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祈りを繋ぐもの  作者: 和穂ゆう
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馬と人の歴史3 - ニニキネの修行

一、譲位の準備


八代のアマキミであるアマテルカミから次の時代へと移り変わろうとする頃のことであった。

宮中には穏やかな緊張感が漂っていた。次代を担う皇太子オシホミミは、九代目のアマキミとして即位する日を静かに待っていた。


「今年の正月から、広く譲位の宣言をなさっておられます」

側近たちは囁き合った。すでに三種の神器の授与も滞りなく行われ、準備は整っていた。


アマテルカミは譲位の後、引退の余暇を人々を導き教えることに捧げようと、熱い志を胸に秘めておられた。時折、伊勢の内宮へと思いを馳せる。そこで教導に日々を奉げてゆこうと心に決めておられたのである。


「まもなく、新しい時代が訪れる」

オシホミミは窓の外に広がる春の景色を眺めながら、深く息を吸い込んだ。責任の重さと、父への感謝の念が胸に去来していた。



二、献上された馬


ちょうどその頃、遠くツキスミ(九州・西の月の住処)から、一人の男が馬を引いて宮へと向かっていた。


オオクマト――アメクマとも呼ばれる男である。彼はかつてカタのミコトから農業技術を学びに訪れた経緯があった。今回は、立派な馬を献上するために、はるばる旅をしてきたのだ。


「見事な馬ですな」

アマテルカミは興味深げに馬を眺めながら、静かに微笑まれた。馬の筋肉の付き方、毛並みの美しさ、そして目の輝き。すべてを丹念に観察しておられる。


「恐れ入ります、アマテルカミ様」

オオクマトは深々と頭を下げた。


「長旅であったろう。まずは体を休めるがよい」

アマテルカミは何かを思案されたようであった。そしてオオクマトに御馳走を賜ることとなったが、その献立には特別な配慮がなされていた。


「陰の気――湿邪や寒邪によって心身が荒び、肌や内臓が乱れることを予防できる。この薬草のお粥を召し上がっていただきたい」

アマテルカミのご指示で作られたのは、七草粥であった。ごぎょう、はこべな、仏の座、すずな、すずしろ、せり、なずな――七種の菜が優しく煮込まれていた。


「ありがたきお心遣い」

オオクマトは感激の面持ちで粥を口にした。体の芯から温まる味わいに、長旅の疲れが癒されていくのを感じた。



三、黒馬の献上


それから一月ほど経ち、桜の葉も青々と茂り始めた頃。満月の光が宮を照らす夜、もう一頭の馬が献上された。

漆黒の毛並みを持つ、見事な黒馬であった。


「タカギ様がお見えです」

献上したのは、アマテルカミのいとこに当たるタカギであった。彼はタカミムスヒの七代目当主であり、また次代の九代アマキミ・オシホミミのキサキであるタクハタチチヒメの父親でもあった。


「タカギ殿、見事な馬をありがとう」

アマテルカミは月光に照らされた黒馬を愛でながら言った。


「これも新しき時代への祝福の印でございます」

タカギは厳かな表情で答えた。その目には、確かな希望の光が宿っていた。



四、マナヰへの巡礼


これらの献上馬を、アマテルカミのキサキたち三人が乗りこなし、マナヰまで行かれることとなった。


「久しぶりの乗馬ですね」

一人のキサキが頬を紅潮させながら言った。

「ええ、風が心地よい」

もう一人が馬上から微笑んだ。


マナヰでは、しばしば祭祀が執り行われた。そこにはトヨケカミのご陵所があった。アマテルカミの祖父であり、ミチの師匠でもあった偉大な存在。そしてまた、タカギの祖父でもあった。

