禁じられた想い、オロチとなりて
第一章 権威の確立
斐伊川の水音が響く静寂な朝、ソサノヲはヒカワの地に降り立った。
川霧に包まれた出雲の大地は、まだ夜明けの薄闇に沈んでいる。
彼の瞳には、アマテルカミの弟としての威厳が宿っていたが、
同時に若者特有の焦燥感も隠しきれずにいた。
「アメオシヒを呼べ」
ソサノヲの声は、朝の冷気を切り裂いた。
サホコのクニの准国司であるアメオシヒは、慌ただしく駆けつけると、
深々と頭を垂れる。
ソサノヲは彼を私設の臣として配下に組み入れることを告げた。
特赦により罪が半減されたシラヒトとコクミ
——中央政府への不満を募らせる彼らの監視を徹底し、
再び悪事を働くことを防ぐためであった。
ソサノヲの胸には、まだ無名でタミに知られていない自らの権威への焦りが燻っていた。その権威を示すため、彼は祖父トヨケカミのご陵所であるアメノマナヰへの参拝を決意する。
京丹後の比沼麻奈為神社への道程は遠く、馬の蹄の音だけが山間に響いていた。
第二章 運命の出逢い
アメノマナヰの境内は、古杉に囲まれた神聖な空間だった。
朝露に濡れた石段を上るソサノヲの足音が、静寂を破る。
参拝を終えた彼が振り返ったその時、
陽光に照らされた若い女性の姿が目に飛び込んできた。
彼女の立ち姿には気品があり、風に揺れる袖が舞い踊るようだった。
ソサノヲの心は、瞬時に激しく打った。
「あのお方は?」
侍女に問いかける声は、普段の威厳ある調子とは異なり、どこか上擦っていた。
「あのお方は、ツクシのアカツチ様のお嬢様でハヤスフヒメ様とおっしゃいます」
侍女の返答を聞くやいなや、ソサノヲは使者を九州へ立てることを決める。
その夜、彼は眠れぬ時を過ごした。
月光が障子に映る影を見つめながら、ハヤスフヒメの面影が脳裏を離れない。
九州のアカツチからの返事は好意的だったが、条件が付いていた。
「結婚にはちゃんとした住まいが整っていなくては、父としては承諾できません」
ソサノヲは役職的には役人見習い。
自分のミヤを持てない身分への焦燥感が、胸の奥で渦巻いた。
夜毎に襲う悶々とした思いは、彼の心を蝕んでいく。
第三章 危険な慰め
そんなソサノヲの苦悩を慰めてくれたのが、モチコとハヤコの姉妹だった。
二人ともアマテルカミのキサキとして後宮に入内していたが、
政務に忙殺される夫への寂しさを抱えていた。
宮中の北の局は、夕暮れ時になると薄紫の空が障子越しに漏れ、
どこか物憂げな雰囲気に包まれる。
モチコは北の局の取り纏め役として、
義弟にあたるソサノヲに姉のように接していた。
だが、年若いハヤコの心境は複雑だった。
「ソサノヲ様は、アマテルカミ様によく似ていらっしゃる...」
ハヤコの胸の奥で、禁じられた想いが芽生えていた。
それは家族への親愛を越えた、危険な感情だった。
モチコも妹の想いに気づいていたが、見て見ぬふりを決め込んでいる。
秋の夜長、北のキサキのミヤにソサノヲが宿泊する姿を侍女が目撃した。
その噂は燎原の火のように宮中に広がっていく。
第四章 破綻の兆し
「これは看過できない事態です」
アマテルカミの後宮取り纏め役の厳しい声が、モチコとハヤコの運命を変えた。
二人のキサキのミヤ仕えは中止となり、
月替りでのキサキの当番からも外されることになった。
北の局に重い沈黙が落ちる。
モチコとハヤコの姉妹は、深い悲しみに暮れていた。
庭の紅葉が散り始める頃、ソサノヲも自分の軽率な行動が義姉たちの立場を悪化させてしまったことに激しく動揺する。
「私が政庁へ行って事実を話そう」
勇気を振り絞って立ち上がろうとするソサノヲを、ハヤコが必死に押し止めた。
「今の状況で事実を正直に話した所で、お互いの立場が悪くなってしまいます。
今動くのは思い止まって下さいませ」
ハヤコの瞳には、涙が光っていた。
「今後、ソサノヲ様の立場が大きくなり、
政治の中で物事を動かせるようになれば、
天の下の国の中心で、アマテルカミ様に対抗できる程の実力を持つことも
夢ではありません。今は時が過ぎるのを待ちましょう」
「しかし!……」
ソサノヲの胸に、ハヤスフヒメとの婚約が立ち消える恐怖と、
出雲での権威失墜への不安が交錯する。
正義感と保身の間で、彼の心は激しく揺れ動いた。
第五章 発覚
慌ただしい雰囲気が漂う中、足音が廊下に響いた。
現れたのは正皇后ホノコの妹、ハナコだった。
「どうなさいましたか?」
咄嗟にハヤコが取り繕うが、ハナコの鋭い眼光は全てを見抜いていた。
実は彼女は侍女たちの噂話から異変を察知し、密かに調査を進めていたのである。
モチコたちの傍付きの侍女からも定期的に報告を受けていた。
事情を把握したハナコは、急ぎ姉のホノコに報告する。
秋風が宮中の庭を吹き抜ける中、正皇后の決断が下された。
第六章 厳しい裁き
正皇后ホノコの前に召し出されたモチコとハヤコ。
