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第九話 逃亡生活

イータはいつのまにか地面の上で眠っていたらしく、朝日を浴びて目が覚めた。草の匂いがする。セオットは、少し離れたところでのびのびとストレッチをしていた。


「起きたか。そこの水飲み場で水入れて来たぞ」


セオットがイータに水のボトルと、ラミアがくれた携行食を差し出した。


「体あちこち痛い……」


「地面で寝ればそうなる。お前は人間だ、ラップトップじゃない」


セオットは地図を開く。


「地図だと、この先にダンデリアがある。今晩は屋根の下で眠れるといいな」


まだ朝の空気が冷たいうちに、公園を出た。


最初のうちは海風が残っていた。けれど、日が高くなるにつれて、道の照り返しが足元から上がってきた。少し進んでは水を飲み、日陰を見つけては立ち止まった。昨夜、地面で眠ったせいで、体の芯に疲れが残っていた。


ダンデリアの町に入ったのは、昼を少し回った頃だった。海風はあるのに、町の中へ入るにつれて潮の匂いよりアスファルトの熱気の方が前に出てきた。


少し古い煉瓦の建物が並ぶ通りに入ると、街路樹の影が短く落ちていた。きれいな通りだった。


セオットは寂れたモーテルを選んで、一軒ずつID無しで現金でも泊まれないか聞き回っていた。門前払いもあれば、IDを見せろと言われて引き下がったこともあった。四軒目で、素朴な面持ちのおじさんが静かにうなずいた。セオットはイータの方へ振り返り、小さくガッツポーズをした。イータは、ほっとしてうつむいた。


セオットは現金を手渡し、部屋の鍵を受け取った。


部屋に入ると、二人とも靴を脱ぐなり、それぞれのベッドに倒れ込んだ。セオットは一時間ほど眠ると、食料を買いに出たついでに周囲の道も見て回った。イータはセオットが出る時にはまだ眠っていたが、セオットが戻ったときにはラップトップをいじって、中継機での通信構築を試みていた。カーテンの隙間から差し込む光が、オレンジ色になっていた。


