第20話 宝石を脱いだ侯爵令嬢
第20話 宝石を脱いだ侯爵令嬢
独立監査官の公開試験を五日後に控えた朝、エレノアのもとへ差出人のない小包が届いた。包み紙には安い石鹸の匂いが染みつき、麻紐の結び目には青い糸が一本絡んでいる。中に入っていたのは、欠けた真珠一粒と、西地区の住所を書いた紙だけだった。
エレノアは灰色の実務服から、青みを帯びた黒い外出着へ着替えた。胸には職を失った日に返した銅章ではなく、公開試験の受験票を内側から留めている。化粧台には紋章のない鉄の徽章が置かれ、欠けた青いカップでは豆苗の三度目の芽が一本だけ残っていた。
「お一人で行くおつもりですか」
侍女のマーサは、エレノアの髪を結びながら鏡越しに睨んだ。椅子の背には洗った黒い靴下が片方だけ干され、暖炉のそばには朝食の胡桃パンが残っている。エレノアが手を伸ばす前に、マーサがパンを紙へ包んで鞄へ入れた。
「住所を知っているのは、送り主と私だけです。護衛を連れていけば警戒されます」
「真珠一粒で呼び出す方を信用するのですか」
「信用しておりません。だから確かめます」
「それを世間では危ないと言います。せめて宰相閣下へ知らせてください」
「知らせれば同行すると仰います」
「よくお分かりではありませんか」
エレノアは反論せず、鞄へ真鍮の鐘を入れた。帽子の少女は緊張したときに鳴らすよう言ったが、危険を知らせる役にも立つ。ところがマーサは鐘だけでは足りないと言い、木製の麺棒まで入れようとした。
「何に使うのです?」
「頭を叩きます」
「私が持てば、私が叩くことになりますわ」
「では、角を曲がったところで待っています。私は侯爵令嬢ではありませんから、怪しまれません」
「麺棒を持った侍女は、十分に怪しいです」
結局、マーサは麺棒を置き、代わりに黒い雨傘を持って同行した。外では細かな春雨が降り、石畳の隙間から紫色の菫が咲いている。市場のパン屋からは、焼けた小麦と干し葡萄の匂いが流れていた。
紙に書かれた住所は、職人街の端にある二階建ての借家だった。一階では仕立屋が営業し、窓辺には洗った白い襟飾りが何枚も干されている。二階へ続く木の階段には、乾かすための玉葱が籠ごと置かれ、踏むたびに皮がかさかさと鳴った。
部屋の扉を開けたのは、生成りの木綿服を着たミレイユだった。金糸も刺繍もなく、袖口は自分で繕ったらしく、縫い目が斜めになっている。かつて宝石で埋まっていた首には、細い青い布が一周だけ巻かれていた。
「随分と遅かったですわね」
「指定時刻の五分前です」
「貴族の訪問は、相手を待たせるものです」
「では、今のあなたには必要のない習慣ですわ」
ミレイユの頬が引きつった。エレノアは言いすぎたと気づいたが、謝らなかった。追放の日に笑っていた女を前にすると、革手袋の中で爪が掌へ食い込んだ。
部屋は六畳ほどしかなかった。寝台の上には洗濯物が重なり、椅子には片方の踵が取れた靴が置かれている。小さな卓上には冷めた玉葱のスープと、端だけかじった黒パンがあり、香油の代わりに煮炊きの煙が髪へ染みついていた。
窓辺には、欠けた鉢へ植えた水仙が一本あった。茎は窓のほうへ曲がり、黄色い花を横向きに咲かせている。ミレイユはエレノアの視線に気づき、居心地が悪そうに鉢の向きを変えた。
「大家の娘が置いていったのです。私は花など育てません」
「水は替えているようですが」
「枯れて臭うと困りますもの」
「そういうことにしておきますわ」
ミレイユは椅子から靴をどけ、座るよう促した。靴の下から、縫いかけの青い布袋が出てきた。彼女は慌てて寝台の洗濯物へ押し込み、何も見られていない顔で冷めたスープを飲んだ。
「お茶はありません。水ならあります」
「結構です。真珠を送った理由を伺います」
「それは偽物です」
「分かっています。表面の巻きが剥がれていますから」
「昔のあなたなら、宝石を見ても価格表しか思い浮かべなかったでしょうに」
「今も同じです。この真珠なら銅貨二枚にもなりません」
「本当に嫌な女ですこと」
「呼び出したのは、あなたですわ」
ミレイユは卓上のスープ皿を窓辺へ押した。玉葱の切れ端が一つ、皿の縁へ貼りついている。彼女は青い首布の端を指で何度も撫で、エレノアから目をそらした。
「あなたに渡したいものがあります。宝飾商から購入した品の目録、王室保証をつけた注文書、外国の銀行へ送った金額の控えです」
