第一章:ゼロとイチの境界線
少し切ない恋の物語
現実は、いつもひどく冷え切っていて、それでいて嫌になるほど重かった。
二十六歳になった僕――ハルトが暮らす四畳半のアパートには、生活の生活たる最低限の音しか存在しない。冷蔵庫の低いコンプレッサーの音。窓の外を通り過ぎる深夜のトラックのロードノイズ。そして、僕がキーボードを叩く乾いたプラスチックの音だけだ。
昼間はシステムエンジニアとして、他人の作ったシステムのバグを修正する日々。画面に並ぶ文字列は僕を裏切らないが、僕を温めてくれることもない。すれ違う人々はみな、互いの肉体という強固な殻に閉じこもり、他人の領域に踏み込まないよう、細心の注意を払って生きている。
「……疲れたな」
深夜二時。デスクに置いたコンビニの缶コーヒーは、すでにすっかり冷めきっていた。僕は溜息をひとつ吐き出し、机の脇に転がっていたヘッドマウントディスプレイを手に取った。重たいプラスチックとガラスの塊。それを頭に被り、ベルトを締め直す。
電源を入れた瞬間、目の前の暗闇が爆発的な光へと変わる。
視界に飛び込んできたのは、現実の鬱屈とした部屋とは似ても似つかない、どこまでも青く澄んだ満天の星空だった。
『VRChat』。
それが、僕が夜な夜な逃げ込む、もう一つの世界の名前だった。
僕のアバターは、灰色の髪をした物静かな青年だ。現実の僕のような猫背でもなければ、目の下に酷いクマがあるわけでもない。ただそこに立っているだけで、どこか絵になるような、洗練された三次元のポリゴンモデル。
「あ、ハルト。お疲れ様」
アバターの視界がフェードインした瞬間、すぐ近くから鈴を転がすような声が聞こえた。
そこにいたのは、白を基調とした淡いドレスを纏い、狐の耳と尻尾をつけた少女のアバター――『コハク』だった。
「こんばんは、コハク。今日も早いね」
「ううん、私もさっきログインしたところ。今日は一段と現実が寒かったから、早くここに来たくて」
コハクのプレイヤーがどんな人物なのか、僕は知らない。年齢も、性別も、どこに住んでいるのかも、互いにあえて尋ねたことはなかった。この世界では、それが暗黙のルールであり、同時に最も心地よい優しさでもあった。
コハクのアバターが、ちょこんと首を傾げて微笑む。それはあらかじめ設定された表情アニメーション(エモーション)のはずなのに、僕には彼女の本物の笑顔のように見えた。
「今日も、いつもの場所に行こうか」
コハクが手を差し伸べる。僕は自分のコントローラーを握り、彼女の手の上に重ねた。
触覚はない。プラスチックのボタンを押す感触だけが指先に伝わる。けれど、ディスプレイの向こうで僕らのアバターの手が重なったとき、僕の胸の奥で、確かに何かが小さく跳ねた。




