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百合キス短編集:望まぬキスに囚われる女の子たち  作者: のは


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瑠璃と莉子、心まで覆いつくすキス

 瑠璃は、自分の唇が嫌いだった。

 生まれつき少し厚めの唇。


 子供の頃は何気ないからかいだった言葉も、成長するにつれて少しずつ胸に積み重なっていった。

 そのせいで、人前で笑うのが苦手になった。


 いつしか誰かと目を合わせるのも苦手になり、口元を覆うマスクが手放せなくなり、人前では自然と俯きがちになる。


(誰にも見られたくない……変だって思われたくない)


 そんな気持ちが、ずっと心のどこかにあった。


 だから瑠璃は目立つことが苦手だった。

 大勢の前に立つことも、自分の意見を強く主張することも、誰かとぶつかることも、

 何より、自分から勇気を出すことが苦手だった。


 そんな瑠璃にとって、映像制作サークルは居心地の良い場所だった。


 小さな頃から瑠璃は映画が好きだ。

 スクリーンの中で生きる登場人物たちが好きだった。


 誰かの物語を見ていると、自分も少しだけ勇気をもらえた気がした。


 だから大学に入ると迷わず映像制作サークルへ入った。

 もちろん役者ではない、裏方としてだ。


 撮影補助。機材管理。編集。

 誰かを支える仕事。


 その方が自分には向いていると思っていた。


 実際、瑠璃は裏方としてとても優秀だった。

 誰よりも周囲を見ていて、足りない物があれば気づく。

 困っている人がいればそっと助ける。

 撮影が円滑に進むよう細かな気配りを欠かさない。


 本人はまったく気づいていなかったが、サークル内での瑠璃の評判はかなり良かった。


 ただ、その評価を本人に伝える人はあまりいなかった。

 瑠璃があまり他の人と話すことが得意ではないと皆知っていたからだ。


 だから今日も、瑠璃はいつも通りカメラを構えていた。

 大学近くの河川敷、自主制作映画の撮影現場。


 ファインダーの向こうでは、一人の女性が風を受けながら演技をしている。


 長い黒髪。整った顔立ち。

 自然と人の視線を集める存在感。

 映画の主演、そしてサークルの先輩である莉子だった。


 部長の声が飛ぶ。


「はいカットー!」


 現場の空気が一気に緩む。

 瑠璃もようやくカメラから目を離した。


 そして小さく息を吐く。


(……やっぱり綺麗だな)


 思わずそう思ってしまう。

 演技も上手い。人望もある。誰とでも自然に話せる。


 瑠璃とはまるで正反対の人だった。

 だからこそ尊敬している。


 人と話すのが苦手な瑠璃も尊敬する先輩の莉子と話すのは好きだった。

 少なくとも数日前までは。


「……」


 視線の先で、サークルの仲間たちと話している莉子。

 楽しそうに笑っている。


 けれど、ふと瑠璃と目が合いそうになった瞬間、莉子は少しだけ視線を逸らした。


 瑠璃も慌てて目を逸らす。

 気まずい、どうしようもなく気まずい。


(ちゃんと返事しなきゃいけないのに……)


 胸が重くなる。

 原因はわかっている、全部、自分のせいだ。


 数日前の出来事が、今も二人の間に残り続けていた。


 ---


 ――数日前。


 自主制作映画の撮影中に莉子は足を怪我した。

 大した怪我ではないと本人はそう言っていた。


 だから撮影は続行されたが、瑠璃は気づいた。



 休憩時間に人気のない場所で一人座り込む莉子の姿や少しだけ歪む表情、痛みを隠そうとしていることを。


(やっぱり莉子先輩、怪我してる)


 気づいてしまったら放っておけなかった。

 瑠璃は救急箱を持って駆け寄る。


「莉子先輩……大丈夫ですか?」


 莉子が驚いた顔をする。


「え?」


「足……痛いですよね」


「なんでわかったの?」


「歩き方……少し変だったので」


 莉子が目を丸くすると、瑠璃は少しだけ焦る。


(莉子先輩、怪我を隠したがっていたのに余計なお世話だったかな……)


 だが、莉子はふっと笑った。


「瑠璃ちゃん、すごいね」


「え?」


「全然隠せてると思ってた」


 そう言われると、少しだけ嬉しかった。

 瑠璃は黙って絆創膏を取り出すと、しゃがみ込み、丁寧に手当てを始める。


 その間、莉子はずっと瑠璃を見ていた。


(瑠璃ちゃん、優しいな……本当に優しい)


 莉子は昔から女の子が好きだった。

 誰にも言えなかった。

 そんなこと言えば変だと思われるかもしれない、気持ち悪いと思われるかもしれない。


 そう思っていたから、そのことは隠して生きてきたし、人を好きにならないように必死に自制してきた。


 けれど、瑠璃だけは特別だった。

 人のことをよく見ている。

 優しくて、繊細で、不器用で、放っておけない。


 (瑠璃ちゃん……)


 気づけば目で追うようになっていた。

 気づけば好きになっていた。

 瑠璃のそんなところにどうしようもないくらい惹かれてしまっている。


 だから、手当てをしてくれる瑠璃を見ていたら、胸の奥に溜め込んでいた気持ちが、抑えきれなくなった。


「瑠璃ちゃん」


「はい?」


 顔を上げた瑠璃と目が合う。

 その瞬間、思わず莉子は言ってしまった。


「私、女の子のことが好きなの。……瑠璃ちゃんのこと好きなんだ」


---


「私、女の子のことが好きなの。……瑠璃ちゃんのこと好きなんだ」

 

 突然の告白をした莉子だったが、言った本人が一番驚いていた。

 莉子の頭が真っ白になる。


(何言ってるの私!?)


 けれど、もう誤魔化そうにも遅く、瑠璃は完全に固まっていた。


「え……?」


 唇が小さく震える。

 莉子は心臓が壊れそうで、逃げ出したくなる。


 でも目は逸らせなかった。

 瑠璃の返事を待つ。

 ただひたすら待つ。


 長い沈黙。

 やがて瑠璃は小さく俯いた。


(拒絶される……)


 莉子はそう思った。

 当然だ、女同士なのだから。


 困らせてしまった。

 嫌われるかもしれない。


 次の瞬間、瑠璃は震える声で言った。


「……ちょっと、考えさせてください」


 莉子は目を見開く。

 拒絶されなかった、それだけで胸がいっぱいになった。


 ---


 莉子からの突然の告白に、瑠璃は完全に固まっていた。


「え……?」


 頭が真っ白になる。

 今、何を言われたのか理解できない。


 いや、言葉の意味はわかる。

 わかるのに、現実感がなかった。


 あの莉子先輩が、自分のことを好きだと言った。


(なんで……?)


