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第19話 唯一の黒字を解雇します

第19話 唯一の黒字を解雇します


解任採決の朝、エレノアは追放された日に着ていた灰色のドレスを選んだ。首元まで釦が並び、袖口には何度洗っても落ちなかった薄いインク染みが残っている。黒縁眼鏡をかけると、鏡の中には半年分だけ髪の伸びた、あの日とよく似た女が立っていた。


寝室の長椅子には、純白のドレスが箱から出されていた。背中が大きく開き、真珠の刺繍が朝日を受けて淡く光っている。侍女のマーサは最後まで純白を勧めたが、エレノアが首を横に振ると、ドレスを乱暴に畳み始めた。


「皺になりますわ」


「お召しにならないのでしょう?」


「着ないことと、乱暴に畳むことは別です」


「解任される日に、そこまで地味な服を選ぶことも別問題です。せめて口紅くらい濃くしてください」


「議員を唇で説得する気はありません」


「皆様、話を聞く前に顔と服をご覧になります。人間は帳簿ほど行儀よくできておりません」


マーサは小さな刷毛へ深紅の紅を取り、エレノアの唇へ薄く塗った。化粧台には、昨夜の焼き林檎が半分残っている。蜜は固まり、シナモンの香りも弱くなっていた。


「朝食を召し上がってください」


「入りません」


「議場でお腹が鳴りますよ」


「解任理由に空腹を一項加えていただきます」


「それなら、私が議会へ提出します。『監査官は焼き林檎を残すほど職務に不適格』と」


エレノアは仕方なく、冷えた林檎を二口食べた。酸味が強く、蜂蜜の固まった部分だけが舌へ甘く残る。マーサは満足すると、純白のドレスをもう一度広げ、今度は皺がつかないよう薄紙を挟んで畳んだ。


机の上には、これまで持ち歩いてきた物が並んでいた。赤い糸綴じの帳面、黒紐で結んだ偽報告書、小松菜の種袋、ブルーベリーの品種を分けた青い布、そして子供たちから借りた真鍮の鐘である。欠けた青いカップには、三度目の豆苗が細い茎を伸ばしていた。


エレノアは何を議会へ持っていくか迷い、結局すべて鞄へ入れた。公務上の証拠だけなら帳面と報告書で足りる。それでも、小さな鐘も種袋も机へ残していけなかった。


「鞄が膨らんでおります」


マーサが持ち上げようとして、顔をしかめた。中で鐘が鳴り、小松菜の種が袋の中をさらさらと流れた。青いカップだけは割れないよう、マーサが厚い布で三重に包んだ。


「議会へ畑を持っていくおつもりですか」


「畑は持っていけません。だから、種だけです」


「お昼のパンは入りませんよ」


「議会で出ます」


「解任する相手へ、まともな昼食を出すと思いますか?」


「帝国議会は、そこまで礼儀知らずではありません」


しかし議会の控室へ用意されていたのは、冷めた紅茶と、縁の欠けた乾燥パンだけだった。パンには薄いチーズが一枚挟まれていたが、端が乾いて反り返っている。エレノアは一口かじり、マーサの予想が当たったことを認めた。


控室の窓からは、帝国議会の中庭が見えた。雪はほとんど消え、黒い土から紫色のクロッカスが咲いている。庭師が落ち葉を集めていたが、風が吹くたびに同じ葉が元の場所へ戻った。


扉が開き、ルシアンが入ってきた。彼は黒い宰相服へ銀の肩章をつけ、髪をいつもよりきっちり撫でつけている。片手には書類、もう片方には殻を剥きかけた茹で卵があった。


「また卵ですの?」


「昼食だ」


「半分しか剥けていません」


「書類を読みながらでは難しい」


「貸してくださいませ」


エレノアは卵を受け取り、卓上で殻を剥いた。白身の一部まで殻についてしまい、ルシアンが無言でそこを見た。彼女は欠けた白身を自分の口へ入れ、残りを彼へ返した。


「これで平等です」


「私の卵だったはずだ」


「剥いた手数料ですわ」


「解任されても、卵を剥く仕事なら雇える」


「お断りいたします」


二人の間には、婚姻と職務を分ける契約書の草案が置かれていた。エレノアは、ルシアンが拒否権を使わずに済むよう、昨日まで解任理由への反論を準備していた。しかし心のどこかでは、最後には彼が自分を残すと考えていた。


