一 化生
暗闇の中で、少女は目を覚ました。
背中に硬くひんやりとした感触が伝わる。
その冷たさが、いつもと違った目覚めであることを少女に知らせた。
少しの肌寒さとともに、ゆっくりと意識が戻ってくる。
目は覚めているというのに、周囲の様子は全く見えない。
ああ、目が失くなってしまったのか――と、なぜかありもしない考えがよぎる。
そうだ、そんな筈はない。
さらに意識がはっきりしてくると、少女は、自分がどこかに閉じ込められているのではないかと感じた。
身体を動かしてみる。
闇の中で、そっと腕を上げようとする。
自分の腕が本当に動いているのか、その感覚は曖昧だったが、やがて手の甲にコツン、となにかが触れた。
あまりに低すぎる天井。
否、これは蓋だ――
きっと、上から蓋をされているのだ。
なぜそう思ったのか不思議だったが、雛鳥とてなにも知らずに卵の殻を破って生まれ出てくるのだ。少女は本能で、己が蓋の下に押し込められていることを識っていた。
まだ少しぼんやりとする意識に走った直感を信じて少女は掌を返し、鼻先の天井を押し上げた。
重苦しい闇の隙間から、陰気な光が射し込んでくる。
蓋らしきものを横に払いのけると、それはバタリと音を立てて転がった。
少女は妙な怠さに支配された身体にもどかしさを感じながら、上体を起こす。
そして、はっきりとしない視界に不安を覚えつつ、辺りを見た。
これは――棺桶だ。
自分はなぜか、棺桶に入っていたようだ。
この状況は、一体なんなのだ?
わけが解らない――誰かの悪戯だろうか?
それとも、これは夢の中なのか?
いくつかの可能性を、まだ本調子ではない頭で模索していると――
「起きたか」
突然、前方から無感情な声が聞こえた。
「わあ!」
少女は小さく叫び、同時に声の主を見た。
奇妙な白い面を付けた人物が立っていた。
男なのか女なのか判然としないその人物は、しばらくの間、黙っていたが、やがて少女に「立てるか」と尋ねた。
少女はまだ混乱の最中にあったが、目の前の正体不明な存在に気圧されて、言われるがままに立ち上がった。
「これを持て」
立ち上がった少女に、白面がなにかを手渡してくる。
それは、筆だった。
絵筆ではない。古めかしい書道用の筆に見える。多分、初めて見る筆だ。
「これは――」
少女は呟いたが、白面は筆を押し付けると「行け」とだけ言った。
(行けって、どこに――)
少女は胸中で呟く。
瞬間、背後で扉が開くような音がした。
そして、また異様な気怠さを感じながら、
(ああ、行かなければ)
と思った。少女は気を失った。
◆
気づけば少女は、薄暗い道端に立っていた。
湿った、生ぬるい不気味な空気が顔を撫でてくる。
まるで舗装されていない、土が剥き出しの道の両脇は深い林になっており、風に吹かれる木々がガサガサと葉の音を立てていて、今にも妖怪かお化けが出てきそうな雰囲気だ。
当然、ここは見知らぬ場所である。
やはり、夢を見ているのか――
そう思わずにはいられないほど、普段の自分には似つかわしくない状況だった。
道を進もうにも、濃い霧のようなものがかかっていて先が見えず、足を踏み出す気になれない。少女は肩を落としながら溜息をついた。
すると――
霧の奥に、うっすらと小さな光が見えた。
黄白色の光は、ゆらゆらと揺れながら、少しずつ近づいてくる。
あれは――人か?
夢か現か不明瞭なこの状況で、頼る者もなく半ば投げやりな心持ちだったが、人がいるならば多少は安心かと少女は思った。
しかし、少女はすぐその考えに疑問を持った。
仮に、あの光の主が人間だとしても、それが善人である保証などないのだ。
こんな不気味で暗い田舎道に、偶々、協力的な人物が現れる――そんな都合のよい話があるだろうか?