重厚な御簾越しに聞こえる声は、冷ややかで威厳に満ちていた。
「ハヤコ様、あなたはアマテルカミ様の北のキサキでありながら
弟のソサノヲ様と逢瀬を重ねていますね。
モチコ様はその北の局の取り纏めの立場でありながらそれを黙認し、
隠滅を図ろうとしていました」
二人の顔が青ざめる。
「そこで、あなたたち姉妹を九州での蟄居を命じます。
子供達のことは、昔より、男の子は父に。女の子は母に。
と引き取りが決まっていますから
モチコさんの皇子のタナキネは父のアマテルカミの許にて育てます。
ハヤコさんの三人の娘さんたちは共に九州に下ってもらいます」
しかし、ホノコの声にはどこか慈悲の響きもあった。
「とはいえ、今回の事の顛末として、ソサノヲ様の複雑な立場を思いやり
寄り添う事で心惹かれてしまった事は、局としての相応しさはともかく、
妻としての寂しさからくるものである事は、私も理解できます。
あなた方の振る舞いに対する深い反省と、
その様な優しい想いを持ち続ける事ができれば、
あなた方の立場もやがて改善する機会は訪れます」
第七章 九州での新天地
九州のアカツチは、その報せを受けて素早く行動に移した。
宇佐の地に新たなミヤを築き、
モチコとハヤコの姉妹とその皇女たちを迎え入れる準備を整える。
「アマテルカミ様のキサキ方がおいでになる!」
ツクシの人々は大歓迎だった。
九州の澄んだ空気の中、
新設されたミヤにお入りになったモチコとハヤコは、
当初は穏やかに人々の相談事に応じていた。
自分たちを慕い、心から歓迎してくれるタミの姿を見て、
二人の心に少しずつ希望の光が差し始めた。
ある夕暮れ時、庭の桜が美しく咲く中で、姉妹は心を開いて語り合った。
「姉様、こちらの方々は私たちを本当に必要としてくださっている」
ハヤコが庭の花を見つめながら呟いた。
「そうですね。都での辛い出来事ばかりに心を奪われていましたが、
ここには私たちを待っている人々がいる」
モチコも微笑みながら答える。
「私たち、ここで再起の機会を待ちましょう。
そして都に帰ることが早まるよう、
このタミの方々の助けになれるように二人で力を合わせて頑張りましょう」
「はい、ハヤコ。私たちにはまだできることがあります。
私達の心も、きっといつか理解していただけるでしょう」
二人は手を取り合い、九州の地で新たな決意を固めた。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
第八章 裏切りへの憤怒
「北のツボネに別の人が当てられた」
ミヤコからの知らせが九州に届いた瞬間、姉妹の表情が一変する。
「これでは戻るところが無くなったも同然。
ホノコ様も約束を破られるとはどうゆうことでしょう」
モチコとハヤコの怒りは激しく燃え上がった。
二人はミヤの扉を固く閉ざし、誰の面会も拒絶するようになる。
第九章 正皇后の苦悩
この事態がミヤコに伝わると、
正皇后セオリツヒメ(ホノコ)は深いため息をついた。
御簾の向こうで、彼女の表情は苦悩に歪んでいる。
実は今回の局内での移動には、
十二人のキサキの間でのモチコとハヤコ姉妹への配慮があった。
キサキの座を巡る臣たちの内輪もめを防ぐため、
西のオシモメであるトヨヒメ(アヤコ)に北の局のウチキサキになってもらい、
一時的な預かりを依頼したのである。
「北の局を空席にはできないことはモチコ様達も理解している筈。
このままでは臣達に介入する余地を与えてしまう...」
セオリツヒメは、トヨヒメに事情を説明させるため、九州への派遣を決断する。
第十章 絶望からの転落
北のキサキに昇格したトヨヒメがこちらに向かっていることを聞いた瞬間、
キサキから降下された自分達を煽られた様に感じた
モチコとハヤコの憤りは頂点に達した。
「九州のミヤにすらも居させないつもりなのでしょうか?
ホノコ様は私達を完全に見捨てたのでしょう」
絶望に打ちひしがれた姉妹は、ついに決断を下す。
シラヒトやコクミといった中央政府への不満分子のいる、
サホコ(出雲)のヒカワへ向かうことを。
斐伊川の濁流のように、彼女たちの心は既に正道を外れていた。
第十一章 オロチの誕生
出雲の地で、アマテルカミの元キサキであるモチコとハヤコは、
ソサノヲの監視の目が緩んだ隙に国司の許から逃げ出した
シラヒトとコクミを配下として反抗勢力「オロチ」を結成する。
彼らは狼藉を働いて暮すようになった。
被害者は一般国民だった。しかし、相手があのアマテルカミのキサキだったため、
被害を受けた人々は訴えることも憚られ、ただ泣き寝入りするしかなかった。
出雲の山々に暗雲が立ち込める中、都でもモチコ・ハヤコの蟄居に伴う一連の出来事に不満を持ったソサノヲが騒動を起こし始める。
世の中はいよいよ暗雲に満ちてきた。
嵐の前の静けさが、大地を覆い尽くそうとしていた。




