-1-
ふぁ……っ、と大きなあくび。
アンジェは中庭のベンチに腰かけたまま、ぼんやりと空を見上げていた。
夜中に雨を降らせていた雲はゆっくり流れ、お屋敷の小さな庭を暖かい日差しが包む。
草の香りをはらんだ風。くすんだモーブピンクのデイドレスの裾がなびく。
明るい茶色の髪に結んだ、華やかで大きなリボンが揺れる。
「また旦那様の書斎から勝手に本を持ち出したのですねお嬢様」
後ろからの声。口元に当てた手がビクッと止まる。
「よ、夜更かしはしておりませんわ!」
アンジェは言い返しながらパッと振り向いた。
執事のゼフが、深くお辞儀をしている。
「自白ですか」
「違いますわ!」
ピシッとした黒のテールコートに、シルバーグレイのウェストコート。両手には白手袋。
……相変わらず、隙が一つもない。
口を軽くとがらせながら、アンジェはゼフをジトーっと見た。
ゼフはゆっくり顔を上げて、わざとらしくため息をついた。
「ストーンリー伯爵家のお嬢様ともあろうお方が、探偵小説ですか」
「探偵小説が面白いのがいけないのですわ」
ゼフったら、相変わらずチクチクと。
アンジェはムッとして、頬を膨らませる。
「もしこの家に生まれていなかったら、わたくしきっと探偵になっておりましたわ」
「お嬢様が?」
ゼフはわずかに眉を寄せた。
「難事件や謎さえあれば、わたくしがあっという間に解決してみせますのに」
そしてクイッと首をかしげる。
「どちらかといえば、お嬢様は探偵よりも犯人に狙われる側です」
「そんなことありませんわ!」
「いいえ」
ゼフは目を閉じて、首を左右に振る。
「お嬢様は他人の悪意に鈍感……いえ、ポンコツでいらっしゃいますので」
「どうしてわざわざ言い直しましたの? 鈍感までならフォローになっておりましたのに!」
アンジェは両手をバタバタと振り回して抗議する。
ゼフは右手を胸に当てて、うやうやしく──少しわざとらしいくらい丁寧に、頭を下げた。
「失礼いたしました。……お嬢様はおポンコツでいらっしゃいますので」
「お、を付ければいいというものではありませんわー!」
アンジェはさらに頬を膨らませ、ツンとそっぽを向いた。
ゼフは、いつもこの調子。
口うるさくて、注意ばっかりで。
(わたくしの執事なのですから、もう少し敬意を持っていただきたいですわ!)
子どものころは、一緒に遊んだり笑ったり。もうちょっと優しかった気がする。
横を向いたまま、じっ、とゼフに視線を向ける。
すっと背筋も伸ばしたまま、表情一つ変えずに立っている。
(そのうち、難事件を見事に解き明かして、ゼフのわたくしを見る目を変えて差し上げますわ)
アンジェは、そっとため息をついた。
「どこかにわたくしの助けを必要としている人はいないかしら」
そうつぶやいて、首から下げたロニエットに手を伸ばす。
くすんだ真鍮のフレームにスミレの花蔓の装飾が施された、オペラ観賞用の柄付き眼鏡。父が病に臥せる前に貰ったものだ。
もっとも、いつも寝てしまうせいでオペラを見るために使ったことはない。
目に当てて、庭を見渡す。
アンジェが今暮らしている離れの建物は、蔦が伸び放題になってしまっている。
今は水が出なくなってしまった噴水。木枠だけが残るバラ園。
ハーブ園も、今は雑草で荒れてしまっている。
周囲には鳥のさえずる声だけ。
人の気配と言えば、視界の隅に手提げのカバンとハシゴを担いで庭の外へ向かう庭師がいるくらい。
(お父様が御病気でなければ、もっとちゃんと手入れできますのに)
少しだけ寂しさを感じて、アンジェは思った。
けれどこの静けさも、落ち着いていると思えばそんなに嫌ではない。
さらに遠くへ目を向ける。
庭から外へ続く小道。その先に灰褐色の豪華な建物が見える。
広い庭の隅々まで手入れの行き届いたきらびやかな本館。
そこで暮らしている継母とその連れ子である義姉を思い出して、アンジェはロニエットを下ろした。
継母は、本家筋に当たる公爵家から父の後妻としてやってきた方。
義姉はその連れ子にあたる。
……ちょっと気難しい方々、とアンジェは感じていた。
継母はいつも扇子で表情を隠していて、あまり笑顔を見せてくれない。
(きっとまだ、当家に慣れていらっしゃらないせいだわ)
わたくしがもっとしっかりお支えしなければ。
義姉のフレイに至っては、「ずいぶんと古いドレスをお召しなのね」とか「伯爵令嬢でありながら自ら庭いじりをするなんてみっともない」と口を出してくることが多い。
アンジェも頑張って、「アンティークのドレスなのです。一目で見抜くとは、さすがお義姉さまですわ」「お花の手入れも、だいぶ上達してまいりましたの」と、フレイと仲良くなろうとしているものの、いつも話の途中で急に席を立ってしまったり、「もういいわ」とため息をつかれてしまう。
(お義姉さまがせっかく気を遣ってくださっておりますのに、うまくお話できておりませんわ)
数少ない身内どうし。いろいろな事情があるとは言っても、仲良くするに越したことはない。
そう思いながら、アンジェはロニエットから手を離した。
「お嬢様、本日は午後からフロイドさまがお越しになる予定でございます」
ゼフが、懐中時計を確かめながら言った。
「フロイドさまは、今日も本館に立ち寄ってからおいでになるそうです」
「わかっておりますわ」
アンジェは、一拍遅れてにこやかに笑みを浮かべた。
(きっとお継母さまやお義姉さまにも、きちんと気を遣ってらっしゃるのですわ)
──フロイドさま。
いつも紳士的で、優しく接してくれる、大人の余裕を感じさせる立派な人。
祖父の決めた、わたくしの婚約者。ラプスリー財閥の御曹司。
お仕事がお忙しくて、なかなかお会いできないけれど。
それでもなにかと理由をつけて様子を見に来たり、贈り物を届けてくれたり。
……時々、なにを考えてらっしゃるのかわからなくて不安になるけれども。
それでも、「ゆっくり、お互いのことをわかっていけばいい」と、柔らかな笑みを浮かべてくれた、お家のためにも大切なお方。
だから、がんばって好きにならなくては。
「さあ、フロイドさまをお迎えする支度をいたしましょう」
アンジェは、勢いをつけてベンチから立ち上がった。




