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  作者: ひな
8/8

エピローグ



りさが生まれた日のことを、よく覚えている。


――あの日が、あの子が、私の人生の唯一の光だった。


私は社内恋愛で夫と結婚した。

結婚を機に仕事を辞め、「女は結婚することが最大の幸せ」だと信じていた。

みんなに祝福されて、これで自分も“正解の人生”の仲間入りをしたのだと、心の底から安心していた。


けれど、その理想はすぐに打ち砕かれた。


夫は結婚してから本性をあらわした。


女は家を守れ、専業主婦は口を出すな。

なにか気に食わないことがあると、


「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ!」


と怒鳴り散らした。

事実だから言い返せない。

専業主婦は、思っていた以上に立場が弱かった。


それでも私は、「子どもが生まれれば、何かが変わるかもしれない」と信じていた。


妊娠がわかったとき、胸は期待でいっぱいになった。


りさを産んで、はじめてこの手に抱いた時は、出産の痛みも全て吹き飛ぶほどの幸福に満ちていた。


たまのように可愛らしいとはこの事かと実感した。


この小さな命が愛おしくて愛おしくてたまらなかった。


あんなに満ち足りた瞬間は、後にも先にもない。


けれど、夫は何も変わらなかった。

育児は「母親の仕事だろう」と言って、りさにほとんど目もくれない。

りさが夜泣きをしたときも、夫は


「うるさい!! どうにかしろ!!」


と私を責めた。


私と夫とりさは、ひとつ屋根の下に暮らしている「家族」のはずなのに。

夫だけ違う場所にいる気がする。

夫婦というのは形だけの器でしかない。


所詮他人なんだ。


私の痛みも、孤独も、わかってもらえるはずがない。

辛くて生きるのを辞めたいと思うこともあったが、私にはりさがいる。


この小さな命だけが、私の生きる意味であり、希望そのものだった。


私は、夫に期待するのを止めた。

夫は金銭的に家庭を支えてくれている。

それだけで十分だ。


それが夫なりの、家族への愛情の注ぎ方なんだ。

そう自分自身に言い聞かせて、納得するしかなかった。


りさは、小さな頃から控えめで優しい子だった。

公園ではお友達におもちゃを横取りされても、悲しそうな顔をするだけ。


優しすぎる子だった。


家の中ではいつも夫の顔色をうかがい、小さな肩をすくめていた。


――この子は、この世界の荒波に耐えられるだろうか。


私は不安だった。

だからこそ、「自信」という鎧を、どうしてもあの子に着せたかった。


なにかひとつでいい。


人に胸を張って言える「とりえ」があれば、それがあの子の支えになる。

私にできなかったことを、この子にはさせてあげたい。


妥協で専業主婦になるのではなく、自分で選んだ道を歩いてほしい。

その一心で、私はりさに言い続けた。


――何かひとつでいいから、一番になりなさい。


宿題も、テスト勉強も、いつも隣で一緒にやった。

りさは真面目で、飲み込みの早い子だった。

テストの点も良く、ノートもきれいで、その横顔を見るたびに誇らしくなった。

あの子ならきっと、大丈夫だと信じていた。


けれど、家庭は静かに壊れていった。


夜遅くに帰ってこなくなった夫。

増えていく「残業」の言い訳。

ふとした仕草や匂い。


疑いながらも見て見ぬふりをしていたけれど、ある日、見てしまった。

私が知らない女と腕を組んで、まるで恋人のようにホテルに入っていくところを。


見たくなかった。


私はあんなに優しく笑う彼を、何年も見ていなかった。


知らないままでいられれば、自分の気持ちに蓋をして、夫婦という仮面を被ることも、全部りさのためだと耐えられたのに。


気持ち悪い。

彼の浅はかな行動が。

裏切りが。


もう、生理的に受け付けなかった。


――この人はもういらない。私が、りさを守る。


離婚の理由は、りさには詳しく話さなかった。


父親の裏切りを、そのままあの子の中に流し込みたくなかったからだ。

それからは、とにかく働いた。


朝から晩まで、身体を削るように働き続けた。


