エピローグ 2
夕日がゆっくりと水平線へ沈んでいく。
茜色に染まる海辺には、穏やかな波音だけが響いていた。
麗華と黒崎は、寄せては返す波を背景に向かい合って立っている。
潮風に長い黒髪を揺らした麗華は、小さく微笑むと、胸に抱えていた小さな箱を黒崎へ差し出した。
「黒崎」
「はい、お嬢様」
「お誕生日、おめでとう!」
黒崎は静かに微笑み、それから深く一礼する。
「……ありがとうございます、お嬢様」
大切そうに両手で箱を受け取る。
「いま開けてもよろしいですか?」
「えぇ。開けてみて」
黒崎が丁寧に包み紙をほどき、ふたを開けると、中には一本の眼鏡が収められていた。
黒いフレームに銀色の装飾が施された、上品な特注品。
黒崎は思わず息をのむ。
「これは……」
麗華は優しく微笑む。
「以前から、眼鏡のレンズにひびが入っているのが気になっていましたの。
なのでこっそり、私がデザインしたものを特注で作っていただきました」
黒崎は静かに今まで掛けていた眼鏡を外す。
レンズには、小さなひびが何本も入っていた。
新しい眼鏡をそっと掛け直す。
視界が鮮やかに開ける。
「……よく見えます」
黒崎は自然と笑みを浮かべた。
麗華は満足そうに頷く。
「とてもお似合いですわ」
黒崎は麗華を真っ直ぐ見つめる。
「ありがたき幸せです」
その穏やかな表情に、麗華も嬉しそうに微笑んだ。
「黒崎…」
麗華は黒崎に一歩近づく。
「本当によく見えまして?」
さらに一歩。
「周りの景色……」
黒崎は、新しい眼鏡の位置を指先でそっと整え、穏やかに微笑む。
「はい。驚くほど鮮明に見えます」
「よかった…」
麗華は満足そうに笑った。
次の瞬間、その笑みはどこかいたずらっぽいものへと変わる。
「でしたら……」
一歩。
砂浜を踏みしめる小さな足音が響く。
黒崎との距離が縮まっていく。
「お、お嬢様……?」
黒崎が戸惑ったように声を漏らす。
麗華は何も答えず、もう一歩近づいた。
夕日に照らされた瞳が、黒崎の瞳を真っ直ぐ映す。
「黒崎」
その声は、波音に溶けてしまいそうなほど優しかった。
「新しい眼鏡で……」
麗華はゆっくりと顔を近づける。
二人の距離は、あとわずか。
潮風がふわりと吹き抜け、麗華の髪が黒崎の腕をかすめた。
黒崎の鼓動が、速くなる。
執事として、どんな時でも冷静でいるはずの彼が、その距離だけはどうしても平静ではいられなかった。
「……わたくしのことも、ちゃんと見えていますか?」
麗華はいたずらっぽく微笑む。
その紫色の瞳は、夕日の光を受けて宝石のように輝いていた。
黒崎は思わず息をのみ、視線をそらせない。
「……はい。世界で、一番よく見えています」
その言葉に、麗華は一瞬だけ目を丸くする。
やがて頬をほんのり赤く染め、小さく笑った。
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。
波が静かに砂浜を洗い、夕焼けが二人を優しく包み込む。
その距離が、さらに近づこうとした――その時。
「ニャアー!」
鳴き声とともに、一匹の白猫が勢いよく飛び込んできた。
「えっ?」
思わず麗華が驚く。
一匹の白猫がひょいと飛び上がると、黒崎の顔から新しい眼鏡を器用にくわえ、そのまま砂浜を駆け出した。
「あっ!」
黒崎が目を丸くする。
その間に麗華が白猫を追いかけて走り出した。
「お待ちなさい!」
白猫は楽しそうに尻尾を揺らしながら、どんどん遠ざかっていく。
「もう、お待ちなさいったら!」
白猫を必死に追いかける麗華。
黒崎は急いで二人の後を追った。
「お嬢様!私が追いかけるので、待っていてください!
また転んでしまいます!」
夕焼けに染まる海辺、二人の声と一匹の白猫の鳴き声だけが響き渡る。
白猫の行く先に新たな困難があることを、二人はまだ知らない。