 最初に浮かんだのは、それだった。


 純粋な困惑。

 だって、意味がわからない。


 莉子先輩は明るくて、優しくて、誰からも好かれている。

 演技だって上手くて、人を引っ張る力もある。

 自然と周囲の中心にいる人だ。


 一方の自分はどうだろう、人前に出るのが苦手。

 自分の意見もろくに言えない。

 目立つことが嫌いで、いつも人の後ろに隠れている。


 マスクだってずっと外せない。

 そんな自分のどこを好きになるというのだろう。


(何か勘違いしてるんじゃ……)


 そんな考えまで頭に浮かぶ。

 どう考えても釣り合わないと思ったし、理解できなかった。


 莉子はそんな瑠璃の困惑を知らず、不安そうに返事を待っている。


 その顔を見た瞬間、胸が痛くなった。


 莉子のことは好きだ。

 恋愛感情ではない。


 尊敬している。憧れている。

 一緒にいると安心する、頼れる先輩だと思っている。

 

 けれど、恋人になるという話は別だった。


(女の子同士で……付き合う……?)


 考えたこともなかった。

 否定するつもりはない。

 そういう人たちがいることも知っている。


 けれど、それが自分だとは思ったことがなかった。


 ましてや相手が莉子だなんて。


 頭の中が混乱する。

 断った方がいいと、そう思った。


 きっと今ここで言うべきだ。

 期待させてしまう方が失礼になる。


 そうわかっているのに、言葉が出てこない。


 莉子の瞳が見ると、その視線は真っ直ぐとこちらを捉えていた。

 逃げ場なんてどこにもないくらい真剣な莉子の視線。


 きっとたくさん悩んで、たくさん迷って、たくさん勇気を振り絞って、それでも伝えてくれたのだろうということが痛いほど瑠璃にも伝わってくる。


(断らなきゃ)


 そう思う。


(ちゃんと言わなきゃ)


 そう強く思う。


 けれど、もし今ここで断ったら、その勇気ごと否定してしまう気がした。


 莉子の表情が少しずつ強張っていき、返事を待っている、怖がりながら待っている。


 その自分にはない勇気のある姿を見ていると、どうしても言えなかった。

 自分のような臆病者が莉子の勇気を踏み躙るのが怖いと、瑠璃は二の足を踏む


 瑠璃は昔からそうだった。


 誰かを傷つけるのが怖い、嫌われるのが怖い。

 相手が悲しそうな顔をするのが怖い。


 だからいつも自分が我慢してしまう。

 だからいつも決断を先延ばしにしてしまう。


 それは、今も同じだった。


 瑠璃の喉が詰まる。胸が苦しくなる。


 それでも、どうしても「ごめんなさい」の一言が出てこない。


 長い沈黙の末、瑠璃はようやく震える声を絞り出した。


「……ちょっと、考えさせてください」


 その瞬間、莉子の表情がわずかに緩む。


 安堵したような、救われたような、そんな顔だった。


 それを見た途端、瑠璃の胸はさらに重く沈んだ。


(……ああ。私、また逃げちゃったんだ)


 ---


 そして、そのまま数日が過ぎた。

 二人の思いなど関係なく撮影は続いている。

 返事はまだできておらず、気まずい空気も続いていた。


 (どうしよう……)


 瑠璃は再びカメラを構えた。

 ファインダーの向こうに莉子が立っている。


 けれど今は、自主制作映画の撮影よりも、返事を待ち続けている先輩のことばかりが気になってしまっていた。


 その日の撮影は海辺だった。


 青い海。白い波。潮風に揺れる髪。


 自主制作映画のクライマックスシーンの撮影がようやく終わり、サークルの面々にはどこか達成感のような空気が漂っていた。


「よーし! 今日はここまで!」


 部長の声が響く。

 あちこちから安堵したような声が上がった。

 瑠璃もカメラを降ろし、小さく息を吐く。


(終わった……)


 もちろん映画そのものはまだ完成していない。

 編集作業も残っている。


 けれど大きな山場を越えたことは間違いなかった。


「そうだ」


 機材を片付けながら誰かが言った。


「この近くに有名な神社あるらしいよ」


「神社?」


「映画完成祈願でもしていかない?」


「あ、それいいじゃん」


 そんな軽い流れだった。

 反対する者もおらず、そのままサークル全員で神社へ向かうことになる。


 山道を少し登った先、そこに神社はあった。


 古びた石段。苔むした鳥居。風に揺れる木々。


 観光地というよりは、長い年月を静かに見守ってきた場所という印象だった。


「なんか雰囲気あるね……」


 誰かが呟く。


 瑠璃も思わず見上げていた。


 不思議な場所だった。

 静かなのに、どこか誰かに見られているような感覚がある。


 境内へ入ると、サークルの面々は次々と賽銭箱へ向かっていった。


「映画が無事完成しますように」


「上映会成功しますように」


 そんな願いが聞こえてくるが、瑠璃の頭は別のことでいっぱいだった。


(返事……)


 莉子のことだ。

 考えなければならない。

 ちゃんと答えなければならない。


 それなのに何も決められない。

 逃げ続けているということ思うと、胸の奥が重い。


 瑠璃は静かに賽銭を入れた。

 そして目を閉じる。


(どうか……)


 瑠璃は願う。


(勇気が欲しい)


