52「追憶の雨」
目の前に色がる、振動する世界。
容貌すら変わってしまった尊敬すべき僕の先輩と、まるで理解不能な状況下で命の危機に瀕する拝み屋。完全に右耳の機能を失ったであろう、心優しき大家さん。そして、何もない空間に突如開いた亀裂から姿を現したバンドマン。
僕の目に映る世界は、現実が崩壊したゆめまぼろしの幽世だろうか?
目を覆いたくなるようなこんな世界で、一体僕に何ができるというのか?
池脇さんはさすがに混乱した様子で、何度も自分の両手を裏返し見て五体満足である事を確認している。マンションに背を向ける形で現れた彼はすぐに僕と文乃さんに気が付き、そして表情を曇らせた。
「助けてください、池脇さん!」
彼が何を言うよりも早く呼びかけた僕を無視し、池脇さんは何も言わずに振り返り、消えかけているマンションとその向こう側に見える山を見据えた。
「辺見先輩が!三神さんが!」
「竜二君、私はここから動けないの。二人をお願い」
突然現れた彼には正直なんの事だか、何が起きているのか理解不能だっただろう。だが少なくとも僕や文乃さんの切羽詰まった必死さが、冗談ではない事くらいは伝わったはずだ。池脇さんは大きくため息をつくと、黙ったまま辺見先輩と三神さんのもとへと近づいていった。
見下ろすように三神さんを睨んでいた悪霊が、顔を上げて池脇さんを見た。
「あうッ」
右耳を庇うように顔を背ける文乃さんと同時に、池脇さんの頭が後方へ弾かれ上半身が仰け反った。しかし彼は体を起こすと歩みを止めることなく、真っ直ぐに距離を詰めて行く。池脇さんはそのまま三神さんの真横に立つと、ゆっくりと悪霊の肩を掴んだ。
「何やってんだ、辺見」
異様な光景だった。悪霊かどうかはさておいても、僕は霊体の身体をむんずと掴んだ人間を初めて見た。ということはやはり辺見先輩は、そこに立っているのだ。
悪霊が池脇さんに顔を近づける。二人の距離は数センチ程である。
池脇さんの目にはそれがどのように映っているのか定かではない。僕と同じものを見ているのか、あるいは辺見先輩だと認識している以上、いつもの先輩の姿を見ているのか。もし前者であれば、あの至近距離で顔を突き合わす事など僕には絶対に無理だ。
池脇さんに、恐怖心というものは存在しないのか?
「おい、辺見」
池脇さんが何度目かに声を掛けたその時、悪霊が「いやいや」をするように大きく首を横に振った。
僕は一瞬とんでもない霊障が飛んで来るかと身構えたが、何も起きなかった。それどころか、池脇さんは悪霊を見据えたまま左手で三神さんの肩口を掴み、生身の腕力だけで霊障に抗い、彼の身体を引っ張り起こした。
すると呼応するかのように、再び悪霊が首を振った。
「なんだよ、どうした。ちゃんと自分の口で言えよ」
問い詰める池脇さんの背中に、
「竜二君、辺見さんは今ッ」
と文乃さんが弁護の声を差し向ける。
しかし池脇さんは彼女の声を無視し、三神さんの肩をを力強く握りしめたまま悪霊に向かってこう言った。
「何を堪えてんのか知らねえが、お前一人で張り切ってんじゃねえよ。このオッサンも、新開も、文乃だっているじゃねえか。俺には何にも分かんねえけどよ、とりあえずは来てやったろ? まあ、連れて来られたに近いけど。だからよ、お前が抱え込んでるもん、全部吐き出せ」
この時池脇さんには、辺見先輩が口を噤んで何かに耐えているように見えていたそうだ。
悪霊どころか、何かに憑依されて三神さんを攻撃しているなどといった様相には全く見えず、ただ一人で苦しみに耐え、我慢しながら戦っている、そんな風に見えていたのだという。
池脇さんの言葉を聞いた悪霊は、やがてゆっくりと空を仰ぎ、
「…ごめん」
そう言った。
意識が朦朧とし、首をグラつかせていた三神さんが、その瞬間覚醒したように頭を起こした。
「来るぞォッ!」
三神さんが叫んだ瞬間、悪霊が勢いよく真上へ飛び上がった。仮面とマントを脱ぎ去ったように辺見先輩の姿が現れ、彼女は空を仰いだまま泣いていた。
振動する世界が、停止した。
ザザンッ!!
