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第1話 鏡の向こう

「メーデー」という声。


遠い昔に語られた神々の物語。


そして、一枚の不思議な鏡。


一見つながらないものが、少しずつ一つの物語になっていきます。


まずは、その最初の謎を覗いてみてください。

挿絵(By みてみん)


ブーッ、ブーッ、ブーッ。

けたたましい警報音が、赤い警告灯に染まったコックピットに響き渡る。

「メーデー! メーデー! メーデー!」

機体は激しく揺れていた。操縦席の窓の向こうを厚い雲が流れていく。

やがて雲を抜けた。

眼下に現れたのは、見渡す限りの巨大な陸地だった。

さらにその先。海を隔てた場所に、もう一つの島影が見える。

機体は高度を失いながら、その方向へ落ちていった。


* * *


月明かりが、静かな部屋を淡く照らしていた。

寝台の中で、幼い少女が祖母を見上げる。

「おばあちゃん。また、あのお話して?」

「またかい?」

「うん。最初から!」

祖母は困ったように笑いながら、少女の髪を撫でた。

「むかしむかし、この国に九人の神様が空から降りてきました」

少女の瞳が輝く。

九神は人々を愛し、この地に多くの知恵を授けたという。

「ヘルメス様は、お話の神様?」

「ちょっと惜しいねえ」

祖母は笑った。

「ヘルメス様はね、どれほど遠く離れていても、ほかの神様たちと言葉を交わすことができたそうだよ」

「すごい!」

「でも、その不思議な力は私たちには使えなかった。だからヘルメス様は、私たちにもできる方法を教えてくださったんだ」

「どんな方法?」

祖母はすぐには答えず、少女の顔を見た。

「じゃあ、アウレリア。誰かに大切なことを教えてもらったのに、忘れちゃったらどうする?」

「……もう一回、教えてもらう」

「その人が、もうそこにいなかったら?」

「…………」

少女はしばらく考えた。

「……書いておく?」

「うん」

「絵にもしておく!」

「うん」

「そうしたら、その人がいなくても、また見られる!」

そこで少女の顔が、ぱっと明るくなった。

「何回も教えてあげる魔法!」

祖母は目を細めた。

「そうね。それを、記録っていうんだよ」

「それで? それで?」

「続きはまた明日」

「えー!」

「神様をそんなに急いで呼び出しちゃいけないよ」

祖母の笑い声に包まれながら、少女はやがて眠りについた。


* * *


十三年後。

月日の中で少女は成長し、十八歳になっていた。

金色の髪を揺らしながら、アウレリアは竪琴の弦を静かにつま弾いていた。

曲を終えると、傍らの皿へ手を伸ばす。蜂蜜を使った小さな菓子を一つ、そしてもう一つ。

しかしその手が止まった。

部屋へ入ってきたカリスが、何も言わずにこちらを見ているからだ。

「…………」

アウレリアは二つ目を、そっと皿へ戻した。

「アウレリア様」

「分かってるわよ」

カリスは何も言わなかった。

* * *

街へ出ると、祭りの日らしい賑わいが広がっていた。

「アウレリア様!」

声をかけてきた年配の住民へ、アウレリアは足を止めた。

「腰の具合はどうですか?」

「おかげさまで、ずいぶん良くなりましたよ」

アウレリアはほっとしたように笑った。

少し先では、子どもたちが駆け寄ってくる。

「アウレリア様、また九神様のお話して~!」

「九灯祭が終わったら、またいつもの広場でね」

子どもたちは歓声を上げたが、カリスを見るなり一人が叫んだ。

「カリス姉ちゃんだ! お仕置きされる~!」

笑いながら逃げていく子どもたちを見送り、カリスが頬を膨らませる。

「アウレリア様が『悪いことをしたらカリスにお仕置きしてもらわないとね』なんて言うからです」

「それも愛されてる証拠よ」

アウレリアは、ぷくっと膨らんだカリスの頬を指で軽く押した。

「もう……」

しばらく歩いたところで、カリスが空を見上げる。

「お祭りですね」

その一言で、アウレリアの表情が少し変わった。

今日、自分には大切な務めがある……。



その直後、蜂蜜菓子の店の前でアウレリアの足が止まった。

「……緊張している時には、甘いものがいいって」

「どこの情報ですか?」

「…………」

「アウレリア様?」

「……ハイ」

名残惜しそうに店を見ながら、アウレリアは再び歩き出した。

* * *

神殿へ戻ると、アウレリアは祭儀のための白い衣へ着替えた。

髪を整え、冠を戴き、笏を手にする。

カリスは、いつもより少し大きく息を吸うアウレリアを見ていた。

「参りましょうか」

「ええ」

二人は静かな回廊を進んだ。祭りの喧騒は遠ざかり、足音だけが石の床に響く。