「トヨケカミ様、九代アマカミ・オシホミミの即位を、ここにご報告申し上げます」

アマテルカミの声は、静かな森に響き渡った。


これにより天下安寧の一助となったのである。そして女性にも乗馬の技術が浸透したことは、きっとトヨケカミもお喜びになられるはずであった。



五、ニニキネの旅立ち


さて、それから幾年かが過ぎた。

オシホミミの皇子であるニニキネが、ホツマ(関東地方)への開拓赴任に向かう日が訪れた。


「ニニキネ様、どうかお気をつけて」

見送る者たちの声が、朝もやの中に消えていく。


ホツマのニハリ(茨城県筑西市)に新宮を建てる大事業。その準備として、ニニキネは乗馬法を習得する必要があった。


教授を受け持ったのは、タカヒコネである。彼はヲハシリを師匠として研鑽を積んだ、優れた馬術の使い手であった。



六、タカヒコネの教え


訓練場には、朝の清々しい空気が満ちていた。


「ニニキネ様、馬術の修行を始めるにあたり、まずはその心得をお話しいたしましょう」

タカヒコネは穏やかだが力強い声で語り始めた。ニニキネは真剣な眼差しで師の言葉に耳を傾けた。


「入門編の基礎は『ちみち』と申します。これが基本中の基本です」

タカヒコネは手綱を手に取りながら続けた。


「その後に控えるのが、高度な乗馬法である『あれのり』『いつのり』です。これらの習得には――」

タカヒコネは一呼吸置いた。

「千回もの指導を受け、さらに自主的な練習を積んで、初めて可能となります」


「千回…」

ニニキネは息を呑んだ。その数の重みを噛みしめる。


「はい。しかし焦る必要はありません。まずは馬を知ることから始めましょう」

タカヒコネは優しく微笑んだ。



七、馬の産地と性質


「馬に乗るには、その馬のことを良く知る必要があります。馬は産地によって性質や性格に大きな違いがあるのです」

タカヒコネは馬の背を撫でながら、詳しく説明を始めた。


「まず、ヒタカミ(東北地方)産の馬。これらは筋肉隆々としています」


「力強そうですね」

ニニキネが相槌を打つ。


「そうです。それでいて性質は穏やかで素直です。ほぼ一年間訓練すると『ちみち』の技は大体乗れるようになり、『あれのり』の高度な技にも進めます」


タカヒコネは次の馬を指し示した。

「次に、ツクシ(九州)の馬。こちらは元気さが勝っている様子で、馴れるにも時間が長くかかります。一年半ほどで『ちみち』ができるようになりますが…」

「速く走らせたり、馬上からの騎射をする『あれのり』『いつかけ』には、あまり向いていないのです」

ニニキネは頷きながら、熱心にその特徴を記憶していった。


「それから、コシ(越)のクニ産の馬」

タカヒコネの声が明るくなった。

「こちらは大柄で筋肉も中肉。人とも懐きやすく、慣れ親しみに向いています」

「それは素晴らしい」

「はい。コシクニ産の馬は三、四ヶ月の訓練で『ちみち』ができるようになります。そして人と息を合わせやすいためか、高度な技の『いつのり』までも一気に習得していくことができるのです」

