第29話:『決勝の前に、伝えたいことがある』
夕焼けが、グラウンドの端から端まで、赤く染めていた。
誰もいない土の上に、ぽつんと並ぶ二人の影。バット、ボール、ヘルメット。それらを手際よく片付けながらも、千紗の指はどこかぎこちない。
「……これで最後、かな。予選の用具整理」
千紗がぽつりとつぶやく。風祭球児は黙ってうなずくと、バットケースを閉じた。
「決勝のあとは、勝っても負けても……一度、終わるもんな」
「うん。でも……」
千紗はそこで言葉を切った。グラウンドのセンター方向に目を向ける。夕陽が眩しくて、目を細めながらも、しばらく黙っていた。
「……明日、勝ったらさ」
「ん?」
球児が振り向くと、千紗は両手を胸の前でぎゅっと握っていた。
「ひとつ、お願い聞いてくれる?」
風が吹いた。土の香りと、まだ少し汗のにおいが混じった風。球児は目を丸くし、肩をすくめる。
「勝つ前提かよ」
「うん。勝つから」
即答だった。その目はまっすぐで、たじろぐほどに真剣だった。
球児は口元を緩めて、目をそらすように言った。
「……わかった。勝ったらな」
千紗は、ふっと息を吐いて笑った。その笑顔が、今まで見たどんな笑顔よりも、大人びて見えた。
夜。風祭家の居間。
球児は布団の上に座り込み、天井を見上げていた。スマホも触らず、テレビもつけず、ただ静かな夜。
思い出すのは、東都学院を辞めた日のことだった。
ロッカーの中に残された、あの紙切れ──「みんなお前が嫌いだ」。
信じていた同期に道具を隠され、練習中に背中を押され、転ばされた。何もかもが嫌になって、黙ってボールを置いた。
家に戻って、父親と顔も合わせず、風呂にも入らず寝ようとした夜。
ドアの外から、小さな声が聞こえた。
「おかえり、風祭くん」
千紗だった。クラスの誰よりも早く、自分を“見てくれてた”ひと。
あの声が、今でも耳の奥で鳴っていた。
翌朝。試合会場に向かうバスの中、千紗はポケットに一冊の小さな応援メモを忍ばせていた。
ページを開くと、いつものように「対戦校の得点傾向」「球数の目安」──でも、その裏に、ひとことだけ。
「がんばれ、風祭球児。大好きだよ」
ボールペンの文字が少しだけ歪んでいるのは、手が震えていたからか、心が走っていたからか。
それでも千紗はそっとページを閉じた。
「勝ったら伝える」「勝ってから渡す」
この気持ちは、きっと風に乗る。彼に届くと信じていた。
そして、グラウンドの土は、決勝戦の朝日に照らされ始めていた。
■
キャッチャーの仕事ってのは、結局、全部を“読む”ことから始まる。
相手打者の癖、ピッチャーの調子、試合の流れ、風向き、球場の空気。
そして──チームの“感情”だって、例外じゃない。
だから、俺はわかってた。
風祭とマネージャーの間に、ちゃんと“空気”があること。
決勝前日の夕方。
練習終わりのベンチ裏でノートをめくるふりをしながら、ちらっと見た。
グラウンドに残ってるのは、風祭と千紗だけ。
用具を片づけてるふたり。
いつもの風景、のはずなのに──今日の空気は、少しだけ“湿ってた”。
風祭がバットを数本束ねて持ち上げる。
千紗がグラブを抱えて彼に何か言う。
そのあと、ほんの一瞬だけ、ふたりの間に“沈黙”が流れる。
このタイミング、野球だったら絶対に“間”を詰めるところだ。
でも恋なら──“打たせて取る”のが正解かもしれない。
だから、俺はノートの余白に、こう書いた。
《石原の補助線:恋の作戦メモ》
1.風祭、ぜってぇ無自覚(確信)
2.千紗マネ、今日の声ちょっとだけ小さかった
3.こっそり背中押すタイミング:明日の勝利のあと
キャッチャーってのは、ただピッチャーの球を受けるだけじゃない。
バッテリー全体のテンポを整えるために、あえて“間”を外したり、“次”を想像させたりする。
恋だって、たぶん同じなんだと思う。
ふたりの“間”を詰めるのは、誰かがズカズカ入ってくることじゃない。
“整える”こと。
“信じて、任せる”こと。
俺は別に、誰かの恋を応援するために野球やってるわけじゃねぇ。
けど──