神託の間の入口には、二人の神官が待っていた。

カリスはそこで足を止め、三人を中へ通す。

扉が閉じると、その前に立ち、警護に当たった。

* * *

九灯祭。

一年に一度、アウレリオンが過ぎた一年を奉納し、これからの一年を神託として受け取る日。

過去を話し、未来を聞く。

アウレリアがこの役目を担うようになって、今年で三度目だった。

白い布に覆われた縦長の鏡の前に立ち、一礼する。

布を外し、笏を脇へ置いた。

「アウレリオン、我ここにあり」

伝えられてきた所作を行い、最後に一度、手を打つ。

パン。

鏡が淡く光った。

神官から台帳を受け取り、アウレリアはこの一年の出来事を語り始める。

「八月頃、これまでにない大雨がありました。昨年の神託に備えていたため、大きな被害はありませんでした」

天候、災害、作物の実り、海の様子。そして人々の暮らし。

「秋には昨年より少ないものの、十分な収穫がありました。十月には海が大きく荒れ……」

報告を終えると、台帳を神官へ戻した。

アウレリアは鏡へ向き直り、両手を下から上へ静かに持ち上げた。

鏡の光がそれに応えるように動く。

パン。

奉納の儀が終わった。

アウレリアは一息ついた。

あと一つ。

これが最も大切な儀式、神託の儀。

これから一年、この国に何が起きるのか。

天候は。

天災は。

人々の暮らしは。

アウレリアが何より気にかけているのは、人々の暮らしだった。

だからこそ、それは最も知りたい未来であり、最も聞くのが怖い未来でもあった。

深く息を吸う。先ほどよりも大きく。

アウレリアは鏡に向き合い、神託の所作を始めた。

手の動きに合わせ、鏡に映るものが変わっていく。

示されたものを見定め、手を打つ。

パン。

ここで、未来の自分が一年の報告をする。

そのはずだった。

「……え?」

何も起こらない。

もう一度、同じ所作をする。

それでも鏡からのお告げはない。

「何も……起こらない」

声は冷静だったが、アウレリアの動揺は隠せなかった。

二人の神官も顔を見合わせる。少なくとも、伝えられてきた神託の歴史にはない出来事だった。

「初めに戻られては?」

神官の一人が進言した。

「はい。やってみます」

アウレリアは所作を行い、鏡に映るものを『始まりの場所』へ戻した。

すると、鏡の一角が青緑色に光っていた。

ゆっくり明るくなり、消え、また明るくなる。

「これ……何かのお告げかしら?」

「アウレリア様。それは神事の習わしにはございません」

「分かっています。でも、このままでは神託の儀を進められません」

アウレリアは伝えられてきた所作に従い、手を横へ動かした。光る印がそれに応じて動き、中央へ収まる。青緑色の光が、わずかに強くなった。

パン。

鏡に二つの形が並んだ。

一つは、今しがた奉納を終えた自分の姿。

そしてもう一つは、見覚えのない記号だった。

本来なら、そこには昨年の奉納の姿が映っているはずだった。

「これは?」

「奉納の記録……でしょうか」

神官の一人が答える。

見覚えのない記号だけが、青緑色に淡く明滅していた。

三人は顔を見合わせた。

ここまで来たら、確かめなければ進まない。

アウレリアは手を動かし、見覚えのない印を中央へ移した。その印が青緑色に変わる。

パン。

そこに映し出されたのは、異国の青年だった。

『……ん?』

黒い髪。黒い瞳。見たことのない服。

『これ、録画してる?』

青年が鏡の向こうでこちらに向かって手をかざす。

『カメラ……どこ?』

背景にあるものも、彼が口にする言葉も、何一つ分からない。

すべてが未知だった。

やがて青年の姿が消えても、三人はしばらく動けなかった。

アウレリアは、両手を下から上へ静かに持ち上げた。

鏡の光がそれに応えるように動く。

パン。

鏡に映るものは、再び『始まりの場所』へ戻った。

「…………」

やがて神官の一人が、ようやく声を絞り出した。

「あのお方は……いったい?」

もう一人が続ける。

「九神様のお一人、でしょうか?」

「…………」

アウレリアは答えられなかった。

頭の中をいくつもの可能性が駆け巡る。

だが、答えは出ない。

やがてアウレリアは唇をきりっと結び、鏡を見据えた。

「神託の儀、進めましょう」

「アウレリア様、しかし……」

「いいのです。先ほどの出来事が一体何なのか、何のお告げなのかも分かりません。でも、これから一年の民に関わることを、途中にするわけにはいきません」

アウレリアはもう一度、鏡を見た。

「また何か起これば、鏡が告げてくれるでしょう」

神官たちは短く顔を見合わせた。

「確かに仰る通りです。仰せのままに」

