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「文乃」  作者: 新開水留
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51「世界の崩落」


 白昼夢や、幻覚、幻視、あるいは混乱からくる錯覚。

 それをどのように表現すれば他人の理解を得られるのか、文学サークルに身を置く人間でありながら、恥ずべき事に全く思いつかない。

 一瞬僕は地震が起きたのかと思った。だが想像に反して体は振動を感じていない。それなのに、目の前の世界は揺れていた。マンションの外壁からパラパラと小さなコンクリート片が落下してくる様が目に映る。

 振動する世界の中、目と口を黒く塗りつぶされたような顔で辺見先輩は、一人寂しく立ち尽くしていた。

 三神さんが渾身の力を振り絞り、長谷部さんと岡本さんの身体を自分の後方へ投げた。決して大柄ではない三神さんのどこにそんな力があるのか分からない。しかし自分で「今日は調子が良い」と宣言した事と、関係があるのかもしれない。

 僕は前に進み出て、意識のない岡本さんたちの身体をさらに後方へと引き摺った。

「新開さん危ない!伏せて!」

 文乃さんが叫び、僕は反射的に身を屈めた。

 ゴゴンッ、ゴトゴゴッ!

 耳ではなく脳に、僕の身体の半分ほどもある大きな石が転がって来る音が聞こえた。その石は回転しながら僕の身体を飛び越え、さらに後方へと転がり続け、ある瞬間忽然と消えた。

「あれは…まさか」

 前に向き直る。

 目の前にある筈のマンション『レジデンス=リベラメンテ』の外観が、揺らいでいた。それだけではない。そこに建っているマンションの向こう側が、透けて見えている。まるで蜃気楼のように、マンション全体が消えかかっているのだ。

 マンションの奥に透けて見えているのが…あれはそう…山だ。

 ある筈のない山が見えていた。

「噓だろ…こんな事が…」

 いつの間にか、岡本さん達を襲った悪臭の脅威はいずこかへと去っていた。今はなんの匂いもしない。だがその代わり、これまで目の当たりにしてきた怪異など比較にもならい光景が広がっていた。

 確かにその場所に存在する八階建てのマンションが消えかかり、天災に見舞われるまでかつて存在していたという山が復元しているのだ。今いる場所が山裾だとして、山頂までは直線距離にして一キロ近く離れている。しかし赤茶色の地肌を覗かせた、不安を煽る断崖が視界の中で激しく揺れている様は、僕にはほとんど目と鼻の先であるように感じられた。

 三神さんでさえ茫然自失の様子で黒雲の渦舞く曇天を、そして山を見上げている。

 そんな彼の眼前に、変わり果てた姿の辺見先輩が立っていた。が、それを辺見先輩と呼んで良いのかも分からなかった。微動だにしない今だからこそ、僕には見えるのだ。その姿形はまるで、大学の医務室前の廊下に現れた、怨霊の人影そのままだった。その体は明らかに辺見先輩よりも大きく、ザンバラに伸びた髪は所々が皮脂によって毛束と化し、泥や埃で汚れた顔はひび割れて赤黒い血筋が何本も浮かんでいる。そして口と目が、ない。それらがあった場所は黒く落ちくぼみ、おかげでなんの表情も読み取る事は出来なかった。 

「なんだよ、あれ…」

 思わず僕の口を突いて出たのは、そんな原始的な呻きだった。

 いわゆるそれが悪霊による憑依なのか、あるいは辺見先輩の存在を僕らの視界から退け、代わりに悪霊がそこに立っているのか。どちらにせよ、もはやそれを辺見先輩であると認識する事は不可能だった。シルエットも顔つきも、似ても似つかない別のナニカに変貌してしまったのだ。  

「こりゃあ、たまらんなぁ…」

 声が聞こえ、気が付けば三神さんが辺見先輩を見つめていた。

 二人の距離はほんの二メートル程しか開いていない。

 ほとんど目の前にいるといって差し支えの無い異形の存在に、三神さんは怯えた様子でもなく、ただ諦めを感じさせる口調でこう言ったのだ。

「どこまでもワシの先を行きよったなぁ…」

 不意に、悪霊が首を傾げた。右へ九十度、顔を傾けた。

 すると虚空から拳大の赤黒い肉片が落ちて来て、三神さんの背後でベチャリと音を立てた。

 その瞬間、三神さんの身体が真後ろへ折れ曲がり、まるで二つ折の携帯電話を逆へ折り畳むように、三神さんの身体は勢いよく仰け反った。

「あがががッ、がが!」

 痛みと恐怖に抗うように、三神さんは両手で宙を引っ掻く。

 と、まるで背中側から見えない空気に支えられたように、三神さんの身体が折れ曲がるのを止めた。

 僕の隣で、文乃さんが両手を前に突き出していた。彼女の髪の毛の先が、ふわふわと重力に逆らい立ち昇り始める。

「辺見先輩やめてください!三神さんはあなたの命の恩人じゃないですか!」

 叫ぶ僕に対し、

「新開さん、あれは辺見さんではありません」

 と、歯を食いしばって文乃さんは言う。

「だけど!」

「霊障を受けやすい辺見さんの体が利用されているだけです。彼女の体に向かって濁りのある空気が物凄いスピードで雪崩れこんでいくのが見えます」

「濁りのある空気?」

「おそらくは、亡くなられた被災者たちの魂…」

「そ、んな」

 僕にはそうは見ない。目を覆いたくなるような醜悪な形相をした悪霊が、三神さんを取り殺そうとしてるようにしか見えないのだ。しかし三神さんはなんとかそれに耐え、文乃さんの助力を得て少しずつ体を起き上がらせていく。

「新開さん」

「はい!」

「私達の左前に、何かが揺らいでいるのを感じます。なにか見えますか!?」

 左前…?

 何も見えない。何も揺らいでいるようには…。

 …いや。待てよ、何だあれは。

 三神さんと僕たち二人の間、丁度真ん中あたりの空間に、縦二メートル程の亀裂があるように見える。

 振動する世界であるがゆえにその亀裂もまた揺れており、ほんの数センチほどの隙間を擁するその亀裂はしかし、すこしずつ広がっているようにも見えた。

「なんだ、なんだこれは!?」

「人の気配を感じます!何が見えますか!? ッああ!」

 突如文乃さんが膝を折った。

 見れば三神さんの体が再び真後ろへ折り畳まれようとしていた。文乃さんの見立てが正しければ、三神さんの体は今、土砂災害にて亡くなった犠牲者たちによる一斉攻撃を受けている。そもそも一人二人で対抗出来るわけがないのだ。

「んッ!」

 文乃さんが正面から顔を背けるように左側を向いた。彼女の右耳から補聴器が外れ、耳の穴からドプリと血が流れ出た。

「文乃さん!」

 その時だった。

 僕の脳内に突如、三神幻子の声が反響した。

 声は、こう叫んでいる。

『彼を呼んで!彼の名を呼んで!あなた達がどこにいるのか分からないの!道はもう既に開いているはずです!誰でも良い!彼を呼んで!』

 考えている暇はなかった。

 僕は腹の底から叫んだ。

「文乃さんを助けてください!池脇さん!」

 その瞬間、空間の亀裂が音もなく横に広がり、黒のライダースジャケットを着た大きな背中が倒れ込むようにして現れ出た。

「噓だろ…」

 生きた人間すら飛ばしたってのか!?

 あの子は一体、なにものなんだ…。





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