第28話 :『背番号のない日々』
決勝戦前夜、東都学院の宿舎。
エース・川島栄伍は、資料に目を通していた。
「決勝の相手……桜が丘? ……は?」
ページの一角に、小さな文字で記された投手の名が、川島の目に刺さった。
風祭球児。
その名前を見た瞬間、彼の喉がひくりと動いた。
「アイツが、決勝に来る? こっちに向かってくる……?」
その夜、川島はベッドの上で、ひとり嗤った。
静かに、陰湿に、胸の奥で煮え返るような“過去の毒”が立ち昇っていくのを感じながら。
──2年前。東都学院に球児がやってきた頃。
同期だったが、フォームは美しく、球は伸び、変化球のキレも鋭かった。
何より、「努力を“見せない」タイプだった。
それが川島には、気に食わなかった。
エース番号は自分のもの。
誰よりも投げ、吠え、チームを引っ張ってきた自負があった。
だが、練習試合で球児が登板し、3イニングで6奪三振を記録した日、
川島のプライドに、大きくヒビが入った。
「……あのフォーム、なんでだよ……」
誰にも言えない苛立ちが、次第に“行動”として形を持った。
・球児のロッカーに、“みんなお前が嫌いだ”と書かれた紙切れをねじ込む
・練習用のスパイクを隠し、替えのない靴で走らせる
・バットのグリップに油を塗り、ティーバッティング中に転ばせる
・水筒に塩を入れ、「根性が足りない」と笑いながら見ていた
しかもそれらを、他の数名の上級生を巻き込み“集団化”した。
指導陣も見て見ぬふり。川島の父が学校関係者であったことも、チームの空気を歪ませていた。
そしてある日。
球児のロッカーが、無惨に荒らされていた。
シューズは片方だけ刃物で裂かれ、帽子には黒インクがぶちまけられていた。
それを目にしても、川島はこう言った。
「……あいつが悪いんだろ? 調子乗って、見せつけてくるからよ」
それが、風祭球児が自ら退部を申し出た日だった。
──そして今。
あの日、叩き潰したはずの風祭球児が、決勝のマウンドに立つ。
「許さねえ。許されるわけがねえ……」
川島の拳は震えていた。
怒りか、焦燥か、それとも“無意識の後悔”か──それすらも、彼自身にはわからない。
ただ、確かに感じていた。
胸の奥の、見せたくもない小さな炎が、こう告げていた。
──負けたくない。負けたら、全部が“間違ってた”ことになる。
そしてもう一つ、川島自身も気づかぬうちに胸の奥で湧き上がったのは──
“風祭球児が眩しい”という感情だった。
■
準決勝を終えた夜。
桜が丘高校野球部の部室には、勝利の余韻と──不思議な静けさが漂っていた。
「決勝の相手……東都学院らしい」
■
桜が丘高校の決勝の相手、東都学院。
その名は、県内だけでなく全国でも知られる“甲子園常連校”として長年にわたり君臨してきた。
過去10年間で、県大会優勝6回、甲子園出場5回(一回は体罰が問題となり出場辞退)。準優勝1回、ベスト8進出3回という圧倒的な戦績。
名門校の名に恥じぬ、圧倒的な実績と経験が、選手一人ひとりのプレーから滲み出ている。
グラウンドは、地方球場並の設備を誇る本格派。部員数は常に100名以上はいる大所帯。
ブルペンには常に4人以上の投手が投球練習を行い、内野守備練習は1球ごとにミスの修正を動画で確認するという徹底ぶり。
監督の真壁誠司は、かつて甲子園ベスト4に導いた名将。
その指導は厳しくも理論的で、データと感情のバランスを兼ね備えた練習管理がなされている。
野球部専属のトレーナーと栄養士まで配置されており、選手の身体管理も徹底されている。
その厳しさと環境が生む成果は明確だ。
近年では、卒業生の進路として、
東都大学野球連盟の名門大学(帝都大、城南大、秀明学院など)への進学者多数
社会人野球(帝都鉄道、日新化学、帝国製鋼など)で即戦力として活躍
プロ野球への指名(2023年:外野手・橘隼人/ドラフト4位で東海ドラゴンズに入団)
といった“エリートルート”を歩む選手が珍しくない。
今大会でも、エースの川島栄伍(3年/最速147km)はプロ注目の右腕。
強気なインハイと、落差のあるスライダーで試合を支配するタイプ。
他にも、全国スカウトが注目するスラッガー梶原敬一(4番/3年)、ショート守備職人の桐谷優真(2年)など、実力者が揃っている。
だが、この“最強の名門”にも、ひとつのほころびがあるとすれば──