アウレリアは毅然と鏡の前に立ち、例年通りの所作を行った。

今度は、何の異常も起こらなかった。

鏡の中に、一年後のアウレリアの姿が現れる。

『夏の後半、雨の少ない日が長く続きました。水の不足により、一部の地域では作物にも影響が出ています』

未来のアウレリアは、一年の出来事を淡々と語っていく。

その言葉を、神官の一人が台帳へ書き留めた。

海はおおかた穏やかだったこと。地域によって収穫に差が出たこと。人々の暮らしに何が起きたのか。

アウレリアは一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。

やがて神託が終わると、アウレリアは両手を下から上へ静かに持ち上げた。

鏡の光がそれに応えるように動く。

パン。

鏡に映るものは、『始まりの場所』へ戻った。

「ふぅぅぅぅっ……!」

思わず、大きな息が漏れた。

ただでさえ緊張する儀式だった。

それなのに今年は、これまで経験したことのない出来事まで起きた。

奉納の儀も、神託の儀も、ひとまず終わった。

だが、一つだけ残った。

鏡に現れた、あの青年。

三人は顔を見合わせた。

「王に、ご報告いたしましょうか?」

「そうですね。これは……国家の一大事かもしれません」

「どのようにご報告いたしましょう?」

三人はしばらく時間を取り、起きたことの事実と、その流れを確認した。

神殿の扉を抜けると、待っていたカリスがすぐにアウレリアへ目を向けた。

いつもなら『お待たせしたわね』と声をかけてくれるはずだった。

だが、今日は違う。

「何があったんですか? 少し遅くなっています。何より、顔色が……」

「……後日話すわ」

カリスは、それ以上聞かなかった。

神託で何か災いを聞いたのかもしれない。そう思った。

* * *

回廊を抜け、三人は王のもとへ向かった。

本来なら、九灯祭の終了を報告するための、いつも通りの謁見だった。

だが、今年は違う。

王は三人を部屋へ通すと、ただならぬ空気を察した。

「何があった?」

「奉納の儀は、滞りなく進みました」

「神託か?」

何かあるとすれば、神託で災いが示されたのだろう。王はそう考えた。

「いいえ」

王の眉がわずかに動いた。

神官へ目を向け、次いでアウレリアを見る。そしてもう一度、神官へ視線を戻した。

「……では、何があった?」

「神託ではない……お告げ、でしょうか」

神官が言い淀むと、もう一人が続けた。

「奉納の儀が終わり、神託の儀を進めている最中、いつもの所作では先へ進めませんでした。代わりに鏡が見るよう示したのは、過去の記録でございました」

「過去の記録?」

「はい。記録は二つございました。一つは、先ほど奉納されたアウレリア様のお姿。そして、もう一つは……見覚えのないものでございました」

「見覚えのないもの?」

「はい。本来なら昨年の奉納が映し出されるはずの場所に、異国の青年の姿がございました」

「異国の青年だと?」

「はい。黒い髪、黒い瞳。見たことのない服装。そして背景に見えたのも、我々の知らぬ部屋の造りでございました」

王はしばらく考えた。

「鏡が、それを見るよう示したのだな?」

「はい。青緑色の光と共に」

「九神の御一方なのか?」

「分かりません」

「その後はどうした」

「アウレリア様のご決定により、神託の儀を続けることに」

「今度は滞りなく行えたのだな?」

「はい。その通りでございます」

王はゆっくりとうなずいた。

「よく分かった。勤め、ご苦労であった。今日はゆっくり休むがよい」

そして声を低くした。

「この件は内密に。よいな?」

二人の神官は恭しく礼をし、部屋を下がった。

残ったのは、王とアウレリアだけだった。

「アウレリアよ。そなたはどう見る?」

「まだ分かりません。ただ、鏡がお示しくださった以上、何かしら意味があるのではないかと」

「その記録からは、何が読み取れる?」

「それが……何も」

「どういうことだ?」

「黒髪の青年のように見えましたが、そのお方は何かを語るというより、戸惑いながら独り言を言っているようでした。まるで……私が初めて神託を受けた時のように」

王はしばらく黙って考えた。

「お告げか、九神の御方か、はたまた我らの知らぬ何かなのか……。いずれにせよ、鏡が我らに何かを示した。それだけは確かであろう」

「はい」

「議会への招集はいかがいたす?」

「今は、時期尚早かと」

「……うむ。私もそう思う」

王はもう一度考え、アウレリアへ向き直った。

「また何かが示されるかもしれぬ。可能な限りで構わない。今後は毎日でも、行ける限り神殿へ入り、鏡を確かめるようにしてほしい。巫女であるそなたに一任したいが、どうだろうか?」