「マネージャーってのは、グラウンドの中じゃ一番近い存在だろ?」
今日の練習中にそう言ったのは、ほんの“打ち合わせ”だ。
あとは、風祭がちゃんと気づくかどうか。
……まぁ、たぶん気づいてんだろ。あいつ、顔に出るし。
ノートの最後の欄に、ひとことだけ書き足した。
「恋もゲームメイクだ。
でも、ここはベンチじゃねぇ。
ピッチャー、投げるなら今だろ」
帰りのロッカーで、風祭の背中を見た。
あいつの“投球”が、どんな結果を生むのか──
観客席から楽しませてもらうとするか。
■
夕方、いつもより少し遅れてグラウンドに顔を出すと、そこにはもう誰の姿もなかった。
唯一、倉庫の明かりがまだ点いていて、飯塚はそこで風祭と千紗が並んでいるのを遠くから見かけた。
ボールの数を確認しながら、千紗が小さく笑った。
風祭はそれを見て、ちょっとだけ首をかしげたあと、ぽつりと何かを言った。
聞こえたわけじゃない。でも、わかった。
――あ、あの顔は、たぶん「知ってるよ」って言ったな。
ふたりの距離は、ボールひとつぶんくらいだったけれど、もう誰も割り込めない気がした。
部室に戻った飯塚は、鞄の中からスコアブックを取り出す。
まだ、決勝のページは白紙のままだ。
でも、その欄外──「備考」のスペースに、彼はちいさな文字でこう書いた。
「背番号1の球は、あの子の『がんばれ』で150キロ超える気がする」
「……それって、恋ってやつじゃね?」
思えば、最初に風祭が入ってきたとき、飯塚は「やべぇやつ来たな」と思っていた。
でも、その隣にいた千紗は、最初から全然ぶれなかった。
フォームが崩れても、球が浮いても、
「風祭くんなら大丈夫」って顔で、彼のボールを記録していた。
スコアに“好き”って書く欄はない。
だけど、千紗の手帳は、きっとその“好き”でいっぱいなんだろうなって思う。
飯塚は笑いながら、ページをめくる。
そして、誰にも見せる予定のない欄外に、こんな落書きを残した。
「恋:記録対象外(ただし、試合結果には大きく影響)」
最後に、こう締めくくる。
「勝ったら告白って、めちゃくちゃ青春じゃん」
「……そういうの、嫌いじゃないぞ」
スコアブックを閉じる音が、小さな夜に響いた。
風の匂いが、なんとなくあまくて、
それはきっと、あの二人だけの風だった。
■
コンビニの袋を片手に、住宅街の細い坂道をゆっくり登る。
練習後の買い食いなんて、本来はやっちゃいけないのかもしれないけど……今日は、いいだろ。
だって、明日は決勝戦だ。
それくらい、自分に甘くたって、バチは当たらない。
左手の袋の中には、ペットボトルの麦茶と、からあげ棒。そして、小さなプリン。
どれも主将・三島が「勝負メシ」にしてきた“験担ぎセット”だ。
小さな交差点を曲がったところで、校舎が見えた。
──あれ? 倉庫の灯り、まだ点いてるな。
足を止め、柵越しにそっと覗くと、
そこには背中を向けた風祭と、立ち止まって何かを言おうとしている千紗の姿があった。
言葉は聞こえなかった。けれど、表情と空気だけで、なんとなくわかる。
ああ──なるほどな。
三島はにやりと笑って、袋を持ち直す。
そして、ポツリと小さくつぶやく。
「よかったな、風祭。……お前、ちゃんと“見てもらえてる”わ」
あいつのことだから、きっと気づいてないんだろう。
千紗の視線も、空気の揺れも、緊張した声の震えも。
でも、俺は気づいてたよ。
夏の初めから、ずっと。
帰り道の途中、ふとポケットの中のスパイク袋の紐がほどけていたことに気づく。
三島はしゃがんで結び直しながら、空を見上げた。
少し赤みの残った雲が流れていく。
風は、静かで、あたたかい。
「決勝、ちゃんと“勝って”渡させてやろうぜ。……恋も、夏も」
主将は誰よりも先に、
その恋がもう“叶いかけてる”ことに、気づいていた。
■
監督室の明かりは、もう落としてある。
だけど、眠る気にはなれなかった。
冷めかけた麦茶を片手に、風通しの悪い職員室の窓際で、ぼんやりと外を眺める。
夜風がカーテンを揺らすたび、野球部のあのグラウンドが見えるような気がして──思わず目を細めた。
