第1話 転生お断りします
夜は、とっくに終電を過ぎていた。
駅前のコンビニだけが、妙に明るい。白すぎる光が、アスファルトに薄く広がっている。
俺は、その光の外側を歩いていた。
ネクタイは緩める気力もなく、シャツは汗で張りついている。
スマホの画面には、未読のメールがいくつか溜まっていたが、開く気にはなれなかった。
どうせ、大した内容じゃない。
明日でいい。いや、明日でもいい。
そんなふうに思えるだけ、まだマシかもしれない。
信号が赤に変わる。
足を止める。
それだけの動作が、やけに重かった。
ふと、どうでもいいことを考える。
このまま全部、やめられたら楽だろうな、とか。
別に、死にたいわけじゃない。ただ、終わってもいいな、とは思う。
その程度だ。
青信号に変わる。
歩き出す。
その瞬間だった。
光が、来た。
——ああ、これ、トラックだな。
妙に冷静に、そう思った。
音が遅れてやってくる。ブレーキの軋む音と、誰かの叫び声。
避けるとか、そういう発想はなかった。
ただ、ぼんやりと。
ああ、これで明日の仕事は行かなくていいな、と。
そんなことを思った。
そして、世界が白く塗りつぶされた。
目を開けると、白かった。
本当に白い。
上下も奥行きもわからない、やけに綺麗な空間だ。
痛みはない。体も軽い。
夢にしては、やけに意識がはっきりしている。
「——ようこそ、お目覚めになられましたか」
声がした。
振り向く。
そこに、女がいた。
白い衣装。整った顔立ち。無駄のない立ち姿。
どこか現実味のない存在感。
おそらく女神と言うやつであろう
なるほど、と俺は思った。
これはたぶん、そういうやつだ。
「……あー」
少しだけ考えて、口を開く。
「トラックに轢かれて死んで、異世界に転生するパターンですか?」
女神は一瞬、目を瞬かせた。
「……はい。概ね、その認識で問題ございません」
やっぱりか。
最近よくあるやつだ。説明されるまでもない。
「では、これより貴方には新たな人生が——」
「断ったらどうなります?」
女神の言葉を、途中で遮った。
ほんのわずかに、空気が止まる。
「……はい?」
「いや、だから。転生、断ったらどうなります?」
女神は数秒、こちらを見つめたまま沈黙した。
その沈黙は、妙に“人間っぽかった”。
「……申し訳ありませんが、その選択肢は想定されておりません」
「じゃあ今、想定してください」
即答する。
女神の眉が、わずかに動いた。
「転生は、基本的に拒否不可となっております」
「じゃあ俺が最初の事例ってことで」
「前例を作る権限は私にはございません」
「じゃあ上に確認してください」
「確認には時間がかかります」
「じゃあ待ちます」
「その間、貴方は存在を維持できません」
「それはそっちの都合ですよね」
ぴし、と。
何かがひび割れるような気配がした。
女神は一度、目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げた。
さっきまでの完璧な表情に、ほんのわずかだけ“ズレ”が生まれている。
「……恐れ入りますが」
「はい」
「転生していただけないと、困ります」
「困るのはそっちですよね」
繰り返す。
女神の口元が、ほんの少しだけ強張った。
「貴方には、特別措置として高位の能力を付与することが可能です」
「いらないです」
「いかなる分野においても、最高峰の力を——」
「いらないです」
「富、名声、理想的な人間関係——」
「いらないです」
間を置かずに答える。
女神の言葉が、少しずつ早くなる。
「安全な生活も保証されます。争いのない環境で——」
「それ、現実でやりたいんで」
初めて、女の言葉が止まった。
数秒の沈黙。
「……現実世界において、貴方は過酷な労働環境にあったと記録されています」
「そうですね」
「であれば、より良い環境で再スタートすることは合理的かと」
「それ、“俺の人生”じゃないですよね」
言った瞬間、空気が静まった。
女神の目が、わずかに揺れる。
「……どういう意味でしょうか」
「用意された世界で、用意された能力もらって、用意された幸せで生きる」
肩をすくめる。
「それって、ただの“配布された人生”でしょ」
沈黙が落ちた。
さっきまでの白い空間が、少しだけ遠く感じる。
女神は、何かを言いかけて——やめた。
「……貴方は」
「はい」
「元の世界に戻れる保証はありません」
「知ってます」
「現在、昏睡状態です」
「でしょうね」
「このまま意識が戻らない可能性も高い」
「それでもいいです」
迷いはなかった。
女神は、じっとこちらを見ている。
その視線は、観察というより——確認に近かった。
「……なぜ、そこまで拒否されるのですか」
少しだけ、声が柔らかくなっていた。
俺は一瞬だけ考えて、答える。
「別に、大した理由じゃないですよ」
それから、少しだけ笑った。
「クソみたいな人生でも、“俺の人生”なんで」
完全な沈黙。
白い空間に、音がなくなる。
女神はしばらく何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ。
困ったような顔をした。