「閣下は、本日の採決で拒否権をお使いになりますか」


「使わない」


ルシアンは即答した。エレノアの指が卵の殻へ触れ、細かな破片を床へ落とした。暖炉の中では薪が崩れ、赤い火の粉が一度だけ上がった。


「理由を伺っても?」


「私が拒めば、君の任命も、君が行った監査も、私情で守られたものになる」


「議会が間違っていてもですか」


「議会には、間違った決定をする権限もある」


「ずいぶん便利な理屈ですわね」


エレノアは声を強くした。ルシアンの胸元へ、言葉を投げつけるように続けた。


「最初から、私を解任させるおつもりだったのですか。土地を調べさせ、豆を育てさせ、民へ本当の赤字を公表させたあとで、邪魔になった監査官を議会へ渡す。閣下にとっては、それが一番損の少ない取引なのでしょう!」


言い終えてから、控室の隅に書記官がいることに気づいた。書記官は聞こえないふりをして、冷めた紅茶へ砂糖を入れている。角砂糖を四個も入れたため、カップの底で匙が止まっていた。


ルシアンは怒鳴り返さなかった。机の上の卵の殻を一片ずつ布へ集め、紙包みに入れた。考え事をするときの癖で、書類の端を親指で何度も擦っている。


「君が、私をそこまで信用していないとは知らなかった」


「拒否権を使わない方を、どのように信用すればよいのです?」


「採決のあとまで待て」


「待って解任されるのは私ですわ」


議場への入場を知らせる鐘が鳴った。エレノアは鞄を掴み、ルシアンより先に控室を出た。歩くたびに鞄の中の真鍮の鐘が鳴り、廊下の衛兵が不思議そうに振り返った。


帝国議会は満席だった。傍聴席には新聞記者、商人、農業組合の代表、リュミエールから来たパン屋や書記官まで座っている。グラーツ公爵は金糸の入った濃紺の上着を着て、胸へ獅子の勲章を三つ並べていた。


議長が解任理由を読み上げた。偽りの黒字報告書による混乱、財政再建の遅れ、市場価格への不適切な介入、独断的な遊休地返還案。エレノア自身が訂正した失敗まで、職務能力の欠如として並べられていた。


「最後に、申し開きはありますか」


エレノアは議場中央へ進んだ。首元の詰まった灰色のドレスは、かつてこの国で「鉄の事務服」と笑われたものだった。袖口のインク染みへ触れたあと、彼女は鞄から黒紐で結んだ偽報告書を取り出した。


「この報告書を作ったのは私ではありません。しかし、見抜くのが遅れた責任はあります。市場のパン価格へ命令を出し、パン屋の営業を止めかけたのも事実です。事情を調べる前に、耕作されていない土地を一律に国庫へ返そうとしたこともあります」


グラーツ公爵が満足そうに頷いた。記者たちは紙へ顔を近づけ、ペンを走らせている。エレノアは言葉を止めず、赤い糸綴じの帳面を次に出した。


「私は間違えました。そのたびに公表し、訂正しました。ですが、融資を利益と記すことも、貴族の未納税を見逃すことも、支援を失う恐れから真実を隠すことも拒みました」


「その結果、リュミエール国債は下落した!」


グラーツ公爵が席から声を上げた。彼の杖の石突きが床へ当たり、乾いた音がした。エレノアは公爵を見て、眼鏡を押し上げた。


「私を解任すれば、財政問題は解決したように見えます。数字を管理する者を消せば、赤字も不正も見えなくなりますもの」


議場のあちこちから低い声が上がった。グラーツ公爵は反論しようと立ち上がったが、議長が木槌を鳴らした。エレノアは鞄から小松菜の種袋を取り出した。


「けれど、見えなくなった赤字は消えません。小さな種を蒔けば明日すぐ収穫できるわけではないように、国の信用にも時間が必要です。今日の判断を、半年後、一年後にも公開できる形で残してください」