「なぜ今まで隠していたのです?」
「自分を守るためです。アルベルト殿下が、王室保証があれば支払いは国庫から出ると仰ったのです。私は言われた書類へ署名しただけです」
「内容を読まずに?」
「侯爵令嬢が細かな契約書など読みません。商人と財務官の仕事でしょう」
エレノアは卓上へ偽物の真珠を置いた。ミレイユは被害者を装っているが、注文書へ署名したのも、宝石を身につけたのも、代金の出所を確かめなかったのも彼女自身だった。冷めたスープの脂が薄い輪を作り、窓から入る風で表面がわずかに揺れていた。
「あなたは騙されただけだと仰りたいのですね」
「そうよ。アルベルト殿下と商人たちが、何も知らない私を利用したのです」
「何も知らなければ、何をしても許されるのですか?」
エレノアの声が大きくなった。隣室で赤子が泣き始め、階下の仕立屋が天井を棒で叩いた。ミレイユは肩を震わせたあと、細い青い布を握った。
「あなたには分からないでしょうね! 私は美しく着飾り、殿下の隣で笑っていなければ価値がなかったのよ。宝石を返せば愛されなくなる。注文書を断れば、別の令嬢へ行ってしまう。そう言われ続けたのです!」
「だから国庫の金を使ってよい理由にはなりません!」
「あなたは才能があった! 眼鏡と灰色の服だけでも、帳簿を開けば誰かが必要としたでしょう。私には顔とドレスしかなかったのよ!」
エレノアは口を開きかけ、言葉を止めた。ミレイユを愚かな浪費家とだけ考えていたが、宝石を失った彼女は、家賃を払うために青い布袋を縫っていた。だからといって罪は消えないものの、利用された部分まで存在しないことにはできなかった。
「今の言い方は訂正します。あなたは騙されただけではありません。しかし、すべてを計画した者でもないのでしょう」
「謝っているの?」
「事実を分けているだけです」
「相変わらず、可愛げがありませんわね」
「あなたに評価されたくありません」
ミレイユは鼻をすすり、冷めたスープを一口飲んだ。塩気が足りないらしく、棚から小瓶を取り出したが、中は空だった。エレノアは鞄から胡桃パンを出し、半分に割って卓上へ置いた。
「毒は入っていませんわよね」
「朝、マーサが包みました。毒より小言が染みています」
「胡桃は嫌いです」
「では、私が胡桃の多いほうをいただきます」
二人はしばらく、問題とは関係のない朝食を食べた。パンは固かったが、スープへ浸すと噛めた。ミレイユは玉葱を一切れ残し、端へ寄せる癖があった。
食べ終えたころ、階下で扉の開く音がした。重い靴音が二人分、仕立屋の主人へ何か尋ねている。ミレイユの顔から血の気が引き、窓辺の水仙の鉢を持ち上げた。
「来たわ」
「誰です?」
「グラーツ公爵の者よ。昨日も、この部屋を探っていた。目録を渡せと言われたけれど、処分したと答えたの」
「証拠はどこです?」
「今は言えません。先に約束して。私を免罪してください。そうすれば全部渡します」
エレノアは即答しなかった。自分はすでに財政再建監査官ではなく、独立監査官にも合格していない。免罪を約束する権限など、最初から持っていなかった。
「できません」
「では帰って!」
「免罪はできません。ただし、被害弁済へ協力した金額と証言は、量刑判断の資料になります」
「そんなもの、確実ではないでしょう!」
「確実でないから、契約書へ書ける範囲だけを書きます。虚偽の証言をすれば協力とは認めないことも入れます」
エレノアは鞄から紙を出した。公開試験の勉強用に持っていた白紙だったが、床の不安定な卓では文字が揺れた。彼女は書く前に紙の端を三度叩き、ミレイユが保管する証拠を当局へ提出すること、売却可能な私有財産を被害弁済へ充てること、証言の内容に応じて裁判所へ協力記録を提出することを書いた。
靴音が階段へ近づいた。マーサが廊下で誰かと話し始め、雨傘の先で床を強く叩いている。時間を稼ぐため、仕立屋の採寸が終わっていないと怒鳴っているらしい。
「署名してください」
「署名したら、もう逃げられないわ」
「署名しなくても、階段を上がってくる方々からは逃げられません」
「本当に嫌な女」
「二度目ですわ」
ミレイユはペンを取った。これまで注文書へ飾りのように書いていた華麗な署名ではなく、一文字ずつ確かめながら自分の名を書いた。途中でインクがかすれ、彼女は二度ペン先を浸した。