 その瞬間、風が止んだ。


「――え?」


 目を開く瑠璃。


 周囲は真っ白な霧に包まれていた。

 神社も。石段も。木々も。

 すべてが白く霞んでいる。


 さっきまでいたはずのサークルメンバーの姿も見えない。


「みんな……?」


 返事はなく、静寂だけが広がっていた。

 瑠璃の心臓が早鐘を打つ。


 すると、霧の奥から誰かが歩いてきた。

 ゆっくりと、音もなく、白い霧を割るように。


「え……」


 瑠璃は息を呑んだ。

 現れたのは、自分だった。


 同じ顔。同じ髪。同じ身体。

 けれど決定的に違う。

 その少女はマスクをしておらず、顔を隠していなかった。


 真っ直ぐ前を見ている。

 堂々と、自信に満ちた表情で。


「誰……?」


 瑠璃が震える声で問うと、少女は微笑んだ。


「この社に宿るものだ」


 不思議な声だった。

 聞いているのに耳ではなく心へ直接響いてくるような。


「神様……?」


「そう呼ぶ者もいる」


 少女は瑠璃を見つめると、静かに言った。


「勇気を願ったな」


 瑠璃は思わず頷いた。


「勇気は授けるものではない」


 少女は言う。


「本来それは、自ら選び取るものだ」


 瑠璃は俯く。


 その通りだと思った。

 誰かに貰うものではない。


「でも……」


 瑠璃の声が震える。


「私は……怖いんです」


 少女は何も言わず、ただ聞いていた。


「傷つけるのも怖いし……嫌われるのも怖いし……」


 瑠璃は拳を握る。


「だからいつも逃げてしまうんです」


 少女は静かに目を細めた。


「ならば一度だけ背中を押してやろう」


「え……?」


 少女は一歩ずつこちらに近づく。

 気づけば目の前にいた。


「だが覚えておけ」


 少女は告げた。


「次に逃げれば、お前はその力を失う」


 そして、少女は瑠璃の頬へ手を添えた。

 瑠璃に触れたのは、柔らかい指先だった。


「お前はお前が思うほど醜くはない」 


 そんな言葉が瑠璃の胸に溶けていく。


 少女は瑠璃の目の前に立ち、優しく頬に手を添えた。

 そして、ゆっくりと顔を近づけてくる。


二人の唇が、ほんの数センチの距離まで迫った瞬間、瑠璃は息を止める。


 目の前の自分と同じ姿をした神の唇もまた、瑠璃と同じようにぽってりと厚みのある形をしていた。

 柔らかく、ふっくらと盛り上がり、艶やかな光を帯びている。


「……んむっ」


 最初に触れたのは、下唇同士だった。

 瑠璃の厚く柔らかい下唇が、少女の同じくぽってりとした下唇に、むにゅっと押しつけられる。

 二つの柔肉が、互いの形を優しく潰し合いながら、深く沈み込む。


 ぷにぷにとした弾力が、唇全体に広がり、まるで熱いゼリー同士が溶け合うような感触だった。


 少女が少しだけ角度を変えると、さらに唇同士が重なった。

 瑠璃のふっくらした上唇が、少女の唇に吸い込まれるように包み込まれて、柔らかすぎる肉同士が、じゅわりと密着し、互いの温度を直接伝え合う。


 唇の表面が細かく震えながら擦れ合い、滑らかな粘膜の感触が、ねっとりと絡みついてきた。


「んっ……ふぅ……」


 瑠璃の喉から、甘い吐息が漏れると、少女はさらに深く唇を重ねてきた。

 ぽってりとした唇が、互いに押し潰され、横に広がりながら形を変えていく。


 厚みのある肉が、柔らかく波打ち、圧迫されるたびにじゅるっ……と小さな水音が立つ。


 唇の内側が露わになり、熱く湿った粘膜同士が直接触れ合う部分が増えていく。


「んむっ……じゅるるるるっ……」


 少女の唇が、瑠璃の厚い下唇を優しく咥え込むように吸いついた。

 むちゅ……っと音を立てて、ぽってりとした柔肉をゆっくりと吸い上げる。


 唇が伸びるような感覚と、逆に押し潰される感覚が同時に訪れ、瑠璃の背筋に甘い痺れが走った。


(あ……私の唇って、こんなに……柔らかいんだ……)