採決が始まった。解任に賛成する者は白い札、反対する者は黒い札を投じる。札が箱へ落ちるたび、エレノアは無意識に鞄の上から真鍮の鐘を押さえていた。


最後にルシアンの名が呼ばれた。宰相には議決を拒む権利もあった。彼は席を立ち、白い札を掲げた。


「エレノア・グレイス財政再建監査官の解任に賛成する」


傍聴席が大きくざわめいた。エレノアは息を吸おうとしたが、灰色の襟が喉へ食い込んだ。ルシアンがこちらを見ても、彼女は視線を返さなかった。


賛成多数により、解任は決まった。議長が木槌を打ち、エレノアの職務はその瞬間に終わった。胸の銅章を外すと、針を通していた場所へ小さな穴が二つ残った。


「採決は終了しました。次の議案へ――」


「その前に、宰相として緊急法案を提出する」


ルシアンが立ち上がった。手にしているのは、控室で親指を擦りつけていた書類だった。表紙には「独立監査院設置法案」と記されている。


議員たちが再び騒ぎ始めた。グラーツ公爵は椅子から身を乗り出し、そんな議案は予定にないと叫んだ。ルシアンは書類を議長席へ提出し、議場全体へ向き直った。


「偽報告書の問題は、一人の監査官を解任すれば終わるものではない。任命者が宰相である以上、監査官は常に宰相の影響下にあると疑われる。ゆえに、新たな監査機関を設ける」


独立監査院は、宰相府にも皇帝にも属さない。院長と監査官は公開試験で選ばれ、任期中は不正の証明がない限り、政治的な理由で罷免されない。帝国、保護領、皇室、議会の会計資料すべてを調べる権限を持つ。


「皇帝陛下まで監査するつもりか!」


グラーツ公爵が叫んだ。ルシアンは表情を変えず、彼の前に偽報告書の写しを置いた。赤い封蝋には、獅子と剣の紋章が残っている。


「監査を受けない権力ほど、高くつくものはない」


「では、初代院長へ誰を据える。結局、その女を任命するのであろう!」


「任命はしない。公開試験を受けてもらう」


ルシアンは初めて、エレノアを見た。彼女は胸から外した銅章を握り、議場中央に立ったままだった。掌へ針が当たり、薄い傷が一本ついている。


「私は君を守らない。その代わり、君を誰にも従属させない」


「私が試験に落ちる可能性もありますわ」


「ある」


「少しは否定なさってくださいませ」


「君は帳簿には強いが、時間を忘れて農家と話し、売れる前に小松菜を八百箱も蒔いた」


「議会で公表する必要がありますの?」


「失敗も試験範囲だ」


傍聴席から笑いが起きた。エレノアはようやく、ルシアンが自分の解任へ賛成した理由を理解した。しかし控室で彼へ投げつけた言葉まで消えるわけではない。


「先ほどは、閣下が私を利用したと申し上げました」


「聞いた」


「取り消します」


「記録には残る」


「卵を剥いた手数料と相殺できませんか」


「別会計だ」


独立監査院設置法案は、その日のうちに審議へ入った。グラーツ公爵をはじめとする保守派は強く反対したが、偽報告書の存在を前に、監査機関そのものを否定できなかった。夜まで続いた採決の結果、法案は僅差で可決された。


議場を出るころには、冷たい雨が降っていた。石段の脇に植えられたクロッカスは花を閉じ、街灯の下で濡れている。エレノアは灰色の外套を着て、返却した銅章をもう一度見た。


ルシアンが隣へ立ち、何も言わず傘を差し出した。一本の傘では二人の肩を覆いきれず、彼の黒い上着の右側が雨に濡れた。エレノアは少し中央へ寄ったが、鞄が二人の間に挟まった。


「鞄に何を詰めている」


「帳面、報告書、種袋、青いカップ、鐘、布切れです」


「職を失った者の荷物とは思えないな」


「解任されるたびに、荷物が増えますの」


「鐘は試験会場へ持ち込むな」


「緊張したら鳴らしてよいと言われました」


「誰に」


「帽子に赤い花のついた少女です」


エレノアが鞄を持ち直すと、中の鐘が一度だけ鳴った。ルシアンは傘を持つ手を少し下げ、彼女の灰色の襟へ雨が入らないよう角度を変えた。二人は何も決まっていない婚姻契約の話をせず、夕食に焼き林檎を食べるか、豆苗入りの卵焼きにするかを話しながら宿舎へ戻った。


翌朝、独立監査官の公開試験要項が掲示された。受験者には、出自、爵位、性別を問わない。その代わり、架空取引、隠れ債務、改ざんされた魔導計算機を見抜く実務試験が課される。


エレノアの机には、受験票と一緒に、紋章のない鉄製の小さな徽章が置かれていた。合格者だけが、この徽章へ独立監査院の印を刻めるという。彼女は何も刻まれていない鉄の表面へ指を置き、紙の端を三度叩いてから、受験申込書へ署名した。


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