
「実は年明けから外科のリーダーが産休に入るんだ。そこに俺が移動する。矢木くんには、ここで智幸のサポートをしてほしい」
ありがたい話だが、胸部外科の器械なんてほとんど触ったことがない。
不安が顔に出たのか、神野さんがふわりと微笑んだ。
「大丈夫。しばらくは兼務で、俺がびっしり教えるから」
「ありがとうございます」
ほっとしたのも束の間、神野さんがふと視線をそらした。
言いにくそうな気配が漂う。
「言いにくい話だったらごめん。……矢木くん、借金抱えてるの?」
あまりにも突然で、思考が止まった。
「えっ、なんでそんな話──」
「三和先生が言ってた。結婚詐欺で捨てられて、ローンだけ残ってる。だから片倉先生に縋ってるんじゃない?って」
胸の奥が冷たくなる。
──あの女、まだ俺を潰す気か。
「ああ、確かにマンションのローンはありますよ。
でも他は全部相殺しました」
大変だったけど、と笑ってみせる。
彩香も、笠原も──もう俺の中では終わった話だ。
神野さんはほっと息をつき、静かに語り始めた。
「……うちも叔父が借金抱えてて、俺の人生めちゃくちゃにしたの。だから、そういう噂聞くと心配でさ」
その言葉で、智幸が言っていた“東龍会”の話を思い出す。
俺を助けるために、会いたくない若頭に抱かれた神野さん──
胸が抉られる。
「ごめんなさい……俺のせいで……」
「矢木くんが謝ることは何もないよ。
俺は、自分が正しいと思ったことをしただけだから」
胸が熱くなる。
あの時、神野さんが来てくれなければ、
俺も、彩香も、笠原も──どうなっていたか分からない。
なのに、神野さんは身体を差し出してまで相殺してくれた。
俺の最低な親友の借金を。
何度謝っても足りない。
でも、謝ると神野さんが傷つくのも分かっている。
沈黙が落ちたところで、神野さんがまた口を開いた。
「智幸、お金のこと絶対言ってこないでしょう?」
「えっ……あ、そう言えば」
困っていても、あいつは絶対に金を出さない。
ケチとかじゃなくて、“金で解決する”という行為そのものを嫌う。
俺もローンがつらくて泣き言を言ったことは一度もない。
「昔ね、俺が言ったんだ。金で借りを作るのは嫌だ。一度でもそういう関係になったら、俺たちは対等でいられなくなるって」
その言葉が胸に落ちる。
──俺も、智幸と対等でいたい。
だから泣き言を言わなかった。
だから、縋らなかった。
◇
土曜日の午後。
ナースステーションの隅で、三和がまた別の看護師たちに囁いていた。
「ほんと可哀想よね、智幸さん。あんな仕事もできない男にまとわりつかれて……」
わざとらしいため息。
同情を買うような声色。
その会話を、偶然胸部外科に用事があって病棟に来ていた
片倉昌幸部長──智幸の叔父が聞いてしまった。
昌幸の眉がぴくりと動く。
「……三和先生、今の話はどういう意味だ?」
三和は一瞬だけ怯えたが、すぐに作り笑いを浮かべた。
「い、いえ……その……」
「それは人の一生を左右する大切な話だ。まさか、根拠のない話ではないだろうな?」
外科のエキスパートであり診療部長でもある男は、
誤魔化せる相手ではなかった。
三和から粗方の話を聞いた昌幸は、
外来の合間を見計らい胸部外科へ向かった。
「あら、片倉部長こんにちは。科長に用事ですか?」
「ああ。すまんが診察室で待たせてもらう。至急話したい」
「わかりました。あと二人ほどで本日の診察終わりになりますので伝えておきますね」
外来の看護師が隣の診察室にいる智幸へ伝える。
最後の診察が終わったところで、智幸が顔を出した。
「智幸。ちょっと」
昌幸の声は低く、怒りを押し殺していた。
「……あの許嫁、まだ病院でとんでもないことを吹聴しているぞ」
その一言で、何が起きたのか察する。
智幸の手が止まった。
「直己くんのことを“仕事もできない男”“智幸にまとわりつく厄介者”とまで言っていた。彼は知っているのか?」
胸の奥が冷たくなる。
──まだ、あいつは直己を傷つける気か。
「何日か前に、両親に許嫁の話は全部なしにしろと言ったはずです」
「だが、三和先生はあの様子だと聞いていないようだな」
智幸の目が、静かに怒りで濁る。
「……分かりました。俺がケリをつけます」
胸部外科病棟のナースステーション。
スタッフたちが書類を整理している中、智幸がまっすぐ三和の前に立った。
「ちょっと智幸さん、どうしたの──」
「直己の噂を流すのはやめろ」
低く、静かで、刺すような声。
怒鳴り声よりずっと怖い。
三和の表情が一瞬で強張る。
「な、何のこと? 私はただ──」
「人を嘲笑って楽しいのか」
その一言で、ナースステーションの空気が凍りついた。
「お前はそうやって相手を見下して生きていたいのか?」
「ち、違う……私は……!」
「じゃあ聞く。なんのために医者になった?」
三和の喉がひくりと動く。
周囲の看護師たちが息を呑む。
「どうせ好きでもない俺の実家の権力が欲しくて来ただけだろ。そんな理由で胸部外科にしがみつくなら──」
智幸は一歩近づき、冷たく言い放つ。
「目障りだから消えろ」
三和の顔が真っ赤に染まる。
「……っ!」
次の瞬間──
パァン──ッ!!
乾いた音が病棟に響き渡った。
智幸の頬がわずかに揺れる。
三和の手が震えていた。
悔しさと怒りで顔を歪め、唇を噛みしめる。
「……最低……っ! こんな仕打ち、絶対に許さない……!」
涙を滲ませながら、歩き出す。
その背中は、負けを認めたくない必死の強がりと、直己への逆恨みを滲ませていた。
靴音が遠ざかるたび、その悔しさが床に叩きつけられるようだった。
嵐が消えて静まり返ったナースステーション。
誰もが固まっていたが──
「科長、かっこよかったです!!」
「三和先生、ずっと矢木くんの悪口言ってたから……スカッとしました!」
「片倉科長、惚れ直しました!」
看護師たちが一斉にざわめき始める。
智幸は頬を押さえながら、わざとらしく肩をすくめた。
「いやぁ……ビンタは想定外だったな。痛いのはオペだけで十分なんだけど」
その一言で、ナースステーションにくすくすと笑いが広がる。
「科長、それ言います?」
「でも似合ってましたよ、あのキレ方!」
「似合ってたってなんだよ……」
苦笑しながらも、どこか誇らしげに見える。
頬をさすりつつ、智幸は軽く息を吐いた。
「ま、これで静かになるだろ。あとは……俺がちゃんと直己に説明しないとな」
その横顔は、怒りと決意と、
そして直己を守る覚悟に満ちていた。