 今まで嫌いだった自分の唇が、こんなにも敏感で、熱を持って相手の唇を受け止めていることに、瑠璃は戸惑いながらも胸の奥が熱くなった。


 少女の舌が、ゆっくりと二人の唇の隙間を割って入ってくる。

 熱くぬるりとした舌が、瑠璃のぽってりした下唇の裏側を舐め上げ、ねっとりと絡みつく。


「んっ……ちゅ……ぷちゅ……」


 唾液が混ざり合い、唇の表面をさらに滑らかにし、淫らな水音を立てながら、二つの厚い唇が何度も角度を変えて重ねられていく。


 むちゅっ……ちゅっ……じゅる……。


 柔らかく厚みのある唇同士が、吸い付き、離れ、形を変えながら深く貪り合う。

 瑠璃の唇は、少女の唇に包まれるたびに、甘い疼きを帯びて熱を持ち、胸の奥や下腹部にまでじんわりとした熱が広がっていった。


「……っ……ぷぁ……」


 長い、濃密なキスが続いた後、ようやく唇が離れる。

 二人のぽってりとした唇の間に、透明な唾液の糸が淫靡に引いた。

 少女は小さく微笑みながら、瑠璃の濡れた唇を親指で優しく拭った。


 温かかく、柔らかい接触。

 ふくよかな唇同士が静かに触れ合っていた永遠にも感じる時間だった。


 唇へ何か不思議な力が流れ込んでくる。

 固く閉じていた扉が少しだけ開くような感覚。


 キスが終わると、少女は微笑んだ。


「行け」


 その声と共に、霧がゆっくり晴れていった。


 ---


「瑠璃ー?」


 誰かから呼ばれる声に気が付くと、瑠璃は元の神社に立っていた。


「え……?」


 周囲にはサークルの仲間たちがいる。


 誰も消えていないし、霧もない。

 まるで全てが白昼夢のようだった。


「大丈夫?」


「顔色悪いよ?」


 瑠璃は慌てて頷く。


「だ、大丈夫です」


 すると、サークルの後輩が首を傾げた。


「あれ?瑠璃先輩、マスクは?」


「え?」


 瑠璃は固まり、慌てて口元へ触れる。


 ない。

 いつも付けているマスクが消えていた。


「うそ……」


 思わず周囲を見る。

 皆がこちらを見ている。

 自分の唇が皆に見えている。


 なのに、不思議なことに怖くなかった。

 視線が刺さらない。

 隠したいとも思わない。


 まるで唇が何か柔らかなもので守られているようだった。


「……」


 瑠璃は呆然とする。

 そして少しだけ、本当に少しだけ笑った。


 ―――


 それから数日、瑠璃は変わり始めていた。


 劇的ではなく、ほんの少しだけ。

 それでも確かに。


 顔を上げられるようになった。

 人と話せるようになった。

 マスクを付けなくても平気になった。


 そんなある日、撮影の合間。

 後輩の女子がぽつりと言った。


「瑠璃先輩って」


「え?」


「唇、綺麗ですよね」


 瑠璃は固まった。心臓が跳ねる。

 だが以前のような恐怖は来ない。


「そ、そうかな……」


 後輩は笑う。


「うん。私ちょっと羨ましいです」


 羨ましい。

 その言葉に瑠璃は目を見開いた。


 ずっと嫌いだったもの。

 ずっと隠してきたもの。


 それを羨ましいと言われた。

 胸の奥が少しだけ温かくなる。


 その時、ふと神様だと思われる少女の言葉が脳裏をよぎった。


『お前はお前が思うほど醜くはない』


 瑠璃は思わず自分の唇へ触れる。


(私……)


 もしかしたら今までずっと、自分自身で自分を縛っていただけだったのかもしれない。

 瑠璃は、そんな考えが初めて胸をよぎったのだった。


---


 翌日。


 少し浮かれていたのかもしれない。

 神社での不思議な出来事やマスクを外せるようになったこと。

 そして、自分の唇を褒められたこと。


 そんな出来事が続いたせいで、どこか気が緩んでいたのだろう。


「え……?」


 撮影機材を片付けている最中に 瑠璃は青ざめた。


 何度もバッグの中を探り、ポケットを確認する。

 机の上も見るが、何もない。


「ない……」


 撮影データの入ったUSBメモリが見当たらなかった。

 顔から血の気が引いていく。


 ここ数週間分の撮影データ。

 もちろんバックアップは取っているはずだ。


 (でも、もしそれもなかったらどうしよう……!)


 瑠璃は慌てて部長の元へ向かった。


「ぶ、部長……!」


「ん?」


「USBが……」


 事情を説明すると、部長の表情も少しだけ真面目になる。


「撮影データのやつ?」


「はい……」


「最後のバックアップって誰が持ってたっけ」


 部長は周囲を見回してサークルメンバーに尋ねて回ると一人が答えた。


「あー、莉子じゃなかった?」


 その言葉に、少し離れた場所で機材を整理していた莉子が振り返る。


「あ、はい」


「撮影データのバックアップって残ってる?」


「ありますよ」


 莉子は頷いた。


「昨日の時点のデータなら全部」


 瑠璃はその場で大きく息を吐いた。


「よかった……」


 本当に良かった。

 膝から力が抜けそうになる。


 だが安心したのも束の間だった。


「ただ」


 莉子が続ける。


「データ、家のパソコンに入れてあります」


「あー」


 部長が頷く。


「今日はもう解散だしな」


 時計を見ると、確かに撮影終了の時間だった。


「じゃあ瑠璃」


「は、はい」


「莉子と一緒に取ってきてもらえる?」


「えっ」


 一瞬、思考が止まる。


「ちょうどいいだろ。本人確認にもなるし」


「えっと、その……」


「私なら大丈夫だよ」


 莉子が静かに言った。

 瑠璃は思わずそちらを見る。


 目が合う。

 そして慌てて逸らす。


「……はい」


 断る理由はない。

 だが胸は妙に騒がしかった。


 莉子と二人きり。

 まともに話すのもあの日以来だった。

 告白を受けてから初めて。


 莉子の告白に真正面から向き合わなければならない時間が訪れていた。


 ---


 電車の中。

 そして駅からマンションまでの道。

 二人の間には妙な沈黙が流れていた。


「今日、暑かったですね」


「そうだね」


「この前行った海、綺麗でした」


「うん、また皆でいきたいね」


「はい……」


 会話は続かない。

 明らかにぎこちない。


 以前ならもっと自然に話せていた。

 映画の話。撮影の話。好きな作品の話。


 いくらでも話題はあったはずなのに。

 今は何を話してもどこか不自然だった。


(気まずい……)


 瑠璃は心の中で頭を抱える。

 だが隣を歩く莉子も、どこか緊張しているように見えた。

 それが余計に瑠璃の胸を重くする。


 やがて二人は莉子の住むマンションへ到着した。


 部屋は思っていた通りだった。

 綺麗に整理整頓されている。


 学生らしいワンルームの部屋だったが、莉子らしい印象を受ける。


 きちんと整えられたベッド。

 本棚には映画関係の書籍。

 壁には好きな映画のポスター。

 小さな観葉植物まで置かれている。


「瑠璃ちゃん、座ってて」


 莉子はパソコンの前へ向かった。

 慣れた手つきで操作を始める。


 画面に映る大量のフォルダや撮影データ、編集途中の映像。

 見慣れたサークル活動の痕跡を処理する莉子の姿。

 その姿を見ながら、瑠璃は拳を握った。


(返事をするなら今だよね……)


 ここしかないと、そう思う。

 返事をしなければならない。

 ずっと先延ばしにしてきた。


 勇気が欲しいと、神社で願った。

 少しは変われたと思っている。


 だから今こそ莉子の想いに答えなければと、そう思うのに言葉がまとまらない。


 断る?どうやって?どう伝えればいい?


 傷つけずに伝える方法はあるのか。

 頭の中がぐるぐると回る。


「できたよ」


 莉子の声で我に返る。


「バックアップ移し終わった」


「あ……ありがとうございます」


 USBを受け取る。

 これで本来の目的は終わりだった。


 帰ろうと思えば帰れる。


(このまま帰ったらまた逃げたことになる)


 そんな予感がした。

 だから瑠璃は思わず口を開いた。


「あの」


「うん?」


「せっかくだし……」


 声が震える。


「映画、観ませんか」


 莉子が少し驚いた顔をする。


「映画?」


「はい」


 瑠璃は頷いた。


「莉子先輩のおすすめ、前に聞いてたので」


 一瞬の沈黙が流れた後、緊張の糸が切れたように、莉子は小さく笑った。


「いいよ」


 その笑顔を見て、瑠璃は少しだけ安心した。


 ---


 遮光カーテンが閉められ、部屋が薄暗くなる。

 モニターの光だけが静かに空間を照らしていた。


 二人はクッションで並んで座ると映画が始まった。

 スクリーンの中で物語が動き出す。


 だが瑠璃は内容を半分も覚えていなかった。

 意識は別のところにある。


(どう言おう……)


