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それからも私は変わることがなかった。キツイときは何度もあったけれど、ヴァルカン様の傷を治す間は、意地でも起き上がって寝台を出た。

彼の左手は完治し、左の頬もスベスベになって見えてくる。今日なんかは、立派な鼻ができていた。


「ヴァルカン様の鼻は凛々しいですね。スッと筋が通っていて、形がいいですよ」


「そうかな」


手鏡を持って自分の顔を見る彼は、自信を持ち始めたようだ。左の丸いつぶらな瞳は黒鉄色で、その辺の子供より整っている。

鏡をこれまで侯爵邸では見たことがない。私の部屋にある鏡台くらいだったが、最近は彼自身も鏡を買ったらしく、姿見がいたるところで見れるようになった。


「きっと大きくなられたら、それはもう美形なのでしょうね」


「本当に本当?」


「ええ。魔王にとらわれた姫を助けに行く勇者様みたいに格好良くて強くなられるかもしれませんよ??」


「イリスは強い人が好きなの?」


「まあ、確かに言われてみればそうですかね」


ヴァルカン様のように。たとえ不遇な扱いを受けた過去があろうとも、未来を見て何度だって起き上がろうと一生懸命な人が好きだ。その意志の強さといったら。


「そういう人にキュンキュンしちゃいますね。ふふふ、キスして、ハグして、もうたっくさん愛したくなります」


「そ、そんなにするんだ…」


「まあとにかくです。ヴァルカン様が美形な男性になられるまでに、完全に傷を治してしてみせますからね!」


もう自分の命は長くない。この頃には察しがついていた。こんな私のような人生よりも、ずっと彼は長く生きる。だからそれまでに、ヴァルカン様が他の方にすぐに受け入れられるように。すべての傷を癒やしてあげたい。


彼を愛してくれる人が増えますように。

彼が愛する人が増えますように。

願うだけで、私は額に伝う変な汗もぬぐってごまかせる。









そういう願いを胸で誓ったのも、数週間前となった。

ゲホゲホと咳をするたびに、喉から変な味がして口からは鉄が臭う。


「奥様、もう立ち上がらないほうが」


「大丈夫よシフ。今日もヴァルカン様が待っているでしょう」


「ですが今日くらい休んだほうが」


慌ててベッドに戻そうとするシフに、少しばかり反抗した。早く行かなければ、彼が待っている。お昼の休憩は、ヴァルカン様のお菓子の時間と癒やしの時間という習慣を作ったのは私だから。


「このままでは本当に死んでも知りませんよ」


「大丈夫。あなたに手紙はあずけたでしょう?本当…ヴァルカン様のインクが切れない羽ペンは便利よね」


笑い話にしようと思ったのに、思った以上に体が酷かった。もう何もかもが熱くてだるくて、体がベッドからなかなか離れてくれない。


フラフラとした体の軸に、シフがしびれを切らしたときだった。


「イリス」


「ヴァルカン…様」


彼が私の部屋に入ってきて、目を見開いていた。その顔はもう、残すは右目だけだ。その黒い眼帯を外せるように、私は頑張りたいのに。もう力が出そうにもなかった。


「ゲホッゲホッ」


口元を抑えて咳き込むと、手に赤いものがついた。


「イリス!」


「坊ちゃま、近づいてはなりません。奥様にこれ以上近づいては、本当に」


シフがそういうのは、私が彼を治してしまうと思ったからだろう。

この最後の傷を治してあげれれば、私はきっと未練なくあの世へ旅立てるのに。


「イリスっ……」


「見苦しいところをお見せしてしまい、すみません」


「どうしてそんなに唇が青いのさ。昨日まであんなに元気そうだったのに」


化粧もしていない顔は、見られたくなかった。酷くやつれて見えるから。夜に共に寝る時は暗がりで分からないからごまかせる。朝はシフに手伝ってもらい、目が覚めるヴァルカン様とは顔を合わせないようにする。重い体を昼にようやく起こして化粧をして、万全の状態で彼にあうのが良いのに。