ニニキネの目が輝いた。


「最後に、南のクニ(南海道諸国)産の馬。背丈も小さく、一年ほどで比較的早くに『ちみち』を習得します。しかし…」

タカヒコネは少し困ったような表情を浮かべた。

「やる気が薄いようで、立派な功績を立てるほどの馬にはならないのです」

「なるほど…」

ニニキネは考え込むように腕を組んだ。



八、血統と育て方


「産地別に分類するとこのような特徴がありますが」

タカヒコネは真剣な表情に戻った。

「それと同等に、個別の特徴が馬それぞれに備わっています」


「個別の特徴、ですか」

「はい。強い馬、弱い馬の違いは血統によるところが大きいのです。また毛色の種類による善し悪しの区別もあります」


タカヒコネは馬の鬣を優しく撫でた。

「しかしニニキネ様、最も重要なことをお伝えします」


「何でしょう」


「それは――育ち方、育て方の違いで、馬に備わる性格も大きく変化するということです。これを忘れてはなりません」

タカヒコネの言葉には、長年の経験から得た深い知恵が込められていた。


「生まれつきの特徴も大切ですが、どのように接し、どのように育てるか。それによって馬は大きく変わるのです」


「肝に銘じます」

ニニキネは深く頭を下げた。


「馬の特徴を知った上で乗り慣れる。それで初めて上手く乗りこなすことができるのです」



九、馬術の必要性


タカヒコネは少し表情を引き締めた。

「さて、なぜ我々は馬術を習得しなければならないのか。それもお話ししておきましょう」

風が訓練場を吹き抜けた。


「馬を用いることが必要になるのは、まず稲に付く害虫の発生が起きた緊急の時です」

「民の食を守るために…」


「そうです。また火や水の災害によって生じる生活困難による緊急時。そして――」

タカヒコネは声を低めた。

「法律を犯して他人に災害を及ぼす者が出た時。このような時にも馬の乗馬術が必要となります」

ニニキネの表情が引き締まった。責任の重さを感じている様子だ。



十、「てるたゑ」の技法


「その際には『てるたゑ』の乗馬法を用います」

「てるたゑ、ですか」

「はい。これは手を自由に使えるようにして、剣を持って馬に乗る方法です」


タカヒコネは轡を手に取った。

「轡に付ける手綱には、キヌの布を用いません。チチミヌノ(縮み布)を用います。これを『あかるたえ』と言います」


ニニキネは身を乗り出した。


「八尺の縮み布を二枚、轡の左右のミツツキ(手綱を付ける穴)に結んで輪の状態にします。そして『あかるたえ』の両端の、手に持つべきところの『てつき』を腰の帯に挟み込むのです」