鼓膜を破るほどの強烈な音と共に、滝のような雨が降り注いだ。
それはもはや雨粒ではなく、大きく長い針を思わせた。
後に聞いた話では、辺見先輩はかつて山であった場所から流れ落ちて来る、悲しき霊体たちのもたらす霊障をたった一人でその身に受け、堰き止めていたのだという。
先輩は初め、岡本さんの述懐を聞くうち、どうしようもない怒りに心が黒く支配された。そして意識が戻った時には既に、岡本さんと長谷部さんをその手に掛けていたそうだ。だがその時先輩は、かつて大学の医務室で体内に侵入した泥のような霊障を弾き飛ばしたやり方で、身の内に巣食う悪い気を押し出そうと思いついた。
だが、背後の山であった場所からどんどん、どんどん、次から次へと悲鳴のようなこの世への未練が流れ込んでくる。恐怖に身がすくんだ瞬間、手を差し伸べてくれた三神さんの身体をへし折る程の『力』が漏れ出た。このまま自分が霊障を体の外へ追い出しては、おそらく三神さんは即死し、文乃さんや僕の命まで奪い去る気がした。
辺見先輩はずっと、耐えていたという。
しかし突如何もない空間から現れた池脇さんの温もりに満ちた言葉に、彼女は全てを解き放つ決心をした。
「この大雨とて現実ではない。口惜しいが、これ程の現象を引き起こす怨念を相手にワシら人に出来ることなど、初めから何もなかったのかもしれぬ。プロの拝み屋が聞いて呆れるわ」
三神さんは吐き捨てるように言い、僕らを振り返った。
「さらに、来るぞ。もうすぐあの山が崩落し、全てを呑み込むだろう。その時果たして、この中の何人が生き残れることだろう。もはや…」
「私は諦めませんよ」
そう言ったのは、文乃さんだった。
辺見先輩が雪崩れ込んでくる霊障を堰き止めていたとは言え、三神さんの身体が真っ二つに折れ曲がるのを寸前で防いだのは文乃さんである。何度も言うが文乃さんは、霊体やそれらがもたらす霊障を目で見る事は出来ない。自分の視界で巻き起こる現象がどのような規模で、どのような理屈なのかを彼女が正確に把握する術はないのだ。おそらく文乃さんは、お世話になっている三神さんの命の危機に直面し、『全力』を出したと思われる。
「文乃さん…」
今、文乃さんの右耳は血に染まり、実態のない雨に濡れながら真っ赤な花を咲かせていた。
そして彼女の右足は、膝から下があらぬ方向へ曲がっている。
文乃さんは左足でなんとかバランスを保ちながら、凛とした表情で山肌を見据えた。
「私がくい止めます。ですから、皆さん早く、お逃げになってください」
何を言うとるかッ。
慌てふためく三神さんの声など、文乃さんには聞こえていなかったかもしれない。
文乃さんの顔に浮かぶのは覚悟であり、信念だった。
だがそんな彼女の前に、池脇さんが立ちはだかる。
「もうお前は十分やった。ここにいる誰もがそれを知ってる。誰も文句なんか言わねえよ。帰ろう、文乃。俺は、お前を死なせるわけにはいかねえんだ」
文乃さんは目に涙を浮かべ、込み上げる感情を気取られぬように、唇を真一文字に結んだ。
そして微笑みを浮かべた顔で池脇さんを見上げ、
「らしくないなあ」
と言って、笑顔を見せた。
「竜二くんはそう人じゃないでしょお? 十分やったからもういいなんて、そんな事言う人じゃないでしょうよぉ」
友人同士のくだけた会話。文乃さんの口調には親しみや、池脇さんに対する信頼が込められている。だがしかし、彼女の声はどうしようもなく震えていた。
池脇さんが右手を差し伸べた。
「この手を握れ、文乃。あいつを追わせることだけはさせねえ」
文乃さんは微かに首を横に振り、強い目で再び池脇さんを見上げた。
「同情はいらない」
「だか」
「だから竜二君。…全力で応援して」
僕はこの日の出来事を、生涯忘れることがないだろう。
この日、住民が誰もいないマンションに集った僕たちは、例え誰に信じてもらえなかったとしても、確かに奇跡を起こしたのだ。だがその奇跡は偶然の産物でも、幸運がもたらしたのでもない。
…僕たちは。
「文乃さん。僕はどこへも行きませんよ」
最高のチームだった。




