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失われる可能性

■第7章

目が覚める。

時計を見る。

7:32。

だが――

次の瞬間、7:34になる。

「……は?」

一秒も経っていない。

なのに、時間だけが飛んでいる。

もう“ズレ”じゃない。

壊れている。

カーテンを開ける。

外の景色が、一瞬だけ重なる。

同じ家が二つ並び、すぐに一つに戻る。

遠くの時計塔は、違う時刻を指したまま固定されている。

「……限界か」

そう呟いた瞬間、インターホンが鳴る。

分かっている。

玄関を開ける。

澪がいた。

だが――

今までで一番、表情が違った。

「来るの、早いね」

「……何がだ」

澪は答えない。

代わりに、一歩近づく。

いつも保っていた距離を、初めて崩す。

「もう時間がない」

その声は、はっきりと揺れていた。

「今回、長く保たない」

「何の話だよ」

澪は一瞬だけ目を閉じる。

そして言う。

「もう選ばないといけない」

空気が、止まる。

並んで歩く。

だが今日は、距離が近い。

ずれないはずの位置が、もう保たれていない。

街は崩れていた。

電柱の位置が二重に見える。

人影が一瞬だけ消える。

信号の色が同時に三つ点く。

「……これ、どうなってる」

澪は答える。

「まだ決まってないから」

「何が」

「全部」

短い沈黙。

そして、澪は続けた。

「この世界も」

「あなたも」

学校に着く。

教室に入る。

その瞬間――

音が消える。

壁の時計が止まっている。

7:32。

だが次の瞬間、全部の時計がバラバラの時間を指す。

机の配置が揺れる。

黒板の文字が現れては消える。

世界が、“形を選べていない”。

「……なんだよ、これ」

澪が、こちらを見る。

その目は、はっきりと焦っていた。

「ここまで来たら、もう止まらない」

一歩、近づく。

「だから、決めて」

空気が歪む。

視界の奥で、何かが“重なる”。

そして――

頭の奥で、あの言葉がはっきりと響く。

「選べ」

今までとは違う。

逃げ場がない。

澪が言う。

「選択は二つ」

息が詰まる。

「この世界を固定するか」

一瞬、時計の音が止まる。

「このままズレを受け入れるか」

沈黙。

世界が揺れる。

「固定すれば、全部戻る」

澪の声は、静かだった。

「時間も、景色も、普通に」

少しだけ、間が空く。

「……でも」

その先を、言わない。

「受け入れれば」

澪は続ける。

「このままになる」

「不安定なまま、続く」

視線が合う。

その目が、わずかに揺れる。

「でも――」

一瞬だけ、声が震える。

「私は、いられる」

心臓が強く鳴る。

沈黙。

長くはないはずなのに、異様に長い。

澪が言う。

「固定して」

「それが正しいから」

迷いのない言い方。

でも。

次の瞬間。

ほんの少しだけ、声が落ちる。

「……それでも」

澪は目を逸らさない。

「私は、ここにいたい」

その言葉が、刺さる。

視界が揺れる。

時計の音が消える。

全部が止まる。

頭の中で、言葉だけが残る。

「選べ」

考える。

普通に戻るか。

このままか。

壊れた世界か。

澪がいる世界か。

「……待て」

声が出る。

決めたはずなのに、体が動かない。

澪を見る。

いつもと同じ顔。

でも違う。

“今だけの表情”だと分かる。

「……消えるのか?」

澪は答えない。

ただ、ほんの少しだけ笑う。

それが、答えだった。

心臓が強く鳴る。

戻れば全部正常になる。

でも。

今ここにいる“これ”は、もう二度と戻らない。

「……」

喉が詰まる。

それでも。

「固定する」

言った瞬間。

世界が止まる。

完全に。

音が消える。

光が止まる。

澪の表情も、動かない。

一秒。

いや、もっと短い。

次の瞬間。

時計が一斉に動き出す。

7:32。

すべてが揃う。

机も、黒板も、景色も。

完璧に“正しい世界”。

息を吐く。

「……戻った」

そのとき。

隣に、誰もいない。

「……」

振り向く。

そこには、何もない。

澪がいたはずの場所に。

ただ空白だけがある。

胸の奥が、わずかに軋む。

理由は分からない。

でも、何かを間違えた気がする。

教室は普通だ。

誰も違和感を持っていない。

時計は正確に進む。

すべてが、正しい。

そのはずなのに。

机の上に、小さな跡が残っていた。

誰かが、そこにいたような。

触れた瞬間。

一瞬だけ、声が蘇る。

「……ちゃんと、見てくれた」

気のせいかもしれない。

だが、その温度だけが残る。

時計は進む。

もう戻らない。

そして、主人公はまだ知らない。

この選択が――

最初の“喪失”だったことを。


教室のざわめきが戻る。

誰も、何も知らない。

違和感だけが残る。

そのとき。

壁の時計が、一瞬だけ止まる。

そして、わずかに逆に動く。

「……?」

次の瞬間、何事もなかったように進み出す。

机の上を見る。

何もない。

――はずだった。

ほんの一瞬だけ。

紙が見えた気がした。

かすれた文字。

「――もう一度」

瞬きをする。

消えている。

胸の奥がざわつく。

理由は分からない。

それでも、思う。

――まだ終わっていない。

時計は進む。

正しい世界。

だが、その奥で何かが揺れている。

そして。

誰にも聞こえないはずの声が、かすかに残る。

「次は――間違えないで」


その言葉の余韻が、まだ消えない。

胸の奥に、引っかかる。

何かを、思い出しかけている。

だが。

届かない。

掴めない。

ただ。

選ばなければいけない。

そんな感覚だけが残る。

「……」

視線を落とす。

机の上。

何もない。

だが、確かに“あったはずのもの”の気配が残っている。

手を伸ばす。

空を掴む。

何も触れない。

それでも。

そこに何かがあったことだけは、分かる。

「……選べってことか」

小さく呟く。

誰に向けた言葉かは分からない。

だが。

答えを求められている。

それだけは確かだった。

ゆっくりと、息を吐く。

考える。

戻るべきか。

進むべきか。

何が正しいのか。

分からない。

だが。

一つだけ、はっきりしている。

――あれを見た。

――あの声を聞いた。

それを、無かったことにはできない。

「……なら」

小さく、言葉を落とす。

「進む」

その瞬間。

何かが、わずかに途切れる。

音。

教室のざわめきが、一瞬だけ消える。

完全な無音。

次の瞬間、何事もなかったように戻る。

「……?」

違和感だけが残る。

机を見る。

誰かの席。

そこに“いたはずの気配”が、ほんのわずかに薄い。

名前を思い出そうとする。

だが。

うまく引っかからない。

「……気のせいか」

呟いたその言葉が、少しだけ遅れて聞こえる。

空気が、ほんの少しだけ重くなる。

それでも、誰も気づかない。

世界は、何も変わっていないように動き続ける。

「……」

違和感だけが、残る。

消えない。

だが、それ以上は何も起きない。

まるで。

“まだ確定していない”かのように。

そして。

壁の時計が、静かに時を刻む。

カチ、カチ、と。

ほんのわずかに。

さっきより、遅れているような気がした。

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