 映画を観ながら考える。


(どう伝えればいいのかな……)


 登場人物たちの会話が流れていき、映像が変わる。音楽が流れる。


 それでも瑠璃の胸は落ち着かなかった。

 隣には莉子がいて、静かに映画を観ている。

 その横顔を見ていると、ますます言葉が出なくなる。


 やがて、エンドロールが流れ始めた。


 部屋は静かだった。

 モニターの淡い光とカーテンの隙間から漏れる僅かな夕暮れ。


 映画が終わった、そして逃げ場ももうなくなった。


 瑠璃はゆっくりと息を吸う。

 胸が苦しい。怖い。


 それでも、今度こそ。


「莉子先輩」


 莉子が振り向く。


「……うん」


 瑠璃は拳を握った。

 そして意を決して口を開く。


「話が、あるんです」


 薄暗い部屋の中、二人の視線が静かに交わった。


 瑠璃は、確かに勇気を出したはずだった。


 ここで言わなければいけない。

 今度こそ逃げてはいけない。


 そう何度も自分に言い聞かせながら、意を決して口を開いた。


「莉子先輩……」


 薄暗い部屋の中。

 映画のエンドロールだけが静かに流れている。


 莉子は何も言わず、瑠璃を見つめていた。

 その視線は告白の時と同じで真っ直ぐだった。


 逃げ場がないほどに真っ直ぐで、真剣に瑠璃と向き合う。


 だからこそ、瑠璃の胸は急速に苦しくなっていく。


(言わなきゃ……ちゃんと返事しなきゃ……)


 頭ではわかっている。


 けれど、自分にはない勇気を持った莉子の瞳を見るたびに、言葉が喉の奥で縮こまっていく。


 期待しているわけではない。

 強要しているわけでもない。


 ただ、傷つくことを覚悟しながら返事を待っている莉子の勇気。


 そんな莉子の姿が見えてしまう。

 莉子と比べてあまりに矮小な自分の心に萎縮する瑠璃。


 だから、瑠璃はまた、逃げてしまった。


「やっぱり……何でもないです……」


 消え入りそうな声だった。

 言った瞬間、自分でもわかった。

 また同じことを繰り返したのだと。


 ---


 二人の間に沈黙が落ちる。

 莉子は一瞬だけ目を伏せると、小さく息を吐く。

 どこか覚悟を決めたような表情だった。


 最近の瑠璃の様子を見ていればわかる。

 自分の告白が彼女を困らせていることくらい。

 きっと断りたいのだろう。

 けれど優しい瑠璃は、それを言えずにいる。


 莉子はそのことに気づいていた。


「この前のことなんだけどさ……」


 だから莉子は、自分から終わらせようとした。


 さっき何でもないと瑠璃に言われたとき拒絶されずに済んだと、少し安堵している自分に気がついた。

 だけどそんなことではダメだ、瑠璃は苦しんでいる。


 好きな人をこれ以上困らせたくないと思い、自分の恋を終わりにしようとする莉子。


 しかし、言葉の途中で異変に気づく。


「……瑠璃ちゃん?」


 瑠璃の様子がおかしい。

 顔色が悪い。


 唇を強く引き結び、身体を小さく震わせている。

 その姿は、まるで何かに怯えているようだった。


 ---


 あれだけ勇気を持って自分と向き合ってくれている莉子から逃げた、その瞬間だった。


 神社で与えられた不思議な力が消えていく。

 唇から何かが抜け落ちる感覚。


 そして次の瞬間、今まで押し留められていた不安や恐怖が、一気に押し寄せてきた。


(見られてる)


 そんな気がした。


(変だと思われてるかもしれない)


 莉子が、自分の唇を見ている。


(気持ち悪いって思われてるかもしれない)


 厚くて、不格好で、昔から嫌いだった自分の唇を。


(どうしよう……!)


(どうしたらいいの……!?)


 息が苦しい。視線が怖い。

 今すぐ唇を何かで隠したい。


 その時、ふと脳裏に浮かんだのは、あの日の光景だった。


 白い霧。神秘的な境内。

 そして唇に触れた柔らかな感触。

 あの時は不思議と怖くなかった。


 唇が覆われていたから、誰にも見られていないような安心感があったから。


 (早く、唇を何かで覆わないと……!このままじゃ私……)


 瑠璃の思考は混乱していた。

 冷静ではなかった。


 だから、次に何をしたのか、自分でもよくわからない。


「瑠璃ちゃん……?」


 心配そうな声。

 その声に導かれるように。


 瑠璃はそっと身を乗り出した。


「大丈夫なの?……んぷっ……!」


 そして、莉子の言葉が止まる。

 二人の距離が消える。

 驚きに見開かれた莉子の瞳。


 瑠璃は自らの唇を莉子の唇で覆った。

 二人の間から言葉が失われる。


 瑠璃の胸を満たしたのは、説明のつかない安堵だった。

 気づけば、瑠璃は身を乗り出していた。


 むにゅっ……。


 ぽってりとした唇と莉子の唇が、勢いよく重なり合う。

 柔らかく厚みのある肉同士が、互いの形を潰し合うように密着する。

 瑠璃の厚い唇が莉子の唇に深く沈み込み、逆に莉子のふっくらした唇が瑠璃の唇を優しく包み込んでいた。


「んむ……っ」


 莉子の小さな驚きの声が、唇の隙間から漏れたが、すぐに塞がれた。


 瑠璃は夢中で唇を押しつける。

 自分の嫌いだった厚い唇が、莉子の柔らかい唇にすっぽりと覆われている感覚。


 温かく、湿っていて、柔肉の弾力が直接伝わってくる。

 ぷにぷにとした唇の表面が、互いに圧迫されて形を変え、ねっとりと擦れ合う。


 (女の子同士でキスなんて……)


 頭では駄目だと思っている。

 もう自分が何をしているのかわからなかった。


 けれど、もう耐えられなかった。

 この唇を見られることが怖い。


 そして――。


(でも、これで私の唇が……)


 覆われている。

 