「はい。お許しいただけるのであれば、私もそのようにしたいです」

「よし。この件は、しばらくアウレリア預かりとする。神殿への出入りについては私から手配しておこう。余計な詮索はさせぬ」

「はい。ありがとうございます」

話を終え、アウレリアが一礼して下がろうとした。

「アウレリア」

「はい?」

「……今日は、よく務めた」

アウレリアは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。

「……ありがとうございます。お父様」

* * *

街では、九灯祭の終わりを告げる鐘が鳴っていた。

家路につく者もいれば、まだ街で酒を酌み交わし、歌い、笑う者もいる。

この祭りは、感謝の祭り。

命を育むエウペリアへ。

そして、人々の暮らしを豊かにする知恵を残した九神へ。

人々は心に平安を抱きながら、祭りの夜を終えていく。

ただ一人、アウレリアを除いて。

* * *

それより、数日前。

2035年 東京・日本

ザーッ、ザーッ、ザーッ。

竹箒が石畳を擦り、落ち葉が一か所へ集められていく。

白衣に袴姿の青年が、黙々と神社の境内を掃いていた。

「拓海ー! ちょっとこっち手伝ってくれない?」

境内の奥から、女性の声が飛んできた。

青年が顔を上げる。

「はーい。今行くー!」

竹箒を手に、拓海は声のした方へ歩き出した。

* * *

母の成美は、社務所の脇に置かれた段ボール箱を指さした。

「これ、奥の倉まで運んでくれる? それと、せっかくだから御神体のところも軽く掃除しておいて」

「御神体?」

「そう。お父さんには話してあるから」

「了解!」

拓海は母に、ぴしっと敬礼してみせた。

そのまま箱を抱え上げる。見た目ほど重くはない。

社殿の奥へ回り、普段はほとんど使われない廊下を進む。突き当たりにある古い扉の前で箱を下ろすと、成美から預かった鍵を取り出した。

鍵を回す。小さく金属音がして、扉が開いた。

中には、祭具や古い文書を納めた箱が整然と並んでいる。さらにその奥。もう一つ、鍵のかかった場所があった。

そこに、この神社で代々守られてきた御神体がある。

拓海は二つ目の鍵を差し込んだ。

扉を開ける。

薄暗い空間の中央に、縦長の大きな鏡が立っていた。

楕円形の鏡面を囲むのは、金とも銀ともつかない、不思議な光沢を持つ金属の枠。古いもののはずなのに、目立った錆も腐食もない。

その傍らには、小さな勾玉が置かれていた。

乳白色の石のようにも、半透明のガラスのようにも見える。丸みのある部分には穴があり、古びた紐が通されている。

「相変わらず、変わった勾玉だよな」

小学生の頃、授業で滑石を削って勾玉を作ったことがある。先生にはずいぶん形を褒められた。

その時から、この御神体の勾玉だけは、どうにも普通の石には見えなかった。

拓海は雑巾を手に取り、まず鏡の周囲から埃を払った。

枠を拭く。やはり妙に滑らかだ。金属の継ぎ目らしいものも見当たらない。

「これ、何でできてんだろ」

独り言をこぼしながら、今度は鏡面を丁寧に磨いていく。

曇りが取れ、十九歳の自分の顔がくっきり映った。

拓海は少し前髪を整えた。

「……俺ってイケメン!」

言った直後、ちょっと恥ずかしくなった。

その時、ポケットのスマートフォンが震えた。

画面には、桜庭直樹の名前。

「もしもし?」

『拓海? 今いい? 例の課題なんだけどさ』

「課題?」

『ほら、提出するやつ。参考文献の指定、先生なんて言ってたっけ』

「あー……ちょっと待って。部屋に資料ある」

拓海は掃除道具を端へ寄せた。勾玉は鏡の近くに置いたままにする。

「今見てくる」

扉を閉め、自室へ戻った。

* * *

電話を切ったあとも、課題の資料を確認したり、直樹から送られてきたデータを見たりしているうちに、思った以上に時間が過ぎていた。

窓の外は、すでに夕暮れの色に変わっている。

「……あ」

机の上の時計を見て、拓海は立ち上がった。

「掃除、途中だった」

再び社殿の奥へ向かう。

御神体のある部屋の扉を開けた。

照明のスイッチへ手を伸ばしかけて、止まった。

「……ん?」

薄暗い部屋の奥。

鏡の枠の一部が、ごく淡い青白い光を放っていた。

明るくなり、消えかけ、また明るくなる。まるで、蛍の光のように。

そのすぐ近く。置いたままにしていた勾玉も、同じように淡く光っている。

拓海はスイッチから手を離した。

電気をつけないまま、ゆっくり鏡へ近づく。

「……これ、光ってる?」

昼間、磨いていた時には気づかなかった。

いや、光っていなかったのか。明るくて見えなかっただけなのか。

分からない。

拓海は鏡の枠と勾玉を交互に見る。

淡い光は、ほとんど同じ周期で明滅していた。

「……同期してる?」

少し迷ってから、勾玉を手に取った。

怖くないと言えば嘘になる。

十九年間、この神社で育ってきた。神社だから怪奇現象が起きる、などというのは外の人間の発想だ。少なくとも、御神体が勝手に光ったことなど一度もない。

それでも、足は鏡へ向かっていた。


何だ、これ。

知りたい。

拓海は勾玉を、光っている枠へそっと近づけた。

数センチ。

その瞬間、淡かった光がはっきりと強くなった。

「うわっ」

青白い光が枠を走る。

そして、鏡面から拓海の姿が消えた。

漆黒。

「…………え?」

拓海は反射的に照明のスイッチを入れた。

部屋が明るくなる。

だが、鏡の中に明るくなった部屋は映らない。

拓海は顔を近づける。右へ動く。左へ動く。

どこにも自分は映らない。

「鏡だろ、これ。俺のイケメンが映らない!」

一拍置いて、自分で首を振った。

「いや、そこじゃない」

漆黒の面に、白い文字が浮かび上がった。

INITIALIZING...