タカヒコネは実際に動作を見せながら説明を続けた。


「腰の左右からの『あかるたえ』の二筋の縮み布が、腰を捻ることによって伸び縮みします」


「その伸び縮みが…」

「そう、轡を通じて馬に伝わるのです」

ニニキネは感嘆の声を上げた。


「腰を左に捻ると、馬に左へ行けと指令を出すことになります。腰を右に捻ると、馬に右へ行けと指令を出す。腰での馬のコントロール法は、まさに高度技術と言えましょう」



十一、アメツチの法則


タカヒコネは空を見上げた。

「これは、アメツチの運行の法則に似たところがあります」

「アメツチの…」

「はい。太陽や月が地球との間に、目には見えないナカクシのつながりを持って巡っているのと同様です」

ニニキネも空を見上げた。青空に薄く月が浮かんでいる。


「あるいは近く、あるいは遠く、に巡ることから季節の移り変わりが生じます。春と秋との季節を中心として、夏には近くを巡り、冬には遠くを巡ります」

「なるほど…」

「このようにアメミヲヤが『あかるたえ』の見えない縮み布を、腰の捻りによって操縦しているような姿と似ているのです」

タカヒコネの言葉には、深い哲学が込められていた。



十二、習得の方法


「さて、この『あかるたえ』の技術を習得していく方法を、具体的にお教えしましょう」

タカヒコネは再び馬のそばに戻った。


「『あかるたえ』の際の乗馬には、まず馬の足取りを見定めておくことが肝要です」

「足取りを…」

「はい。鞍だけを敷き乗せて歩かせてみましょう。前に前進させてみて、後ろに後退をさせてみて。その動き方を見定めるのです」


ニニキネは真剣に頷いた。


「だいたい六十歩ほどの馬の足取りを見れば、その動き方が分かります。これを十分に知った上で乗馬しましょう」

タカヒコネは鐙を手に取った。


「一般的な普通の乗馬法の『ちみち』では金属の鐙が使われます。しかし駆ける時には、重みや重心バランスの良いものが適してきます」

「重心バランス…」

「そうです。鐙をぶら下げている釣り縄は、重力によってまっすぐに下がります。これが駆けた時の動きのうちに、うまくバランスを取れるような鐙を選定することが必要です」


タカヒコネは丁寧に説明を続けた。

「鐙をぶら下げている釣り縄は、『ちみち』の時より五寸短くする程度に調整すると良いでしょう」



十三、腹帯と手綱


「次に腹帯についてです」

タカヒコネは馬の腹部を指し示した。


「『ちみち』の時には緩めで、五本の指が通るぐらいの余裕があると良いです」

「五本の指が…」

「はい。しかし『いつかけ』などの高度な馬術をする時には、腹帯も少しきつい位に締めるようにしなくてはいけません」


タカヒコネは続けた。

「また尻掛い(馬の尻につける緒)や胸掛い(馬の胸につける緒)も鞍の前後の穴に通します。そして轡に付ける手綱は、一丈六尺のものを使います」


ニニキネは一つ一つを記憶していく。


「手綱の中間あたりをキツナに添えます。手綱の片一方は轡に付けます。これで左右の両方に運動が伝わります」

「なるほど」

「また手綱のもう片方は手に握るのです。この仕掛けによって、馬が操縦不能に陥ることを防ぐことができるのです」

タカヒコネは満足そうに頷いた。


「これは『ひとぬきま』とも呼ばれます」



十四、「てるたえ」の極意


「さて、『てるたえ』のさらなる高度な乗馬法をご説明しましょう」


タカヒコネの声が一段と厳かになった。

「『てるたえ』での手綱は一丈六尺のもので同じと言えますが、『あかるたえ』の縮み布を用いますから、いつも同じ寸法とは言えません」


ニニキネは集中して聞き入った。


「轡の左右のミツツキに手綱を付けて、人の両腕で馬をコントロールするようにします。この手綱の中ほどあたりを持つのがポイントです」

「中ほどを…」

「はい。縮み布の『あかるたえ』ですから、『てるたえ』の技を為すにも抜ける間をおくことなくできるのです」


タカヒコネは一通りの説明を終えると、深く息を吐いた。

「これが私の師であるヲハシリから受け継いだ教えです。さあ、実践してみましょう」



十五、修練の日々


こうしてニニキネの長い修練の日々が始まった。

初めは「ちみち」の通常の乗馬法から。朝早くから日が暮れるまで、繰り返し繰り返し練習を重ねた。


「もう一度!」

タカヒコネの厳しくも優しい声が響く。

「はい、師匠!」

ニニキネは何度落馬しても、すぐに立ち上がった。


慣れるに従って「あれのり」へと進んだ。何か月もかけて、体に技を染み込ませていく。


春が夏に変わり、夏が秋に変わり、秋が冬に変わった。

そして次には「いつのり」である。高度な馬術の「いつのり」の習得には、何年にも渡っての練習が必要だった。


「もう少しです、ニニキネ様!」

「はい!」

冬の寒さも、夏の暑さも、ニニキネの修練を止めることはできなかった。



十六、技の完成


そして、何年もの練習の末――

ニニキネは「いつのり」をついに習得したのである。


「やった…やりました、師匠!」

ニニキネは馬上から両手を自由に使いながら、馬の走り方も自在に操縦していた。

タカヒコネは静かに頷いた。その目には、誇らしげな光が宿っていた。


「見事です、ニニキネ様」

実際にニニキネが「いつのり」をできるようになって初めて、この技術の精緻さに深く感動したのだった。馬と人とが一体となる、その神秘的な境地。



十七、称号の授与


「いつのり」の技術を完成させたヲハシリには、アマテルカミより「ヰツ」の称号がヲシテに染めて賜われることとなった。


「ヲハシリ殿、汝の功績を讃え、『ヰツ』の称号を授ける」

厳かな儀式の中、ヲハシリは深く頭を下げた。

これによりヲハシリは「ヰツヲハシリ」と尊んで呼ばれることになった。


またヲハシリの弟子でニニキネの指導をしたタカヒコネには、「フタアレ」の称号がヲシテに染めて下賜された。


「タカヒコネ殿、汝もまた『フタアレ』の称号を受けるに値する」

「恐れ多いことでございます」


タカヒコネの子や孫も「ムマノキミ」と尊称されることとなった。

ヰツヲハシリとタカヒコネには、「フタアレカミ」の尊称が付けられた。



十八、賭弓の儀


宮中では、ノリユミの技を競うものの中に、賭弓と呼ばれる弓の競技があった。


「さあ、始まるぞ!」

「今年は誰が勝つだろうか」

賭弓は宮の西側で行われており、勝ち組は布を賜り、負け組は罰の酒を頂くことになっていた。


馬上から弓を射る流鏑馬の宮中行事は、旧暦の五月五日に行われていた。


「それっ!」

矢が的を射抜く音が響く。

観衆から歓声が上がる。

ニニキネもまた、この儀式に参加していた。長年の修練で身につけた技を、今こそ披露する時である。


馬を駆り、弓を引く。その姿は優雅でありながら力強く、見る者すべてを魅了した。

「見事だ!」

「さすがはニニキネ様!」

称賛の声が響き渡る中、ニニキネは静かに微笑んだ。


こうして馬と人との絆は、新しい時代へと受け継がれていくのであった。


馬術の技は、単なる技能ではない。それは人と馬との対話であり、天地自然の理を体現するものである。ニニキネの修練の物語は、後の世にまで語り継がれることとなった。

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