前提は幸福
携帯電話の画面を何度も更新してから彼はそっと目の前の扉をノックした。
どうぞ、と招き入れる声が聞こえてもまだ緊張は解けなかった。解けるはずもないのだ。まだ目的を果たす以前の段階だ。
保健室分室、その中は数日前と変わらない。けれど、その部屋の主《魔女》こと徒花星羅の雰囲気には変化が見られた。前以上に穏やかな彼女は《魔女》というイメージとはあまりにも違う。
けれど、彼女は《魔女》の仕事に誇りを持っている。
「さあ、お座りになって」
危惧していた追い出しはなかった。促されるがままに大輝は席に座る。
目の前にはすぐにお茶が置かれ、覚えのある匂いに少しずつ緊張も消えていく。毒は入れてこないだろうが、何か舌が痺れるものが出されるのではという被害妄想があった。
「今日は何の相談かしら? 灰岡大輝」
向かいに座った星羅は今日も山のように菓子が積まれた籠を目の前に差し出してくる。いつになく菓子が多く、少し動かしただけでボタボタと落ちるほどだ。
あの事件以降、大輝が分室を訪れるのは初めてだった。色々と状況が落ち着くまで近付くことができなかった。
そして、予約を入れるのも初めてのことだった。
「徒花さん、俺と別れて下さい」
一番シンプルな言葉を大輝は口にした。何度も考えた結果だった。
彼女に誤解されたくない、傷付けたくない、そう考えもしたが、結局のところ二人の関係は恋人という甘やかなものではなかった。契約による偽装カップル、ただそれだけだった。
「ええ、もうあたくしは必要ないわね」
星羅は微笑む。こうなることを彼女はわかっていただろう。
もし、彼女が少しでも悲しむ表情を見せたなら、と大輝は思っていた。しかしながら、それは大輝にとって都合の良い期待でしかない。
「短い間だったけど、今まで本当にありがとう」
彼女を傷付けたことの謝罪は何度もしても足りないくらいだったが、彼女がもういいと言っていて、引き下がらなければ怒り出しそうなほどだった。
あの後下宿先で目覚めた彼女はすっかり落ち着いて、閉店後のカフェを貸し切って本当の家族と仲間達と食事をできるほどだった。
茉希のことも許すと言ったし、一樹達の暗躍によってこれまでの悪事の全てが暴かれた市原雄一郎が逮捕されることになり、孤独になってしまった彼女の友達になりたいとまで言い出した。
彼女の男友達は誰も彼女に見向きしなくなった。信者は教祖を捨てた。全ての悪事を白日の下に晒し、誰も手を差し伸べない。因果応報、自業自得だが、星羅だけは違った。星羅だけが本気で手を差し伸べようとした。
それについては大輝と一樹、拓臣や夏実を含めてどうするのが一番いいか協議になったほどだ。
だから、大輝は同じようにどれだけの言葉を並べても言い表しきれないほどの感謝をこれまたシンプルな言葉で伝えるにとどまった。
「さようなら、楽しかったわ、灰岡大輝」
彼女が本当にそう思ってくれているのなら大輝にとってこれほど嬉しいこともない。
だが、真意がわからない。
「でも、用件はそれだけじゃないんだよ」
そっと彼女の様子を伺えば、彼女は首を傾げていた。
「徒花星羅さん、今度は俺と幸福を前提に付き合ってほしい。無期限で」
まるでプロポーズを申し込む気分だった。
否、大輝にとっては同じぐらいの意味があることだ。
「灰岡大輝、そうしたら、今度こそあなたが不幸になってしまうわ」
どう受け取ればいいのか、大輝にはわからなかった。彼女の考えることは難解だ。
けれど、言えることもある、
「ならないよ。だって、俺、徒花さん家みたいな家族を作りたいんだ」
不幸になるならば、それ以上に幸福になる努力をする。大輝にとって一番の不幸は茉希に、市原家に逆らえないことだったが、それもなくなった。
今はもう脅威もなく、今まで市原の支配に喘いでいた会社も元気になってきている。一樹や三木一族による救済の動きもある。
しかし、結局のところ一樹が何者なのかはわからずじまいだった。
「あたくしの家族?」
大輝は首を傾げる星羅を大輝は可愛いと思ってしまった。