拓海は最初の文字を読んだ。

「起動準備中……?」

「これじゃまるでディスプレイだろ」

そう言いながら、次に何をするのか考えた。

「今、待機状態? なら次はログインだよなぁ」

やがて文字が切り替わった。

AUTHENTICATION REQUIRED

VOICE PASSCODE

「認証……音声パスコード?」

「何言えばいいんだよ」

拓海は鏡に向かって、半分ふざけるように言った。

「チチンプイプイ!」

無反応。

「アブラカタブラ!」

無反応。

「テクマクマヤコン!」

無反応。

「ひらけ~ゴマ!」

無反応。

「…………んなわけないかぁ!」

自分で言って、小さく笑った。

少し怖い。だからこそ、喋る。

「名探偵、拓海。ただいま推理中」

腕を組み、鏡を見つめる。

「これ、ディスプレイ。でも今までこれはただの鏡だった。たぶん何百年も」

視線が勾玉へ移る。

「だけど残った。いろいろ。勾玉もただの飾りじゃない。神器は鏡と勾玉でセット」

「使い方が全部なくなってたら、俺に分かるわけない」

独り言を言いながら、頭を整理していく。

そこで、ふと顔を上げた。

「でも……残ったもの、これ以外ない?」

拓海は改めて御神体の間を見回した。

鏡。勾玉。祭具。

そして、小さい頃から毎年のように見てきた父の神事。

「…………」

「んんん?」

拓海の目が見開かれた。

「ある!」

鏡の前に座り直す。

さっきまでとは顔つきが違う。

小さい頃から何度も耳にした、意味の分からない神事の言葉。

毎年この神社で行われる祭りの、最も大切な神事で、父がいつも口にしていた言葉。代々受け継がれてきた作法。

拓海は、記憶の中の音をそのまま口にした。

「あうれいよんえごぇなで」

一瞬の沈黙。

VOICEPRINT ACCEPTED

AUTHENTICATION SUCCESSFUL

SESSION INITIALIZING...