 その感覚に、瑠璃の胸の奥が震えた。

 今まで誰にも見せたくなかった唇が、莉子の唇に深く埋もれている。


 ずっと嫌いだった唇。

 隠したくて仕方なかった唇。


 その唇が今だけは誰かに包まれている。

 誰にも見られていない。

 誰にも笑われない。

 誰にも否定されない。


 そんな錯覚。


 それだけなのに。

 張り詰めていた心がほどけていく。


 苦しかった呼吸が少しずつ楽になる。

 身体から力が抜けていく。


(安心する……)


 気づけば瑠璃は目を閉じていた。

 怖くない。もう怖くない。


 むしろ胸の奥が温かく満たされていく。

 泣きたくなるほどの安堵。


 長い間探していた居場所を見つけたような感覚。

 その心地よさに、瑠璃は思わず縋ってしまう。


 (離れたくない……もう少しだけ、この安心感の中にいたい……)


 そんな気持ちが瑠璃の胸いっぱいに広がっていく。


 莉子は最初、突然のキスに驚き身体を硬くしていた。

 しかしすぐに、ゆっくりと目を閉じ、瑠璃の背中にそっと手を回した。


 キスはさらに深いものになっていく。

 瑠璃の厚い唇が莉子の唇を押し広げるように重なり、ねっとりと絡みついた。

 二人の唇の粘膜が直接触れ合い、熱い体温と唾液が混ざり合う。


 瑠璃が無意識に下唇を少し動かすと、ぽってりとした柔肉がそれを追いかけるように莉子の唇に吸い付くように擦れ、じゅる……っと淫らな音を立てた。


「ん……ふぅ……」


 莉子の鼻から甘い吐息が漏れる。

 その吐息が瑠璃の唇に直接かかり、さらに熱を増した。


 瑠璃は夢中で唇を重ね続ける。

 自分の唇が莉子の唇に溶けていくような、甘く生々しい感触。

 厚みのある唇が互いに潰れ、形を変え、圧迫されるたびに、じんわりとした快感が下腹部まで伝わってくる。


 やがて、莉子の舌が恐る恐る瑠璃の唇の隙間を割って入ってきた。

 熱くぬるりとした舌が、瑠璃のぽってりした下唇の裏側をゆっくりと舐め上げる。


 ねっとりと絡みつき、唾液を塗り広げながら、瑠璃の唇の内側を優しく探るように動いた。


「ん……っ、は……」


 瑠璃の喉から、甘く掠れた声が零れた。

 頭がぼうっとする。


 コンプレックスだった自分の唇が、今はただ莉子の口内に包まれて、甘く疼いている。

 二人の唇は完全に濡れ、唾液で艶やかに光っていた。


「んっ……ちゅぷ……」


 角度を変えるたびに、厚い唇がむにゅむにゅと音を立てて擦れ合い、銀色の糸が引く。

 瑠璃は無意識に莉子の肩に手を置き、もっと深く唇を押しつけていた。


 このキスは、恋の告白でも、莉子に対する愛情の返事でもなかった。

 瑠璃にとってはただの逃げであり、隠れ場所だった。


 それは瑠璃にとって、まるで長い間抱えていた不安から解放されたような感覚だった。


「るりちゃ……んっ……ぷちゅ……」


 けれどその行為は、莉子の胸を激しく高鳴らせ、瑠璃自身も知らないうちに、甘く淫靡な熱を生み出していた。


「りこせんぱぃ……れぉ……」


 瑠璃は気づかなかった。

 それが莉子にとって、どんな意味を持つ行為なのか。

 自分が今、どんな答えを返してしまったのかを。


「ちゅ……っぷぁ……瑠璃ちゃん……!」


 ゆっくりと莉子が自らの唇を離す。

 莉子は呆然と瑠璃を見つめていた。


 何が起きたのかわからない。

 ただ一つだけ確かなことがある。

 瑠璃が自分を求めてきた。


 あの瑠璃が。

 叶わない恋だと思って諦めてかけていた好きな人。


 胸の奥に押し込めていた想いが一気に溢れ出す。


「瑠璃ちゃん……」


 莉子の口から震える声が出る。

 瑠璃は自らの唇に触れて、どこかぼんやりとした表情をしている。

 まるでキスの余韻に浸っているような恍惚とした表情。


 莉子には、それが答えに見えてしまった。


 ずっと欲しかった答え。

 ずっと待ち続けていた答え。


 だからもう止まれなかった。

 莉子はそっと瑠璃の肩へ手を添える。

 拒絶されない。逃げられない。


 その事実が、さらに莉子の背中を押した。


「……嬉しい」


 かすれるような声。

 瑠璃の瞳がわずかに揺れる。


 莉子の胸は激しく脈打っていた。


 長い間押し込めていた想いが溢れ出してしまう。


 そっと肩へ手を添える。

 逃げられないようにではない。

 消えてしまわないように確かめるように。


 そして再び顔を近づける。

 触れ合う距離。

 息がかかるほど近い距離。


 莉子は目を閉じる。

 瑠璃も拒絶しない。

 再び二人の唇が軽く接触した。


 莉子の心が熱くなり、想いが溢れるまま瑠璃を抱き寄せる。

 ふらりと体勢を崩した瑠璃は、そのままベッドへ倒れ込んだ。


「わっ……」


 小さな声。

 柔らかなシーツが押し倒された瑠璃の身体を受け止める。


 莉子は慌てて謝ろうとしたが、その言葉を喉の奥で飲み込む。


 目の前にいるのは、好きな人。


 何度か諦めようとして。

 それでも諦めきれなかった人だった。


 瑠璃の髪へ指が触れる。

 頬へ触れる。

 そのたびに胸が苦しくなる。


「……好き」


 思わず零れた言葉。

 何度伝えても足りないほどの想い。

 莉子は震える手で瑠璃に触れた。


 莉子はキスを続けながら、震える指で瑠璃のトップスの裾に手をかけた。

 熱に浮かされたような動きで、ゆっくりと布地を捲り上げる。