そう思うと、急に怖くなってきた。
逃げようか、と考えている間に、光はどんどん迫ってくる。
そして、少女の悪い予感は的中した。
「おおいッ、こりゃあ!」
粗野で甲高い声が辺りに響いた。
「こんなシケった道端に、どなた様がいらっしゃるかと思えばぁ――」
声の主は、いやらしく、ねっとりした喋り方で、
「おめぇ、生まれたての奴かぁ?」
と言った。
「生まれたて」とは、なんのことだ――?
考えながら、少女は霧の奥から現れた謎の人物の姿を確認した。
ところどころ破けた粗末な着物。薄汚れた提灯を左手に引っ提げ、首を斜めに傾けながら威嚇する不審な男。だらしなく開いた口。血走り、濁った目。
関わりたくない人種だ――少女はひと目見て、そう判断した。
そんな少女の気持ちなどお構いなしに、男はじりじりと近寄ってくる。
少女は後ずさる。
その間、少女の目は、男の右手にギラリと光るものを認めた。
刃物だ――
やはり悪い予感は当たってしまったのだ。
さっさと逃げるべきだったか。
せめて、木の陰に隠れるくらいはできたのではないか――
「生まれたての文無し相手じゃあ、大した実入りもなさそうだが……ここで会ったが運の尽き、いや、ここで会ったが百年目、だったか? どっちだっけなぁ? まあいいか。とにもかくにも、身ぐるみ全部、置いてきなあッ」
悪漢がさらに近づく。
少女が逃げようと半身を引いた、その刹那――
「ブフォオッ」
とんでもなく間抜けな音がした。
動物の鳴き声だろうか。それにしては、あまりにも珍妙な響きだった。どうしようもなく滑稽で、緊張感の欠片もない音色だ。
少女は何事かと思い、その異音のするほうを見た。
悪漢の背後に、ぴたりと沿うようにそれはいた。
鈍色の着物をまとい、小振りの箱のようなものを首から下げている。
手甲をつけた両の手に尺八を携え、腰には鞘に収まった短い刀が見える。
頭は深編笠ですっぽりと覆われていて、その表情は知れない。
しかし、その物々しい身なりとは裏腹に、随分と背が低い。
まるで妖怪小僧である。あまりにも怪しい。
小汚い悪漢が霞んでしまうほどの、異様な存在がそこに立っていた。
そして――
「金を出せ」
尺八を下ろすなり、それは鈴の音のような声でそう言った。
およそ、その台詞には似合わない子供のような声色だった。
何者なのだ、一体――
もはや、ちぐはぐを通り越して出鱈目なこの状況に、少女も悪漢も一言すら発せないでいた。
「なんじゃ? 聞こえとらんのか? 金を出せと言っとんの。ま、こんな寂しい田舎道に金目のモノを持った殊勝な輩が歩いとるとは思わんのだが。で、金は? 本当にないのかね? 金だけに……これ、黙ってないで、なんとかいわんかッ」
小さな不審者は、その奇抜な容貌と意味不明な言動によって、一瞬で場を制圧してしまった。不気味でぬるい風や、木々のざわめきすら止まってしまったかのように、周囲の空気は変質した。
「無視か。そうか。おいッ、舐めとるのか、この儂を! 童と思うて馬鹿にしておるのじゃろ? 所詮、ガキ如きにはなにもできんと、そう思っとるじゃろ! 顔にそう書いてあるわい。あのな、小さいからといって中身まで子供とは限らんちゅうの。なんでも見た目で判断してはならんと言われんかったか? ちなみに儂、身の丈、五尺は優に超える」
妙な口調の変な子供は、一方的にまくし立てる。
呆気にとられていた悪漢は、ただ一言「五尺もないと思う」と呟いた。
少女は当惑した。
否――柩の中で目覚めた時からずっと、当惑しっぱなしではあるのだが。
見知らぬ場所に迷い込んだ上、たちの悪い悪漢に遭遇し、まさに危急存亡の秋と思いきや、もはや完全に理解不能な状況に陥ってしまい、ものを考える余裕も失くしてしまった。
しかし、それでも少女は、口を開けたまま放心している悪漢よりは冷静だった。
