続けばいいのに…
朝の光は、いつもより優しかった。
窓の外で鳩が鳴いて、遠くで鐘が一度だけ鳴る。
巡礼から戻った街は、同じはずなのに、どこか違って見えた。
私は布団の中で一度だけ目を閉じた。
胸の奥に残っていた、あの村の甘い匂いを思い出しかけて、首を振る。
(今日は、戻らない日)
そんなふうに、勝手に決める。
「聖女様、起きられますか」
扉の向こうから、ヴィオラの声。
いつもの声。
いつもの距離。
それだけで、胸が少しだけほどけた。
「……起きる」
私が言うと、扉が静かに開く。
ヴィオラが、湯気の立つ桶と、白い布を抱えて入ってきた。
完璧な手順。
完璧な所作。
完璧すぎて、たまに怖い。
でも今日は、その怖さすら安心の形に見えた。
「お水は冷たいほうがよろしいですか」
「ぬるいのが、好き」
答えると、ヴィオラは一瞬だけ目を細めた。
笑ったわけじゃない。
でも、私は勝手に“いい”と思ってしまう。
(こういうのが……日常なんだ)
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施療院は、忙しい。
忙しいのに、あの占拠村の“忙しさ”とは違う。
叫び声がない。
刃の音がしない。
命を盾にされない。
それだけで、人はこんなに静かに痛がれるのかと、私は思った。
「聖女様……」
寝台の上の青年が、私の手を見上げる。
熱に浮かされた目。
汗。
指先の震え。
私は祈った。
治癒。
浄化。
温かさが広がり、青年の呼吸が少しだけ深くなる。
「……楽になった」
その一言が、胸に刺さって、でも痛くない。
(救いが、成立してる)
ヴィオラは背後で、患者と家族の動線を整え、司祭の声を必要な分だけ低くして、私の周りに“余計なもの”が近づかないように立っていた。
守られている。
守られているから、私は救える。
その事実が、あの村では怖かったのに。
街では、少しだけ嬉しい。
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昼。
施療院を出ると、風が乾いていた。
市場のほうからパンの匂いが流れてくる。
甘い匂いじゃない。
ちゃんとした、小麦と焼き色の匂い。
「少しだけ、寄ってもいい?」
私が言うと、ヴィオラは当然のように頷いた。
「はい。聖女様のご負担にならない範囲で」
“範囲で”という言い方が、相変わらず刺す。
でも刺さるのは、嫌いじゃない。
パン屋の奥さんが、私を見るなり両手を合わせた。
「聖女様! この前は……」
「今日は、買いに来ただけ」
私は笑って言う。
笑うことが、こんなに簡単にできる日が戻るなんて、思わなかった。
焼きたてのパンを受け取って、紙袋を抱える。
温かい。
それだけで、手が少し幸せだ。
「ヴィオラも、食べる?」
私が言うと、ヴィオラは一瞬だけ迷う。
迷ってから、答える。
「……少しだけ」
その“少しだけ”が、なぜか可笑しくて。
私は笑いそうになるのを、噛み殺した。
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部屋に戻ると、卓の上に花が一輪だけ置かれていた。
白い、小さな花。
誰が置いたかは、分かる。
分かるけれど、口にしたら壊れそうだから、私は言わない。
ヴィオラが窓を開ける。
風が入って、カーテンが揺れる。
「……今日は、いい日だね」
私が言う。
「はい」
ヴィオラは短く答える。
短いのに、そこに余計な嘘はない気がした。
パンを半分に割って、私は一口食べた。
ヴィオラに、残りを差し出す。
彼女は受け取って、上品に齧る。
(ずっと、こうだったらいいのに)
この充実した日々。
救って、笑って、パンを分けて。
夜は怖い夢を見ない。
朝は鳩の声で目覚める。
(もしこれが、続けば)
その“もし”を考えた瞬間、胸の奥が甘くなった。
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夕方。
祈りの時間が終わって、街の灯が一つずつ点く。
私はいつもより早く、外へ出た。
理由はない。
ただ、空気を吸いたかった。
ヴィオラが隣にいる。
歩幅が揃う。
足音が静かすぎる。
それが、安心と怖さの両方を連れてくる。
「聖女様」
ヴィオラが言う。
「なに?」
「……冷える前に、戻りましょう」
私は頷いて、もう一度だけ街を見た。
その時。
路地の奥。
灯りの届かない場所から。
「……ぁ……」
声。
うめき。
人の喉が、痛みと恐怖で擦れる音。
私は足を止めた。
胸が、きゅっと縮む。
(まだ、いる)
甘い匂いは、風に乗ってこなかった。
でも、それは“ない”ことの証明じゃない。
路地の奥で、誰かがもう一度うめいた。
「……たすけ……」
その一言が、私の身体の奥に落ちて、沈んだまま動かない。
ヴィオラの手が、私の肩に触れた。
ほんの一瞬。
熱もない。
優しさだけがあるわけでもない。
でも、私にはそれが“合図”に聞こえた。
「聖女様」
ヴィオラの声は、低い。
「今は、呼吸」
私は息を吸って、吐いた。
(救いは、続く)
(終わってない)
路地の奥のうめきは、灯りの外で、ずっと続いている。
まるで街の影が、眠れないみたいに。
私は夜空を見上げた。
続けばいいのに。
そう願ったばかりの心が、すぐに痛む。
それでも。
私は歩き出した。
ヴィオラと並んで。
明日の朝も、鳩が鳴くと信じるために。




