第5話 辞めたい、と言う感情
静かだった。
さっきまで空間を軋ませていた圧力は、嘘みたいに消えている。
白い世界は元通りだ。
ただ、そこに立っている俺たちは、さっきまでと同じではなかった。
「……すみません」
女神が、もう一度言った。
今度は、少しだけはっきりと。
「先ほどの行為は、規定違反です」
「そうでしょうね」
「本来であれば、即時報告対象となります」
「でしょうね」
短く会話が続く。
内容は重いのに、どこか淡々としている。
「……ですが」
女神は少しだけ間を置いた。
「報告は、しておりません」
「隠蔽ですか」
「……はい」
即答だった。
少しだけ笑いそうになる。
「思い切りましたね」
「……思い切らざるを得ませんでした」
視線が、ほんの少しだけ下がる。
その仕草が、さっきよりもずっと“人間らしい”。
沈黙。
俺は軽く息を吐いた。
「で」
言葉を投げる。
「どうするんですか、これから」
女神は答えない。
答えられない、のほうが近いかもしれない。
視線が揺れている。
思考がまとまっていないのがわかる。
「規定的には」
俺が代わりに整理する。
「俺を転生させるのが正解」
「……はい」
「でもそれはもうやらない」
「……はい」
「じゃあ」
少しだけ首を傾ける。
「詰んでません?」
女神の肩が、ぴくりと動いた。
図星だ。
しばらくして、女神は小さく息を吐いた。
「……その通りです」
認めた。
あっさりと。
その潔さが、逆に少し意外だった。
「では」
続ける。
「現状、私に残されている選択肢は限られています」
「どんな感じですか」
「規定に従い、強制処理を再試行するか」
「却下」
「あるいは」
女神は、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。
「……職務を放棄するか」
静かに言った。
白い空間に、その言葉が沈む。
重さがあった。
ただの選択肢じゃない。
それは、さっき話していた“存在理由”そのものだ。
「……なるほど」
俺は軽く頷いた。
「で、どっちにします?」
あえて軽く聞く。
答えが重いのは、わかっているから。
女神はすぐには答えなかった。
長い沈黙。
何かを、何度も行き来しているような顔だった。
「……選べません」
やがて、ぽつりとそう言った。
予想通りの答え。
「でしょうね」
俺もそれ以上は驚かない。
「簡単じゃないですもんね」
「……はい」
小さく頷く。
その声は、少しだけ弱かった。
少しだけ。
「……辞めたい、とは」
女神が、ふいに言った。
言いながら、自分で驚いているような顔だった。
「思っています」
その言葉は、ゆっくりと落ちてきた。
どこか不安定で、でも確かに本物だった。
俺は何も言わずに待つ。
女神は続けた。
「常に評価を気にし」
「規定に縛られ」
「失敗を恐れて」
少しずつ、言葉が増えていく。
「……ただ、与えられた役割をこなすだけの状態に」
そこで止まる。
息を吐く。
「……疲れました」
静かな言葉だった。
大げさでも、ドラマチックでもない。
ただの事実みたいに。
俺は少しだけ空を見上げた。
空なんてないけど。
「そりゃまあ」
肩をすくめる。
「疲れますよね」
女神は、小さく笑った。
ほんのわずかに。
「……ですが」
すぐに、その表情は消える。
「辞める、という選択は」
言葉が、重くなる。
「怖いです」
はっきりと言った。
逃げなかった。
それだけで、さっきまでとはだいぶ違う。
「まあ、そうでしょうね」
俺も否定しない。
「全部なくなるんでしょ?」
「……はい」
「仕事も」
「はい」
「立場も」
「はい」
「たぶん、今の自分も」
女神は答えなかった。
でも、それが答えだった。
沈黙。
少し長めの沈黙。
俺はゆっくり息を吐く。
「……でも」
言う。
女神が顔を上げる。
「それでも選ぶやつ、いますよ」
「……人間の話ですか」
「俺の話です」
また同じ返し。
少しだけ、女神の口元が緩む。
「さっきも言いましたけど」
続ける。
「後悔するかもしれない」
「失敗するかもしれない」
「でも」
視線を合わせる。
「それでも、自分で選んだほうがマシなんで」
静かに言った。
女神は、しばらく動かなかった。
言葉を飲み込むみたいに、じっと考えている。
その沈黙は、さっきまでよりも深い。
内側に潜っている感じだ。
やがて——
「……自分で、選ぶ」
ぽつりと、繰り返した。
確認するように。
その言葉を、舌の上で転がすみたいに。
そして、ほんの少しだけ。
目を閉じた。
白い空間に、静けさが満ちる。
その静けさの中で。
遠くで、何かが鳴っていた。
微かな音。
機械音のような、規則的なリズム。
ピッ、ピッ、と。
心電図みたいな。
女神が、わずかに顔を上げる。
「……現実側の信号です」
「へえ」
「貴方の肉体が、反応しています」
俺は少しだけ考える。
つまり。
「まだ、戻れるってことですか」
「……可能性は、あります」
女神の声は、少しだけ柔らかかった。
さっきまでの“業務”とは違う。
個人的な判断が混ざっている。
「ただし」
続ける。
「回復は保証されません」
「でしょうね」
「後遺症の可能性もあります」
「まあ、でしょうね」
全部、想定内だ。
女神は、じっとこちらを見ている。
その視線には、もう最初のような“誘導”はない。
ただ、確認しているだけだ。
俺がどうするのかを。
「……どうしますか」
静かな問い。
選ばせる問い。
俺は少しだけ笑った。
「さっきから言ってるじゃないですか」
答えは、最初から変わっていない。
「戻りますよ」
短く言う。
迷いはない。
女神は、その言葉を聞いて——
ほんの少しだけ、安心したような顔をした。
それが、なぜなのかは。
たぶん、まだ彼女自身も理解していなかった。