一度は失墜した彼女の信頼も茉希が転落することで浮上した。彼女のお守りで恋が成就したという者や相談に乗ってもらった者達が味方に回ったのだ。今日のこの話の為に予約を取るのも大変なぐらいだった。そして、キャンセルされないかと大輝はずっとそわそわしていた。
「離散するような?」
星羅は星羅でまだ一家離散にこだわるつもりらしい。
「一度は離散したかもしれない。でも、集まっただろ?」
あれから星羅の家族はきちんと向き合って、また家族として一緒に暮らすことも話し合われた。
「あなたが集めてくれたのよ」
「違うよ。もしかしたら、俺も集められた一人なのかも」
大輝が説得しても皐や美智子は動かなかった。あの睦月でさえも渋ったのに当日には全員が集結した。大輝が声をかけていない、むしろ知りもしない鳳玲を含む占いカフェの面々や一樹一行までもが駆け付けたのだから星羅の人徳ではないかと思う。けれど、それだけではない。
「ノスフェラトゥのおかげだよ」
室内を探してみてもその姿はない。だが、実際、大輝をあの場所に導いたのはノスフェラトゥだった。あの日の放課後、星羅の姿を探し、ついには占いカフェまで押し掛けようかという時、その黒猫は現れた。
助走をつけ、尋常ではないジャンプ力を見せつけて飛びかかってきた後、クイックイッと前足を動かして付いてこいと誘導したのだ。
駐輪場に着けば大輝の自転車のカゴに飛び乗り、前足でカゴを叩いて急かし、それから現地までその調子で連れて行かれたのだ。
後から聞いた話では拓臣達の前にも猫が現れて誘導されたのだと言う。睦月に関してはカラスに突かれたとさえ証言している。
「教えてくれたんだ」
「そう……」
星羅は喜んでいいのかどうかわからない様子だった。彼女の手には真新しい引っ掻き傷があり、あれ以降抱くことを拒否されている証拠だ。
「それで、返事は? 待った方がいいかな?」
「あなたもドMなのかもしれないわね」
星羅は溜息を吐くが、それは照れ隠しに見えた。希望的観測に過ぎないのかもしれないが。
「何でもいいよ。今度は偽装でも何でもない。本当に君が好きだから」
嘘偽りのない本心だった。そして、星羅を見詰めれば真っ赤になっていくのがわかる。ついには耐えきれなくなったように俯いてしまった。
「もうあたくしは必要ないのよ」
それは彼女が自身に言い聞かせるようでもあった。
「君が決めることじゃない。俺にとって君は必要だし、君じゃなきゃダメなんだ。だから、君の本当の気持ちを聞かせてよ。それとも、俺のこと嫌い? 恨んでる?」
「そんなわけない!」
声を上げた星羅はまた恥ずかしそうに俯いて、ぎゅっとフードを掴んだ。
「あたくし、あなたを不幸にはしたくない。だから、気持ちは嬉しいけれど……」
「どうして俺を不幸にしたくないの?」
「それは……」
「俺のこと、少しでも好きになってくれたって自惚れるけど?」
大輝は頬が緩むのを抑えられなかった。
「あなたってずるいわ」
星羅が頬を膨らませる。
「君が俺を少しでも想ってくれてるのに逃げるなら、それ以上に俺を不幸にすることってないよ」
「でも……」
星羅は下を向いてごにょごにょと何かを言っているようだが、聞こえない。
「じゃあ、こうしよう。徒花星羅さん、俺と契約してほしい」
始まりと同じように大輝は持ちかける。
「俺を幸せにしてほしい」
「そうね。あたくし、契約するわ。だって、あなたの未来がまだ見えないんだもの」
逡巡した後、星羅は顔を上げた。その表情に大輝はハッとする。
けれど、見とれている場合ではなかった。そっと手を伸ばす。最初の契約の時にはしなかったことだ。
「一緒に幸せの道を探そう」
そして、二人は固く握手を交わす。たとえ、どんな困難があってもこの手は離すまいと。
これにて、マーガは完結ということになります。
語り切れていない部分もあるかと思います。
いずれ、また大輝と星羅の物語を紡げれば…と考えておりますので、ご意見・感想などをいただければ幸いです。
では、最後までお読みいただき、ありがとうございました!