気がつけば、りさが寝ている時間にしか帰れない日が増えていた。


独身時代に働いていた会社でも、私は器用に立ち回れるいわゆる「優秀」な社員ではなかった

それはただ主婦として年齢を重ねた今でも変わらなかった。


自分の要領の悪さが嫌になる。

上司には毎日のように嫌味を言われ、部下に陰口をたたかれる。

仕事が終わらず、誰よりも遅くまで残っていた。


毎日が戦争だった。


帰り道は、今にも倒れそうになりながらも、なんとか家にたどり着く。

暗い部屋で、小さく寝息を立てるりさの横顔を見ると、どんな疲れも一瞬で消えた。


台所に食べかけのカップラーメンが置いてある。

りさの夕飯の準備もしないまま、机に1000円だけ置いて行く日もたくさんあった。


私がもっと器用に生きられたなら。


惨めさと、りさへの申し訳のなさで、涙が堪えられなかった。


指先で髪を撫でながら、「ごめんね」と心の中で何度も謝った。


あの子のために頑張っているはずなのに、あの子と過ごす時間だけが減っていく。


あの日も、私はくたくたに疲れて帰ってきた。

台所で買ってきた惣菜の袋を片付けていると、背中越しに小さな声がした。


「……お母さん」


振り向くと、りさがテスト用紙を握りしめて立っていた。

今にも泣き出しそうな顔。

白い紙に並ぶ赤い数字。


見慣れた高得点ではなく、そこには赤点が並んでいた。


手が止まった。


あの子の震える肩を見ていると、胸の奥がきしんだ。

仕事の疲れと、自分への苛立ちと、これまで積み重ねてしまった「期待」が、一気に押し寄せてきた。

――私が、この子を追い詰めた。


後悔と、懺悔。愛おしさ。悔しさ。疲労。


「もう……好きにしなさい」


感情がぐちゃぐちゃになって、口をついて吐き出された言葉。


りさの目が、大きく揺れた。


その顔を、私はまともに見られなかった。


本当は、「もうこれ以上、頑張れなんて言えない」と伝えたかった。


「生きていてくれるだけでいい」と、抱きしめたかった。


けれどあの時の私は、うまく言葉を選べなかった。


ただ短く、そう言ってしまった。


母親失格


そんな烙印が押された気持ちになった。



りさが十六歳のとき、私の身体は限界を迎えた。


ある朝、出勤の準備をしている最中に、頭に激痛が走った。


床が遠くなり、視界の端が黒く染まっていく。


目が覚めた時、知らない天井を見上げていた。

辺りを見渡そうと思っても体が動かなかった。

声を出すことすらできない。

すぐにりさの顔が思い浮かんだ。


医者の声も、機械の音も、遠くで水が流れているようにしか聞こえない。


「くも膜下出血です」


誰かがそう言った気がする。


ベッドに横たわりながら、私はぼんやりと天井の白を眺めていた。


そのうち、天井は溶けていき、頭の中に次々と映像が浮かんだ。


よちよちと歩き始めた頃のりさ。

ランドセルを背負って振り返るりさ。

眠そうな目をこすりながら、漢字ドリルに向かっていたりさ。

テスト用紙を震える手で差し出してきたあの日のりさ――。


あの子のことばかりが、走馬灯のように巡った。


もう、言葉を発することもできなかった。


それでも、どうしても伝えたい言葉があった。


――幸せは、自分で掴むのよ。


あの子がこの先どんな人生を選んでもいい。

誰かにとっての「正解」じゃなくていい。

りさ自身が「これでいい」と思える道を、胸を張って歩いていってほしい。


――幸せになってね。


喉の奥で言葉が潰れていく。

けれど、心の中で何度も何度も繰り返した。

幸せになってね。


生きて。

生きて、生きて。


私の届かなかった場所まで、行って。

最後に、あの子の名前を思い浮かべる。


梨のようにみずみずしく、

沙のようにさらさらと、自由にどこへでも流れていけるように――。


そう願ってつけた名前だったことを思い出す。


眩しい光が、遠くで揺れた。


私の唯一の光。


どうか、 いつか、心から笑ってくれますように。

――そう祈りながら、私は静かに目を閉じた。



「大好きよ。梨沙」


愛ってなんですかね

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