決して確信してはいないが、この異様な風体の妙に偉そうな人物(人ではあるのだろう)が、生命の危機から脱する糸口になるのではと、なんとなく期待した。
「あのぅ、すみません」
少女は思い切って、笠を被った変人に声をかける。
「なんじゃ」
「そこにいる人、悪い人だと思うので――助けてくれませんか?」
「知っておる」
「え?」
「ソレが野盗まがいの狼藉者なのも、お前さんが『化生』したての新参者なのも、ちらと見やればすぐに判る。放っておいても構わぬが、なんにも知らぬ娘子が、見るも卑俗な破落戸に虐げられてしもうては、さすがに腹に据えかねる。ならば助くるが仏の慈悲よ。さあらば御覧に入れようぞ。この愚僧の妙なる絶技、しっかと眼に焼きつけいッ!」
小さな曲者は、流れるような所作でゆらりと身を翻し、懐から短冊形の札のような紙片を取り出しながら、呪文の如きを唱え始めた。
「ノウマクサラバタタギャテイビャクサラバボッケイビャク――」
抑揚のない、それでいて高速の読経が辺りに響き渡る。
子供のような声で発せられる経は、その場の雰囲気も相まって、そこはかとない不気味さを感じさせた。
「サラバタタラタセンダマカロシャダケンギャキギャキ――」
ここにきて、ようやく悪漢が我に返った。
「な、なんだッ? 坊主? ガキの坊主かッ? おい、やめろ!」
悪漢は、突然始まった読経に面食らっている。
「サラバビキナンウンタラタカンマン――」
「やめろと言ってんだよッ! 夜中に経を唱えるなよ、気味が悪ぃ! やめろって、坊主ガキ! いや、ガキ坊主? どっちでもいいけど、ガキはさっさと家に帰って寝ろッ」
「うるさいッ!」
変な子供は急に読経を中断し、悪漢の横っ腹を蹴り飛ばした。
たまらずよろめく悪漢。
その隙に、子供は指の間に挟んだ札を、弧を描くように宙空に泳がせた。
すると――悪漢が持つ提灯が、やけに眩しく光り始めた。
そして周囲が熱くなったかと思うと、ごう、という音とともに火炎が巻き起こり、悪漢の腕といわず胴といわず、焼き尽くさんばかりに襲いかかったのである。
少女は驚愕した。
だが、もっと驚いたのは悪漢のほうだろう。
炎に巻かれて半狂乱となり、転げるように霧の向こうへ逃げ去ってしまった。
「これにて、一件落着ッ!」
小さな異能の持ち主は、少し乱れた着物の襟を直しながら言った。
「い、今のは――」
少女は逸る鼓動を意識しつつ、子供に声をかけた。
「あれは反火、あるいは逆火という神秘の業よ」
子供はよく判らない答えを返す。
足元を見ると、悪漢が手放した提灯の残骸が、未だ小さな焚き火のように燃え続けている。
「その……それは魔法とか、呪文のようなものですか」
「呪文といえば呪文じゃが――ちなみにな、この手の『霊術』には、あんな咒は一切必要ない。ありゃ単なる虚仮威しじゃ」
「そうなんですか」
「うむ。この『札』さえあればいいのだ。この世界――『常世』においては、真言やら祝詞やらを唱えたところで、全く、皆目、さっぱり、なぁんの効もないんじゃわい」
そう言って、目の前の怪人物は頭に被った深編笠を外した。
地に届きそうな銀色の長髪。
悪漢が落としていった提灯の火が、その髪を照らして淡い黄金色に染めている。
やはり長い前髪の間からのぞく瞳は、刃の如き無垢な輝きをたたえ、人形のように小さく整った顔立ちをより幽玄に彩っていた。
摩訶不思議な術で少女を救った謎の奇人もまた、神仏と見紛うほどの美麗な少女であったのだ。
「儂の名は千世という。千の世と書いて千世じゃ」
銀髪の少女が名乗る。
「お前さん、こっちに来たばかりと見えるが」
「こっち?」
こっちとは、どっちだろう。
「白いのを着ておるではないか」
「白いの?」
少女は、自らが身につけている衣服をようやく確認した。