それは「才能の共存」を認めきれない、“閉ざされた序列意識”だった。
球児が在籍していた当時、同期の川島との確執はまさにそれを象徴していた。
実力があっても、出る杭は打たれる。
それが「伝統」とされる校風だったのかもしれない。
決勝戦。
東都学院は、これまで通り“圧倒的”に勝ちに来るだろう。
だが、その“圧倒”に立ち向かう者がいる。
桜が丘のエース、風祭球児。
かつて追われた場所に、“背番号1”を背負って、再び向かう。
その先にあるのは、雪辱か、証明か──それとも、青春のけじめか。
■
誰かがつぶやいたその瞬間、風祭球児は手を止め、ふと視線を落とした。
石原は目配せしたが、あえて言葉をかけなかった。千紗も、スコアブックをめくる手をゆっくり止めた。
球児の中に、遠い記憶が蘇る。
──二年前。名門・東都学院。
そこにいたときの自分は、まだ“期待される側”だった。
球速、制球力、闘志。全てが並以上。だがそれは、「並外れていたい誰か」にとっては──
ただ、邪魔だったのかもしれない。
特に川島栄伍。同期であり、投手であり、当時のエース番号「1」の最有力候補。
その目は、いつも風祭に冷たかった。
「お前、最近“いい気”になってねえか?」
最初はその一言だった。
だが、ある日からロッカーのバットが折られていた。
グローブの紐が切られていた。
スパイクが、片方だけ無くなっていた。
そして、ロッカーの扉に一枚の紙が差し込まれていた。
「お前なんか、みんな嫌いだ」
誰もが見て見ぬふりをした。
いや──本当に“見てなかった”のかもしれない。
風祭は黙っていた。悔しさも、痛みも、全部。
でも、ある日──
ロッカーを開けたとき、用具が“すべて”なくなっていた。
グラブ、ユニフォーム、スパイク。名前の刺繍入りのものまで。
そして、彼は気づいた。
「ここにいてはいけない」
そう思った。いや、思わせられた。
冬の日。風祭はひとりで退部届を書き、誰にも言わずに学校を去った。
二年に渡り好きな野球との葛藤の中、球児は別の選択肢として桜が丘に転校してきた。
“弱小校”と言われたチームだった。
でも、そこにはロッカーを開けて笑う仲間がいた。
スパイクを貸してくれる仲間がいた。
スコアブックに名前を丁寧に書いてくれるマネージャーがいた。
いま、背中には「1」の番号がある。
誰にも見せたことのない番号。
だけど、今はもう怖くない。
ロッカーに手をかけ、静かに目を閉じた球児は──呟いた。
「……逃げたんじゃない。ただ、あのときは……ひとりになるのが怖かっただけだ」
その夜。千紗は静かに手帳を開き、一行だけ書き加えた。
「風祭くんが一度、諦めた背番号を──みんなで、取り返してる最中なんだと思った」
■
部屋の隅。
古びたスコア帳の脇に、一冊だけ異質なノートがある。
それは風祭修司が密かに記してきた「父としての記録」──彼が、監督ではなく親として綴った唯一のノートだ。
その中の、ひとつのページに挟まれていた便せんには、こう記されている。
「風祭球児 東都学院退部届」
提出日:2年前の春
修司は、その紙をそっと見下ろし、手帳に静かにペンを走らせる。
「本当は気づいていた。スパイクがなくなった朝も、鞄が破れていた日も」
「“友達とぶつかっただけ”なんて、苦しい言い訳だった」
「球児は、言わなかった。最後まで、何ひとつ」
「それがあいつの優しさで、あいつの弱さで──そして、強さだった」
修司は、書きながら、思い出していた。
川島という男のこと。
背が高く、目つきが鋭く、打撃でも投手としても一目置かれていた。
だが──誰よりも、自分以外の才能を許せない人間だった。
修司は、あのとき本当は知っていた。
川島たちが球児に陰湿な嫌がらせをしていたことも。
ロッカーの中にあった“お前なんかいらない”の紙切れも──。
だが、球児が自分で「辞める」と言ったその日。
監督である以前に、父として問いただすことができなかった。
「あのとき、“守ってやれなかった”と思ってる」
「でもな、球児。お前は、逃げたんじゃない。背負わずに進んだんだ」
「だから今度こそ……お前が正しかったってこと、証明しよう」
風呂上がりの静かな夜。
冷めかけた氷の音を聞きながら、修司はそっとノートを閉じた。
その表紙に、ボールペンで一行だけ新たに加える。
「決勝──東都学院戦。父親としての覚悟も、ここで終わらせる」




