第5話 天逆鉾
『私を解放して』
日本創世神話で真っ赤になってしまったハルちゃんと、トラックの荷台で細長い桐の箱を持ち上げた瞬間、女性のものと思われる心の声が聞こえた。
「えっ?」
思わず反応してしまったが、ハルちゃんにしてみれば相棒が突然すっとんきょうな声を張り上げたようにしか思えないだろう。
「何?」
俺の向かい側で桐の箱を両手で支えながら、ハルちゃんは怪訝な視線を俺に向けた。
「いや、なんでもないです」
能力にかかわる事なので、うかつに説明できない。俺は全力でごまかした。
『何だろう?』
ハルちゃんは不思議そうに俺を見ている。
「そこの二人! そいつは最重要展示物だ。じゃれ合ってないで慎重に運べ!」
バイト頭のじいさんの鋭い声が飛んできた。
『じゃれあってないってば』
「じゃれ合ってません!」
彼女の心の声と僕たちの肉声は見事なハーモニーを奏でた。
桐の箱は、長さ六〇センチ、幅三〇センチほどで、房付きの黒い紐で蓋が閉じられていた。蓋には達筆な筆文字で何か書きつけられていたが残念なことに俺には全く判読できない。運ぶのに苦労するほどの重さはないが、ずっしりした重量感で、焼きものか金属製品が入っているように感じられた。
『ああ、嬉しい。やっと出会えた』
トラックから降り、階段を上る途中も不思議な声が聞こえた。
声だけではない。頭の中に白銀に輝く美しい三又の鉾のイメージが浮かんだ。夢の中で感じた声やイメージと同じものだった。
「そいつは、一番奥のガラスケースに設置する。慎重にな」
「じゃあ、これが特別展示品の天逆鉾!」
『すごい!』
ハルちゃんは大興奮だった。
そんな重要物品をアルバイト学生に運ばせていいのだろうか。
素朴な疑問が頭に浮かんだが、俺とハルちゃんは無事務めを果たし、古代館二階の一番奥、特別展示品用のガラスケースの前にたどり着いた。
「そいつは、中身と、桐箱の両方とも展示対象だ」
『いやあ、役得だよね』
「ねえ、早くほどいて」
ハルちゃんが目を輝かせていた。
『あれ、ほどけって言われたっけ?』
俺は少しだけ疑問に感じながらも、ハルちゃんに言われるがまま慎重に結び目をほどくと、そのままの流れで蓋を開けた。
箱の中には、出来の悪いフライの衣のような錆に覆われた三又の鉾の先端部分が、真っ白い綿にくるまれて箱の中央に鎮座していた。鉾なのだから本来相当な長さがあったのだろうが、今は穂先部分だけ、長さ三〇センチくらいしかなかった。箱に比べて相当小さい。
「これが」
『ねえ、お願い。私に触って』
優しい女性の声が頭の中に響いた。俺は誘惑に抵抗することができなかった。気が付くと右手の軍手を外し、錆に覆われた特別展示品に手を伸ばしていた。
「あっ、こら! 何をやっている!」
『何のつもりだ。この馬鹿!』
『えっ、何?』
「どうしたの? リクくん」
バイト頭のじいさんやハルちゃんの声がはるか遠くで聞こえていた。
錆びた鉾の穂先に指先が触れた瞬間、身体中に電流が走り、頭の中に白銀に輝く美しい三又の鉾のイメージが浮かんだ。錆などには覆われておらず、先端は反りのないフォークのような形状だ。長さは二メートル近い。
周囲が闇に包まれ、その中をキラキラ煌めく宝石のようなものが、雪のように降り注いだ。
『私とともに在りたいと願いますか?』
先程から聞こえていた女性の声が俺に優しく語り掛けた。
『どういうことだ?』
古風ではあるが、まるで婚姻の申し込みだ。
『久遠の契りを結ぶのです。さすれば、私の力はすべて貴方のもの』
頭の中に、金塊や宝石のイメージが浮かんだ。胡散臭い。
しかし、俺は金が欲しかった。不便な水上マンションの暮らしから解放され、快適な暮らしを手に入れたい。同級生から貧乏人と蔑まれるのも、もううんざりだ。親父やお袋のように、身を粉にしてただひたすら働く人生なんて、まっぴらだった。
『手に入るのか? 金銀財宝が』
『この星の富のすべてが、あなたの思いのまま』
俺はつばを飲み込んだ。警戒心は欲望に負けた。
『わかった。どうすればいい?』
『そのお言葉だけで十分です』
「何やってる。展示物に素手で触るんじゃない!」
気が付くと、近くでバイト頭のじいさんの罵声が聞こえ、周囲の景色も元に戻っていた。
「ごめん、ボクが蓋を開けてって言ったからだよね」
『あ~、ボクのせいだ。ボクのせいだ』
ハルちゃんも心配そうな顔を俺に向けていた。
「軍手を外すなと、最初にあれほど言っただろうが!」
『この馬鹿野郎が!』
金縁眼鏡のじいさんは相当お怒りだった。
「すみません。つい、ふらっと」
俺は正直にそう言うしかなかった。
自分でもよくわからない。白日夢でも見ていたような気がする。
『あぶねえ野郎だな。展示物を棄損したらどうするつもりだ!』
「いいから、さっさと他のものを運べ!」
そう言われて俺はフラフラと立ち上がり、階段の方に向かった。
『あ~、やだ、怒ってる?』
「ごめんね。ボクが変なこと言っちゃったせいで」
ハルちゃんが俺の後ろをまとわりつくように追いかけてきた。
「ハルちゃんは紐をほどいてって言っただけだから悪くない。俺が勝手に触っただけだから」
『何でも人のせいにする人が多いけど、この人、意外といい人かも』
俺は立ち止まり、ハルちゃんの方を振り返って笑顔を作った。いい人と思ってくれたお礼だ。
『あっ、すごく良い人だ』
ハルちゃんの瞳がキラキラ輝いた。
ハルちゃんの好感度がアップしたので、俺の作り笑顔も本当の笑顔になった。