まるで死人が着るような白装束。
そして額にもなにかが巻かれている。
触れてみると、どうやら三角巾のような布切れらしかった。
これではまるで絵の中の幽霊のようだ。
なぜこのような格好でいるのか、まったく身に覚えがない。
息つく暇もなく非日常的な出来事が続き、もはや思考を巡らすのも無意味に思えてきたが、それでも目の前の「千世」なる不思議な少女に尋ねた。
「あの、私、自分がどうしてここにいるのか、全然分からないんですけど……」
「うむ、教えてやろう。お前さんが今いるこの世界は『常世』と呼ばれておる。そして以前いたであろう世界は『浮世』という。浮世から常世へ、移ってきたわけじゃ」
「常世……?」
「そうじゃ――って、しまったあ!」
千世は突然、大声を上げた。
「さっきの破落戸から、金を取り損ねてしもうたわ!」
ひょっとして、悪漢から助けてくれたのは、金目当ての行動だったのだろうか。
あの「金を出せ」という言葉も、冗談ではなかったのか。
謎の少女、千世のいう「常世」という世界。
ここは、奪い、奪われることが当たり前の場所なのだろうか?
まさか「お助け代」として、千世から金を要求されるのでは──?
なんだか、とても嫌な予感がしてきた。
「なんか……ここって、治安が悪いみたいですね」
「いやぁ? それほどでもないがのう」
本当にそうだろうか。
突然、刃物で脅されることなど――なくはないのだろうが、決して治安が良いとはいえないと思う。
「警察とかはいないんですか?」
「ケイサツ? なんじゃそれ?」
「なんていうか、こう――悪い人を取り締まる、みたいな仕事ですけど」
「それは、儂じゃな!」
「いや、でも警察は悪い人相手でも、お金を取ったりはしないような……」
「なにをもごもご言っとる? ようわからんが、ここは浮世とは違う。混乱するのも仕方ないが、早う慣れることじゃな」
そう言われても――
見知らぬ世界に放り出されて、さてどうすべきか。
知人がいるとも思えず、連絡手段もない。
頼る者がいない。おまけに土地勘もない。
都合よく助けてくれる奇特な人物を当てもなく探し回るのも、迂遠な話である。
そんな少女の心中を察してか、千世は言った。
「ま、ここで会ったのもなにかの縁。お前さんの話も聞きたいし、儂の家に来んか? こんなひなびた道の上で立ち話もなんじゃろ」
「はあ――」
少なくとも、千世から悪意は感じられない。
そもそも悪漢から救ってくれたのだし、無闇に疑うのも悪い気がしてきた。
とりあえずはこの人物を頼っても、そう悪いことにはならないのではないか、と少女は考え直した。
「じゃあ……お邪魔します」
「うむ! こっちじゃ、少し歩くぞい」
千世は再び深編笠を被ると、くるりと反転して歩きだした。
少女もそれを追う。
「そういえば――」
歩き始めた後、少女はずっと気になっていた疑問を口にした。
「私、そもそもなんで、この世界に移ってきちゃったんですかね?」
「そりゃあ、死んだからじゃろ」
「え?」
――死んだ?
「浮世で死んだら常世へ来る――それがこの世の理じゃ!」
「そ、そんな――」
少女は狼狽した。
死んだ記憶など、ないというのに――
「死んだって、い、いつ?」
「そんなもん、儂ぁ知らんわい」
「そんなはずは……」
「葬式は上げたんか?」
「し、知りません」
「そらそうか――ま、寝てる間に死んだとか、そんなところじゃろ」
「ええ……」
そんなことで、いいのだろうか?
自分の人生とは、一体――
少女は空しいような、悲しいような、どうにも腑に落ちない気分で、異界の空を仰ぎ見た。
月の見えない夜だった。
ぬるく湿った風は、まだ吹いている。
絶え間ない木々のざわめきが、少女の運命を嘲笑う声に聴こえる――そんな気がした。