「…………!」

「っしゃー! だろ? だろ? 俺って天才!」

画面がほんのりと青緑色に光った。

一瞬、中央に文字が浮かぶ。

HOME

その文字が消えると、四つの文字列が東西南北のように並んだ。

上に、ORACLE。

左に、REVIEW。

右に、COMMUNICATION。

下に、RECORD。

中央では、青緑色の楕円が淡く光っている。

ORACLEとREVIEWは薄い灰色。COMMUNICATIONとRECORDだけは、はっきりと白く表示されていた。

「オラクル……神託。レビューは……記録を見る?」

「コミュニケーション……通信。レコード……録画、いや記録か」

拓海はしばらく画面を見つめた。

「…………これ絶対、宇宙人が古代に残したやつだろ!」

誰もいない御神体の間に、声が響いた。

「で、次はどうすんの?」

まず画面へ人差し指を伸ばす。

触れる。

反応はない。

指で横へ滑らせる。

やはり何も起こらない。

「タッチパネルじゃない?」

今度は画面に触れず、掌を左右へひらひらと動かしてみる。

文字列が動いた。

「おっ!」

もう一度、右へ。

文字列が拓海の手を追うように滑っていく。

「左右に動くじゃん! 非接触画面スクロール!」

すっかり怖さを忘れていた。

「上下は?」

片手を上へ動かす。

反応なし。

下へ。

やはり動かない。

「んん?」

首を傾げる。

「これ、スマホのマップスクロールみたいな感じかな?」

両手を前へ出し、上下へ動かしてみる。

画面が動いた。

「ビンゴ!」

拳を天井へ突き上げる。

「イェーェイ!」

静寂。

「…………で?」

拳を下ろした。

何度か操作を繰り返すうち、もう一つ分かった。

灰色のORACLEを中央の楕円へ合わせる。

何も変わらない。

REVIEWも同じだった。

だが、COMMUNICATIONを中央へ合わせると、文字が青緑色に光った。

「……こっちは使える」

続いてRECORDを合わせる。

こちらも青緑色に変わった。

「上と左はグレーアウト。右と下は生きてる……」

「ログインはできた。でも全部使えるわけじゃない」

少し考える。

「俺、一般ユーザー扱い?」

拓海はRECORDを中央へ戻した。

文字が青緑色に光る。

「真ん中の光るマルに文字を合わせると、文字が光る。これ、”選択してる”でいいんだよな?」

「で? 決定は?」

もう一度、神事の言葉を口にする。

「あうれいよんえごぇなで」

無反応。

勾玉を鏡へ近づける。

無反応。

「これでもない」

少し考え、画面に向かって言った。

「こいつ英語通じるのかな?」

「Can you speak English?」

無反応。

「Select」

無反応。

「Enter」

無反応。

「OK!」

無反応。

「Confirm!」

無反応。

「……決定!」

無反応。

「日本語じゃダメか」

ダブルタップ。長押し。掌を突き出す。

どれも反応しない。

RECORDだけは、中央で青緑色に光り続けている。

「選択まではできてると思うんだけどなぁ……」

もう一度試す。

ダメ。

「あと決定だけだろ、これ」

拓海は眉間に皺を寄せた。

あと一歩。

もう少し。

「くっそ……惜しい!」

無意識に左手が動いた。

パチン!

指を鳴らす。

その瞬間、画面全体が一度、強く光った。

RECORDING

「…………え?」

拓海の動きが止まる。

画面を見る。

漆黒だった画面に、突然、自分の顔が映った。

「……ん?」

顔を近づける。

鏡じゃない。

Webカメラで自分を映した時のような映り方だ。


「これ、録画してる?」

画面の前へ手をかざす。

「カメラ……どこ?」

画面の下に、小さな文字が浮かんでいることに気づいた。

END

「え、ちょっと待って。これ止めるやつだろ!」

拓海は画面へ触れる。

反応しない。

「そうだ、手!」

両手を下から上へ動かす。

画面下のENDが持ち上がり、中央の青緑色の楕円へ収まった。

文字が光る。

「これだ!」

拓海は一瞬止まり、左手を見る。

「……さっき、何した?」

「確か……」

パチン!