「何してんだ」


「繋がるかだけ、確認したら止めるよ」


「近くで、中華のテイクアウトを買って来たぞ」


セオットは紙袋から白い箱をいくつか出した。

イータは、通信表示が安定したのを見て、ようやくラップトップを閉じた。

箱を開けると、甘じょっぱい醤油と熱い油の匂いが狭い部屋に広がった。


セオットが自分用に選んだビーフ・ウィズ・ブロッコリーと、イータに選んだシュリンプ・ローメンだった。


イータはおそるおそるひと口食べて、目を瞬いた。知らない味なのに妙に安心した。


セオットは、昼間に見てきた町の様子をイータに伝えたが、イータの相槌は明らかに元気がなかった。


ふと思い出して尋ねた。


「宿に怪しいやつが来て、お前のことを"ウルスの関係者"と言ったらしい」


イータははっとしてセオットの目を見た。


ウルスは、海の向こうにある北東の小さな王国だった。


イータは再び視線を伏せて、何かを考えていた。

セオットは、心に引っかかっていた疑問をぶつけた。


「テアが以前、連れ戻されると言ったことがあった。……お前はウルスから来たのか?」


しばらく沈黙が続いた。

外を緊急車両が通り過ぎて行った。イータはようやく口を開いた。


「……分からない。小さい時、どこか狭い部屋に閉じ込められていた。音、光、モニターがあって。あとはあまり覚えていない……」


イータは視線を落としたまま、目だけが細かく揺れていた。右手は、首の後ろを押さえていた。


「それから、お兄ちゃんに会いたいと思っていた気がする。あと残っているのは、暗い船室で、テアに抱きしめられていた記憶だけ……」


セオットは、ゆっくり息を吐いてから、残っていたブロッコリーを口に入れた。


「分かった。まあしばらくは、二人揃って根無し草だな。……ま、気楽に行こうぜ」


疲れが抜けきっていなかったようで、セオットは食事の容器を片付けてシャワーを浴びると、そのままベッドに転がり眠ってしまった。


イータは、シャワーを浴びた後、しばらくセオットの寝顔を見ていた。穏やかな寝息だった。


それから自分のベッドに戻り、目を閉じた。けれど、眠れなかった。


やがて静かにラップトップと中継機をバックパックに詰めた。


自分がいなくなれば、セオットはまたあの暖かい場所へ戻れる。そう思った。

薄い壁の向こうで、誰かが咳をし、どこかでテレビの音が鳴っていた。


イータはバックパックを背負い、音を立てないように部屋を出て、自転車を引いた。


表通りは静かだったが、街灯とモーテルの窓明かりが残っていた。そこを通れば、誰かに見つかる気がした。

けれど、真っ暗な方へ行くのは怖かった。人の気配があって、少し明るい場所なら安全だと思った。


建物の裏手を進んだ先は、倉庫と搬入口の並ぶ区画だった。

歩道は途中で途切れ、白線の薄れた広い舗装路が、そのまま荷捌き場へ続いていた。

半分だけ開いたシャッターの奥に白い照明が灯り、ロールコンテナが壁際に並んでいる。フォークリフトの後退音が甲高く響いた。

人の気配に少しほっとした。その瞬間。


「おい」


声をかけられて、イータは足を止めた。

作業用ベストを着た男が一人、搬入口の柱にもたれていた。

その奥に、もう二人いる。煙草の火だけが赤く見えた。


「坊主、一人か?」


イータは声が出ない。

男は、それを気にした様子もなく近づいてくる。


「こんな時間に何してる。仕事探しか?」


「ちが……」


「荷物、重そうだな」


男の目は、背中のバックパックを見ていた。

イータは後ずさった。背中には、倉庫の壁があった。


「腹減ってるだろ。奥で飯食えるぞ。寝る場所もある」


もう一人が、シャッターの奥から出てきた。


「保護者は?」


イータが答えられずにいると、男たちは目配せをした。


「とりあえず、自転車はこっち入れろ」


イータが逃げようとした瞬間、一人がハンドルに手をかけた。


「怖がらなくていい。俺たちが面倒見てやるよ」


笑いながら、容赦なく距離を詰めてくる。

イータは全身が冷えた。


咄嗟に見回すと、視界の端に、赤いランプと赤い箱が見えた。


そのすぐ横には、操作盤らしい箱もある。

配線が集まり、鍵穴がある。


「心配すんなって」


男が一歩近づく。

イータは、自転車を横へ倒すように放り、赤い箱へ飛びついた。


ランプの下のボタンを押し込む。


けたたましい警報音が区画全体に響いた。


シャッターの奥で誰かが怒鳴る。

フォークリフトが止まり、別の作業員が一斉にこちらを見る。

男たちの視線が、一瞬だけイータから切れた。


その隙にイータは自転車を引き起こし、逃げようとしてハンドルを切ったが、足が震えてすぐには乗れなかった。

イータは自転車を半ば引きずるように押して、まず明るい通りへ向かった。


背後で「待て!」と声が飛ぶ。

イータは振り返らず全力で走った。


曲がり角をひとつ越えたところで、前から誰かに腕をつかまれた。


イータは悲鳴を上げかけた。


「俺だ、馬鹿!」


セオットだった。

息を切らし、片手でイータの腕を引いたまま、もう片方で自転車のハンドルを奪い取る。


「こっち!」


背後の声が近づいている。

セオットは迷わず、通り沿いのまだ灯りの残るモーテルのフロントへ自転車ごと突っ込んだ。

カウンターの奥で仮眠していた女が、物音に顔を上げて目を丸くする。


「弟が道に迷った!」


セオットは早口で言い切った。


「向こうの連中に絡まれた。ここで少しやりすごさせてくれ」


女はイータの顔と、外の気配と、セオットの必死さを見比べて、舌打ちに近い息をつく。


「五分だけだよ」


外では警報音がまだ鳴っていた。


セオットはフロントの陰へイータを押し込み、怒鳴る寸前で押し止まった。

イータは全身小刻みに震えていた。


「……一人で、何ができると思った」


低い声だった。


イータは答えられない。

喉が詰まり、辛うじて小さな声で搾り出した。


「ごめ……」


「謝るな」


セオットは乱暴に言って、深く息を吐いたあと、情けない声で続けた。


「頼むから俺を置いていくな。お前がいなけりゃ、俺はただの宿無しになっちまう」


イータは、震えと動悸が抑えられないまま、ただ頷いた。


いくらか時間が経つと、カウンターの女は外をさりげなく確認して扉を開けた。


「もういいだろ。早く出ていきな」


泊まっていたモーテルに戻った頃には、一時半を回っていた。イータはベッドに入り、やがてぐったり眠りこんだ。


セオットは明かりを消して、しばらく天井を見ていた。

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