 瑠璃の白い肌が露わになり、キスの合間に莉子の指先がその柔らかい肌を直接撫でた。


「ん……ふっ……」


 瑠璃の身体が小さく跳ねるが、莉子は唇を離さなかった。

 むしろ深く舌を絡め、瑠璃の注意を唇に釘付けにしたまま、もう一方の手でボタンを外す。


 ぽちっ、ぽちっ……と音を立ててボタンが外れるたび、瑠璃の胸元が少しずつ開いていく。

 莉子の指が、ブラジャーのレースに触れた。


 熱い吐息を瑠璃の唇に吹き込みながら、器用にホックを探り、背中に回した手で外す。

 布が緩み、瑠璃の豊かな胸が解放されるように零れ落ちた。


「うぁ……んっ……!」


 瑠璃の喉から、甘く湿った声が漏れた。  

 肌が空気に触れる感覚に、わずかに肩が震える。

 しかし莉子はすぐに瑠璃の背中を抱き寄せ、再び深く唇を重ねた。


 むちゅっ……じゅるる……


 ねっとりとした水音が部屋に響く。

 夕暮れの薄暗い部屋の中、二人の影がベッドの上で重なった。


 ---


 小鳥のさえずりが聞こえる。

 遮光カーテンの隙間から差し込むわずかな朝の光。


 静かな部屋の中で、莉子は生まれたままの姿のままゆっくりと目を開いた。

 しばらく天井を見つめる。


 そして隣へ視線を向けた瞬間、自然と頬が緩んだ。

 瑠璃が一糸纏わぬ姿で穏やかな寝息を立てながら、安心したような表情で眠っている。


 昨夜の出来事が脳裏によみがえる。

 夢ではない。


 瑠璃はここにいる。

 本当に自分を受け入れてくれた。


 莉子はそっと手を伸ばした。

 起こさないように気をつけながら、瑠璃の唇へ指先を触れる。


 柔らかく、少し厚みのある、ぽってりとした唇。

 瑠璃自身はいつもマスクで隠したがっていたみたいだけれど、莉子はその唇に悪い印象を持ったことはない。


 どこか優しそうで。

 どこか不器用そうで。

 瑠璃らしいと思っていた。


(可愛いな……)


 胸の奥が温かくなる。

 数日前まで、自分の恋は終わったのだと思っていた。


 あの告白は、瑠璃を困らせるだけの独りよがりなもので、返事がないことが答えなのだと、自分に言い聞かせようとしていた。


 それなのに昨夜、瑠璃は自分から手を伸ばしてくれた。

 自分を求めてくれた。

 そう思うだけで胸がいっぱいになる。


 気づけば莉子は幸せそうに微笑んでいた。

 その時だった。


「……ん……」


 小さな声が聞こえる。

 瑠璃のまぶたがゆっくりと開いた。


 まだ眠そうな瞳。

 焦点の定まらない視線がぼんやりと天井を彷徨う。


「おはよう」


 莉子が優しく声をかける。

 瑠璃は数秒遅れてこちらを見た。


「あ……」


 そこでようやく状況を思い出したのか、わずかに目を見開く。

 莉子はそんな瑠璃をそっと抱き寄せた。


「……っ」


 突然のことに瑠璃の身体が少し強張る。

 けれど莉子は気づかない。


「本当に嬉しい」


 耳元で小さく呟く。


「ずっと好きだったから」


 莉子の声は震えていた。


「優しいところも、人のことをよく見てるところも、頑張り屋なところも……」


「全部好き」


 抱きしめる腕に力がこもる。


「昨日、すごく幸せだった」


 瑠璃は何も言えない。

 ただ黙って聞いている。


 莉子はそんな瑠璃の様子を、照れているのだと思い、続ける。


「瑠璃ちゃん」


 名前を呼ぶ。真剣な声だった。

 瑠璃の肩がぴくりと震える。


「改めて言わせて」


 莉子は少し身体を離した。

 そして真っ直ぐ瑠璃を見つめる。


「私は瑠璃ちゃんが好き」


 胸の奥にしまっていた想いを、もう一度言葉にする。


「私と恋人になってください」


 静かな部屋。


 返事を待つ時間は、永遠のように長く感じた。

 瑠璃は息を呑み、一瞬だけ視線が揺れる。


 迷うように。怯えるように。

 何かを飲み込むように。


 けれど、やがて小さく頷いた。


「……はい」


 かすかな声。

 それでも莉子には十分だった。


 次の瞬間、莉子の顔がぱっと明るくなる。


「ほんと?」


 子供のような笑顔。

 瑠璃はその笑顔を見て、胸の奥が痛んだ。


「夢じゃないんだよね……ありがとう!」


 喜ぶ莉子を抱きしめ返すことはできない。

 ただ黙って、莉子の温もりを受け入れることしかできなかった。


 ---


 半年後。


 莉子と瑠璃は、違うマンションの一室で暮らしていた。


 朝、カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が部屋を照らしている。

 まだ眠気の残る頭で、莉子はそっと身体を起こした。


 隣では瑠璃が毛布に包まりながら眠っている。

 規則正しい寝息。少しだけ無防備な寝顔。

 その姿を見るたびに、莉子の胸は自然と温かくなった。


 起こさないよう静かにベッドを降りようとした、その時だった。

 不意に手首を掴まれる。


「……ん……」


 目を閉じたままの瑠璃が、離さないと言うように指へ力を込める。


「瑠璃?」


 呼びかけると、瑠璃はゆっくり目を開いた。

 まだ寝ぼけたような瞳。


 けれど次の瞬間、瑠璃は莉子の腕を引き寄せた。


 距離が一気に縮まる。

 莉子が「だめだよ」と言おうとしたその時、瑠璃は上体を起こし、莉子の唇に自らの唇を強く押し当てた。


 むにゅっ……!