左手の指を鳴らす。

RECORDING COMPLETE

画面はHOMEへ戻った。

「…………」

「正解だった」


拓海は興奮気味に、鏡と勾玉を見比べた。

青緑色。エメラルドとも、翡翠ともつかない光を放つ二つの神器。

いつの間にか、新しいパソコンやソフトでも試すような感覚で夢中になっていた。それが何なのかさえ、忘れて。

そこで、ふと我に返った。

「…………待て待て待て!」

これはパソコンではない。

古くから、この神社に伝わってきた神器だ。いつからここにあるのかさえ、はっきりとは分からない。

そんな古い遺物が光を放った。

そこまでなら、まだいい。

怪奇現象で済ませられる。それも驚きなのは違いない。

だが。

事もあろうか英語を表示した。

さらにそれだけではない。

どう見ても現代のテクノロジーとしか思えない、非接触型のスクロール操作まで、ぶちかましてくれた。

「…………」

拓海はこめかみを押さえた。

「頭痛くなってきた」

今日は、ここまでにした方がいい。

鏡と勾玉を元の場所へ戻し、御神体の間を出る。

扉に鍵をかけてからも、拓海はしばらくその鍵を見つめていた。

* * *

月曜日。

憂鬱な一週間の始まり。

朝の日課をこなし、パンをくわえたまま、靴のかかとを踏みつぶすように履いて自転車へ飛び乗る。

昨日、直樹から電話で聞かれた講義のことも気になっていた。

だが、それ以上に頭から離れないものがある。

あの鏡だ。

講義室の座席に座ってからも、拓海は昨日のことをぼんやり考えていた。

隣に座った直樹が声をかける。

「拓海、おまえどうした?」

「何が?」

「シャーロック・ホームズの漫画貸した時と同じ顔してるぞ」

「そうか? まあ、そんなとこだな。考古学オタクの宿命」

「なんか分かったような、分からんような。とにかく謎なわけだな?」

「その通りでございます!」

「分かった。なら、これ以上何も聞かねー」

「かたじけない!」

「ジャムパンでもかじっとけ!」

無造作に投げられたジャムパンを、拓海は受け取った。

「サンキュー!」

* * *

全ての講義が終わった。

今日はバイトがない。

家に帰る。

そして。

鏡が気になる。

「ただいま~!」

「おかえり~」

「ちょっと本殿にこもってる。調べたいことがあるんで」

「あらそう? あんたの好きな唐揚げなんだけどね!」

母は当然、いつものように返ってくると思っていた。

「それなら食べてからにする」という言葉を。


「ありがと~。後で食べるから、三分の二は残しておいて!」

母は目を丸くした。

すぐに食べないなんて珍しい。

しかも三分の二。うちは四人家族なのだが。

母は本殿へ急ぐ息子の背中を、しばらく目で追っていた。

* * *

御神体の間へ入る。

昨日と同じように鏡と勾玉を取り出した。

昨日と同じように起動し、祭詞を唱える。

認証は問題なく通った。

HOME。

昨日はRECORDを試した。というか、作動してしまった、が正しい。

なら、今度は。

COMMUNICATION

「……通信」

拓海は掌を動かし、COMMUNICATIONを中央へ合わせた。

文字が青緑色に光る。

「選択されてる」

昨日は偶然だった。

でも今日は違う。

拓海は左手を上げた。

パチン!

ぼわっと文字が浮かび上がった。

CONNECTION REQUEST SENT