署名を終えると、ミレイユは水仙の鉢から土をかき出した。底には薄い金属板が敷かれ、その下から真鍮の鍵が出てきた。土のついた鍵には、青い糸が結ばれている。
「証拠はこの部屋ではありません。宝石を差し押さえられる前、王都銀行の貸金庫へ入れました」
「この鍵だけで開きますか」
「私の署名と、注文書に使った王室印の写しが必要です」
「その写しも貸金庫に?」
「いいえ。青い布の中です」
ミレイユは首へ巻いていた布を外した。二重に縫われた部分を爪で開くと、細く折った紙が出てきた。紙には王室印の写しと、貸金庫の番号が記されている。
扉が激しく叩かれた。グラーツ公爵の使いだと名乗る男が、未払い債務の確認に来たと叫んでいる。エレノアは真鍮の鐘を鞄から出し、窓を開けて三度鳴らした。
高い音が雨の路地へ響いた。向かいの建物で待機していた帝国衛兵が顔を上げ、こちらへ走ってくる。マーサが扉の前から退くと同時に、二人の男が室内へ押し入った。
男の一人は、卓上の契約書へ手を伸ばした。エレノアは錫の柄杓を持ってくればよかったと思いながら、手近にあった冷めたスープを男の袖へ浴びせた。玉葱と脂の匂いが広がり、男が怯んだところへ衛兵が踏み込んだ。
「食べ物を粗末になさいましたわね!」
ミレイユは侵入者ではなく、エレノアへ怒鳴った。先ほどまで玉葱を残していたくせに、空になった皿を惜しそうに抱えている。エレノアは男を拘束する衛兵を見ながら、思わず言い返した。
「証拠を奪われるところでしたのよ!」
「投げるなら水仙の鉢があったでしょう!」
「あなたが土を掘り返しました!」
「植え直せば済みます!」
騒ぎが収まると、二人は顔を見合わせた。階下では仕立屋の主人が、天井から落ちた埃を箒で掃いている。マーサは黒い雨傘を握ったまま、やはり麺棒を持ってくるべきだったと繰り返していた。
その日のうちに、エレノア、ミレイユ、帝国衛兵は王都銀行へ向かった。貸金庫からは宝飾品の目録、王室保証を偽造した注文書、外国銀行への送金控え、グラーツ公爵の署名入りの指示書が見つかった。書類の間には、アルベルトとミレイユが注文した夜会用衣装の生地見本まで挟まっていた。
ミレイユは取調室で、青い首布を外したまま証言した。白い首には、重い首飾りを長年つけていたための薄い擦れ跡が残っている。彼女は一枚ずつ書類を読み、どれを自分が注文し、どれをアルベルトに頼まれ、どれをグラーツ公爵の秘書が持ってきたかを答えた。
「この署名も、あなたのものですね」
取調官が偽造注文書を示した。ミレイユは以前のように、読まずに署名しただけだとは答えなかった。自分の名が書かれた箇所を指でなぞり、青い布を膝の上で握った。
「私の署名です。内容を確かめず、王室が払うなら構わないと思って書きました」
「脅されたのですか」
「宝石を返せば、殿下に捨てられるとは言われました。でも、最後にペンを持ったのは私です」
取調官が証言を書き留める間、ミレイユは机の上の冷めた茶を飲んだ。以前なら香りが悪いと突き返したはずだが、今日は砂糖を一つ入れ、最後まで飲んだ。カップの底には溶け残った砂糖が少しだけ残った。
帰り際、エレノアは真鍮の鍵を証拠品として預けた。青い糸だけは外され、不要な物として返された。ミレイユはその糸を受け取ると、首布の裂けた部分を縫い始めた。
「それを、また首へ巻くのですか」
「この部屋で一番高価な布なのです」
「貸金庫の使用料も、被害弁済へ含めますわよ」
「あなた、監査官ではないでしょう」
「公開試験の候補者です」
「落ちればいいのに」
「証人への威圧として記録しますわ」
ミレイユは針を持ったまま、声を上げて笑った。笑った拍子に針先を指へ刺し、赤い血の粒が青い布へ一つ落ちた。彼女は舐めて消そうとしたが、エレノアが小さな布を差し出した。
部屋を出る前、エレノアは窓辺の水仙を新しい土へ植え直した。倒れていた黄色い花は、木の匙を支柱代わりにすると、どうにか立った。鉢の下にはもう鍵も書類も隠されていない。
エレノアの鞄には、ミレイユが署名した協力契約書の写しと、返された青い糸が入った。紋章のない鉄の徽章へ糸を結ぶと、黒い金属の上で青が細く揺れた。五日後の公開試験で、彼女はその徽章を受験票と一緒に机へ置くことになる。