「ヴァルカン様」


「なんでっ……どうしてっ…………」


「坊ちゃまも理解しておられるでしょう。奥様が癒やしの力を使い続けた結果です。これは坊ちゃまが泣くようなことでは」


泣き始める彼に、シフが泣くなと言う。彼女はヴァルカン様以外には少し冷淡だ。私のことを手伝うのはすべてヴァルカン様のため。この使用人たちは誰が主人かを良くも悪くもわきまえている。

近づこうとするヴァルカン様を、シフは今度は止めようとはしなかった。彼の傷を治せるのはやはり私だけであるから。このまま止めるよりも、治させて私がポックリいっても使用人たちは悲しくもない。


「イリスっ……嫌だよっ………なんで無理してまでっ……こんなことをっ」


「あなた様の傷を治したいからでございますよ」


もうその顔は誰が見ても振り返るような可愛らしい顔だった。


白い肌、クリクリとした黒い目。赤茶色のパーマがかかった髪に、形の良い眉。鼻はきれいな稜線を引き、唇はふっくらとちょうどよく薄い。


「もう十分治ったよっ……それを言いたくって……今日は早めに来たのにっ」


「すみません」


「僕ね…言われたんだ。『なんていい顔をローブに隠してたんすか』って」


ここにくる工房を持つ一人のマシューが褒めて言ったのだろう。ヴァルカン様はそれから泣きながらも、私にしがみついた。


「それからねっ……『顔を見せないのにはもったいないです』って。僕、嬉しかったよ」


言葉遣いからして、それはカールのものだ。

ヴァルカン様が尊敬している二人の仕事仲間に褒められたと、尻尾を振りながら泣いている。嬉しいのか悲しいのかその表情は混ざっているけれど、幸せそうだった。


ようやく実を結んだ。

彼はもうローブに顔を隠すことはないし、人に顔を見せることに怯えもしなくて良いのだ。

その頬に手を伸ばそうとすると、ヴァルカン様は握ってきて押さえつけられてしまう。


「頬に手を…触れさせてください」


「嫌だ!絶対に、この傷は治させない」


「ほんの少しだけではないですか。今までだって…拒むこと無く受け入れてくれたではありませんか」


初めに彼の小指を治したときだって。ヴァルカン様は拒むこと無く、私を信じてくれた。あの時から互いに少しずつ信頼し合っていたというのに。

それでも首を振ってヴァルカン様は拒絶する。

その手は強く、七歳も年上の私が精一杯力を出しても敵わなかった。彼のほうが、鍛冶に向き合っているから力が強いのだ。


「もう無理だよっ……イリスが治したら最後……死んじゃうよっ…」


「信じてください…私はその傷を治せますから」


「信じない…信じれないよっ。もう嘘はつかないでよ!」


駄々をこねる様子が、子供らしかった。初めてイヤダイヤダと言ってくれて、反抗してくれたのになぜか喜んでしまう。


「大丈夫…大丈夫ですから」


そうやって言い聞かせて、私は悪い大人の顔になった。

借金を取り立ててくるオタール様のような顔だろう。男爵家を貧乏になるまでにした、悪い投資家達の顔つきだろう。

それでも、もう取り繕う必要はなかった。

後にも先にも、私は長生きするような体じゃなかったのだから。いつ死んでしまうか分からないなら、せめてこの最後の力を振り絞りたい。ヴァルカン様にささげて散りたいと。


「花の恵み(フローラ・グレース)」


花の香りがする。

この花の匂いをどこかで嗅いだことがある。たしかお母様とまだ手をつなぐことができていた時だ。彼女が秋が終わる頃に、花壇に球根を植えていた。


『この球根が育ったら、すごくきれいな白い花を咲かせるのよ』


そうやって私は彼から手を離した。

その花の匂いはいつどこで嗅いで……


「イリ■!イリス!」


「坊ちゃ■、■■よしてください。奥様は■■」


「■だ!シフお願い、■■の■■■をつかって」


ザーザーと波の音が聞こえる。なんだかそれで心地よくなってきてしまう。

目を閉じると、私は暗い意識の中で、溺れるような感覚がした。

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