 朝の柔らかな光の中で、ぽってりとした唇が勢いよく重なり合う。

 瑠璃の厚く柔らかい唇が、莉子の唇を貪るように吸いつき、ねっとりと擦りつける。

  すぐに舌が絡みつき、熱く湿った粘膜同士がじゅる……と淫らな音を立てて絡まり合った。


「んっ……ぷぁ……莉子さん……」


 瑠璃は夢中で唇を求め、莉子の首に腕を回して離さない。  

 厚みのある唇で莉子の唇に吸い付き、むちゅむちゅと音を立てながら深く貪る。  


「んちゅ……ぷちゅ……」


 唾液が混ざり合い、銀色の糸が引くほど激しいキスだった。  

 瑠璃の息が荒くなり、胸を押しつけるように身体を密着させてくる。


 莉子も一瞬、甘い疼きに囚われ、瑠璃の背中に手を回しかけた。

 しかし次の瞬間、ハッと我に返る。


「ぷはぁ……っ、瑠璃、待って……!」


 莉子は慌てて瑠璃の肩を掴み、強引に唇を引き剥がした。

 ぷちゅっ……と湿った音が残り、瑠璃の唇が名残惜しそうに震える。


「はぁ……はぁ……」


 莉子は息を乱しながら、瑠璃の顔を両手で押さえて距離を取った。

 自分の唇も熱く熱を帯びているのがわかる。


「だめだってば……今朝は一限から講義なんだから……」


 顔を真っ赤にしながらも、莉子は必死に自制した。

 瑠璃の瞳はまだ潤んでいて、物欲しそうな表情のまま莉子を見つめている。

 まるで置いていかれる子供のようだった。

 その表情を見るたびに、莉子は困ってしまう。


「そんな顔しても、ダメだからね」


 家を出る準備を始めながら、莉子は色々思い返す。

 同棲を始めてから知ったことがたくさんある。


 瑠璃は思っていた以上に甘えん坊だった。

 普段は大人しくて控えめなのに、二人きりになると途端に距離が近くなる。

 少しでも離れると不安そうな顔をする。

 講義などで会えない日などは特にそうだった。


(本当に瑠璃はいつもこうだから……)


 莉子は苦笑しながら思う。

 もちろん嬉しくないわけではない。

 むしろ逆だった。


 そんな姿を見るたびに、瑠璃への想いは深くなっていく。

 だからこそ甘やかしすぎないよう気を付けていた。


 恋人同士だからといって、四六時中一緒にいるわけにはいかない。


 それはわかっている。

 わかっているのだけれど。


 莉子はふと自分の唇へ触れた。

 もう一つ、同棲してから知ったことがある。


 (いっつもキスばっかりしたがって……)


 瑠璃はとにかく唇を重ねたがる。

 夜の営みの時はずっと唇を重ねたまま行為に及ぶ。

 それ以外でも、朝も昼も、二人きりになるとキスを求める。


 家の中はもちろん、大学でも人目のない場所へ行くとすぐキスをする。


 以前は寝ている間に瑠璃がキスをして、そのまま朝まで過ごし、お互いの唇が引っ付いてしまうこともあった。

 さすがにそれは注意したので最近はなくなったが、それでも瑠璃がそういう行為を好んでいることはよくわかる。


(キスフェチってやつなのかな?本当にキス好きなんだなぁ……)


 思い返せば、告白の返事だってそうだった。

 瑠璃はあの日言葉ではなく、キスで答えた。

 そんな昔のことを思い出して莉子は自然と笑みを浮かべる。


 そして同時に思う、自分も随分と変わった。


 昔は気にも留めなかったのに、今では瑠璃の唇を見るだけで愛おしい気持ちになる。


 ぽってりと肉厚で弾力があるのに柔らかい不思議な唇。

 本人はずっと気にしているみたいだけれど、莉子は綺麗だと思っていた。

 あの唇に自分の唇が押しつぶされお互いを求め合うのがどんどん好きになっている。


「莉子さん、キス……」


 瑠璃が諦めずにキスをねだってくる。


 (あーあ、もう……朝から生殺しだよ……)


 だから最近は自分の方が我慢している気がする。

 もし唇を求めてくる瑠璃に対して、自制をやめてしまえば、二人とも本当に一日中ずっとキスをして部屋から出なくなりそうだった。


「瑠璃、帰ってきたらね」


 準備を終えた莉子はそう言う。

 瑠璃はどこか物欲しそうな顔をしていた。

 その表情に後ろ髪を引かれながらも、莉子は軽く笑う。


「大学でも会えるでしょ」


 そう言って唇へ軽く触れる。


「続きはウチに帰ってきてから」


 瑠璃は小さく頷いた。

 それを見届けてから、莉子は部屋を後にした。


 ---


 玄関のドアが閉まる。

 部屋に静寂が戻る。


 瑠璃はしばらくそのままベッドへ座っていた。

 やがてゆっくりと自分の唇へ触れる。


「莉子さん……」


 胸が苦しくなり、不安な気持ちが溢れ出す。

 莉子がいなくなっただけなのに。

 ほんの数時間後にはまた会えるのに。

 それなのに、胸の奥が空っぽになったような感覚が消えない。


 あの日からずっとそうだった。

 神社で与えられた力を失った日から。

 自分の弱さから逃げた日から。

 唇へのコンプレックスは以前よりも強くなってしまった。


 誰かに見られるのが怖い。

 変だと思われるのが怖い。

 その恐怖は今も消えていない。


 ただ一つだけ、不安が消える方法があった。莉子だ。


 莉子が受け入れてくれる時、その唇で自らの唇が覆われている時だけ、胸の奥のざわめきが静かになる。


「……最低だ」


 瑠璃は呟いた。

 その目に涙が滲む。


 莉子のことは大切だ。

 傷ついてほしくない。

 幸せでいてほしい。


 けれど、自分は莉子と同じ気持ちではない。

 莉子のように相手を恋人として愛してはいない。

 ただ、唇を求めているだけ。


 あの日、ちゃんと向き合うべきだった。

 きちんと返事をするべきだった。

 断るべきだった。


 そうすれば莉子は傷ついただろう。

 けれど時間が経てば立ち直れたかもしれない。


 いつか、もっと相応しい誰かと、本当に莉子に相応しい人と出会えたかもしれない。


 莉子は、誰からも好かれる。

 決してこんな卑怯者の自分なんかではない誰かと出会っていたはずだ。


 けれど瑠璃は逃げた。

 そして今も逃げ続けている。

 涙が頬を伝った。


「……ごめんなさい」


 後悔と罪悪感で胸が張り裂けそうになる。


 ただ一つだけ確かなことがある。

 もう自分は莉子の唇から離れられない。

 莉子がいない未来を想像できない。


 そんな自分が嫌なのに、不安が強くなると共に、今すぐ会ってキスしたいという気持ちばかりが膨らんでいく。


 瑠璃は唇を押さえた。

 涙で滲む視界の向こう。

 誰もいない部屋へ向かって、小さく呟く。


「莉子さん、お願い……キスして……」


 返事はない。

 それでも瑠璃は目を閉じる。


 まるで祈るように。

 ただ恋人の名前を呼び続けていた。

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