AWAITING APPROVAL...

「接続要求を送信しました……」

「承認待ち……?」

拓海は画面を見つめた。

「…………誰に?」

送信相手がいる。

どこに?

一度終了してHOMEへ戻り、もう一度試した。

同じだった。

CONNECTION REQUEST SENT

AWAITING APPROVAL...

勾玉を近づけても変わらない。祭詞を唱えても変わらない。

「承認ってことは……俺じゃどうにもできないってことか」

拓海は腕を組み、画面を見つめた。

* * *

同じ頃。

アウレリオン。

王に命じられた通り、アウレリアは神託の間を訪れていた。

あの日から、可能な限り毎日、鏡を確かめている。

鏡を始まりの場所へ戻す。

そこで、アウレリアは足を止めた。

「…………?」

鏡の一角が、ゆっくりと青緑色に明滅している。

先日、異国の青年の記録を見つけた場所とは違う。

アウレリアはしばらく、その光を見つめた。

「あの方……なの?」

確証はない。

それでも、確かめずにはいられなかった。

伝えられてきた所作で、光る印を中央へ移す。

パン。

* * *

2035年。

AWAITING APPROVAL...

その文字を眺めていた拓海の目の前で、画面が変わった。

REQUEST ACCEPTED

ESTABLISHING CONNECTION...

「え? 承認された?」

真っ黒だった画面が急に明るくなった。

まるで、そこだけ壁が消え、窓の向こう側を見ているように視界が開けた。

そして、そこに映っていたのは一人の少女だった。

金色の髪。エメラルドグリーンの瞳。色白の肌。

身にまとっているのは、どこか古代の王族を思わせる衣装だった。

お姫様のコスプレマニア?

拓海の頭には、まずそんな言葉が浮かんだ。

(えっ、可愛い。タイプかも)

心の声が相手に聞こえそうなほど強くそう思った。

いや、待て。

通信だ。

相手がいる。

たぶん英語なら通じる。

でも、いきなり変なことを言って嫌われたくない。

せっかくつながったのだ。できれば、お近づきになりたい。

焦る気持ちを抑え、相手の様子をうかがった。

少女は、わずかに後ろへたじろいでいる。

「ちょっと後ろに引いてるなぁ……」

拓海は少女の表情を見た。

少女の視線を追った。

そして、動かす手を目で追った。

急に距離を詰めるのは、やめた方がいい。

拓海はゆっくり右手を上げた。

小さく手を振る。

「……Hello?」


少女の目が大きく見開かれた。

次の瞬間、こちらへ近づいてくる。

拓海は何か良い反応を期待した。

ところが、鏡の前まで来ると、彼女は両手を下から上へ持ち上げた。

拓海には、その仕草の意味が分からない。

そして、両手を打ち合わせる。

パン。

その瞬間。

画面は再び、漆黒に戻った。

拓海は何が起きたのか分からず、ただ真っ黒になった画面を見つめていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


『アウレリオンの鏡』は全12話を予定しています。

拓海とアウレリア、そして鏡の向こうにある世界を、一緒に見届けていただけたら嬉しいです。

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