今日は、練習が終わったあとも球児と千紗が残っていた。
用具整理か……と思って見ていたら、ふたり、しばらく話していた。
風祭球児は、誰かと並んで立っても違和感のない顔になったな──
そう思ったのは、父としてだったのか、監督としてだったのか、自分でもわからない。
机の引き出しから、何年か前のメモを引っ張り出す。
それは、球児が中学の県大会でノーヒットノーランをやった日の備忘録だった。
「背番号1が似合う顔になってきた」って、赤ペンで書いてある。
けれど──
今日の球児は、あの日よりもっと「背番号1」だった。
野球が上手いとか、そんなのとは違う。
誰かを“背負う”顔をしていた。
それも、球児自身が選んだ“誰か”を。
千紗の視線は、ずっとまっすぐだった。
あの子は、ずっと前から球児を“風祭くん”として見ていた。
監督の息子でも、かつての名門校の落伍者でもなく、ただ「投げる少年」として。
父親の自分がそれに気づいたのは、ずいぶんあとだった。
だから、なんとなく、頭が上がらない。
修司は手帳に、ぽつりと一行だけ記す。
「親として願うのは、勝利よりも“信じ合える誰か”に出会えること」
その誰かが、目の前にいるのなら──
明日の決勝、風祭球児はきっと、背番号“1”以上の何かを背負ってマウンドに立つだろう。
それが親の手を離れた証なら、胸を張って見届けようと思った。
外に目をやると、夜の風が一瞬だけ止まったような気がした。
「……ま、あいつの球が風を連れてくるんだ。今さら驚くことじゃねぇか」
修司は麦茶を一気に飲み干して、最後にもう一度手帳を開いた。
その余白に、小さな青ペンの文字でこう書き加える。
「あの子が見ているのは、もう俺の背中じゃない」
「でも、俺はあの子の“背中”を一番近くで見てきた」
「だから明日、最後の一球は……俺が心で受け取ってやる」
■
放課後のグラウンド。部員たちはすでに帰り、夕焼けに染まったベンチに、私と風祭くんだけが残っていた。
用具の整理。いつもと同じ、はずなのに。
グラブの革の匂い。整列されたスパイク。少し欠けたバットの塗装。そのどれもが、“決勝”という明日のために磨かれていた。
そして、風祭くんもまた、その中にいた。
私は静かに手帳を開き、ページの隅に小さな文字で書き込んでいく。
《観察日記・その19》
“いつもの整理をしている手なのに、指先の動きがゆっくりだった”
“用具の汚れを落とすとき、息を吐くようにそっと撫でていた”
“風祭くんの背中は、大きくなったわけじゃない。でも、私の気持ちが、そこにちゃんと届きそうだった”
グラウンドに風が吹いた。砂ぼこりが少しだけ舞い、風祭くんが片手で自分の髪を押さえる。
その仕草を見ていた私は、つい声に出してしまった。
「……明日、勝ったらさ。ひとつ、お願い聞いてくれる?」
心臓が、耳の裏まで届きそうな音を立てていた。
言葉にするって、こんなに勇気がいることだったっけ。
でも、私は知っていた。
明日、“お願い”を叶えてほしいんじゃない。
明日を、ふたりで越えていたい。それだけだった。
帰宅してからのページには、あのときの風祭くんの顔を思い出しながら、こう書いた。
「困ったように笑ったけど、あれは“うれしい困り顔”だった気がする」
「風祭くんは、私の“お願い”が恋のお願いだって、きっと気づいてる」
「でも、私が言い切らない限り、彼は何も言ってこない。──それが、風祭くん」
観察、という言葉ではもう足りない。
風祭くんは、誰かのヒーローになっていく。
でも私は、その“最初の読者”でいたい。
誰よりも早く、彼の背中を、歩き方を、投げ方を知っていた自信があるから。
そして、ページの最後にこう書いた。
「明日、私の声が届かなかったとしてもいい。
でもきっと、風祭くんの“最後の球”は、
……私の心にまっすぐ、届く気がする」
手帳を閉じたとき、私は泣きそうだった。
でも、泣かなかった。
泣くのは、明日の“勝ったあと”でいい。
その時は、ぜんぶちゃんと言おう。
大好きだって、はっきり。




